18.逆様の天使
木曜日深夜二時三十分
粘液の巨樹の上で、其処に熟れる実を食べている者がいる。
下半身が蛇の姿を女性だ。彼女が枝からもぎ取る果実は赤く、形としては林檎のように見える。
「それ、美味しいの?」と、傍らに居た黒い髪の少女は聞いた。
切られたことのない彼女の髪の毛は、前髪も後ろ髪も、肩につくほど長い。前髪を分けて顔を出している。その瞳は朱緋色をしていた。年の頃は三歳くらい。
「ええ。私達には、最高のご馳走よ」と、半蛇の女性は答える。「貴女も、どうぞ」
そう言って差し出された実を少女は受け取る。そして、カプリと齧った。齧った部分から果汁が溢れ出す。
「甘い」と言って、少女は口の中身を咀嚼し、二口、三口と齧って行く。その口の周りは透き通った果汁でべとべとになった。
半蛇の女性は、慈しむようにその様子を見て、少女の頬に手を伸ばし、手の甲で果汁をぬぐってあげる。
少女は、不思議そうに「ねえ、リリス。貴女の事、どうしてリヤって呼ばなきゃならないの?」と聞いてきた。
「リリスは内緒の名前だからよ」と、女性は言う。「この事は、ターナと私だけの秘密だからね?」と、笑顔で言う。
「うん」と答えた少女は、真ん中の芯の部分だけになった果実に噛みついて、まだ果汁を啜っている。
「芯は地面に捨てて、新しい実を食べなさい。その方が栄養があるわ」と、リヤは言い、少女の背丈では届かない位置にある果実をもぎ取って、手渡す。
それから幼子に言い聞かせた。
「ターナ、貴女は、いずれイブになるの。三人の子供を生んで、大切に育てるの。だけど、そのうち二人は死ぬ事になるわ。三人目が生き残るためにね」
半蛇は優しく語り掛け、黒髪のターナは「そうなの?」と聞いてくる。疑問と言うより、確認のために。
「そう。世界を創生する神話の中では、そう決まっているの」と、リヤは説く。それから、彼女も確認する。「貴女が生まれた方法は?」
「えっと……。エムの肋骨を取り出して、それから作られたの」と、ターナは以前から聞かされていた言葉を返した。
「違うわ。エムじゃなくて、彼はアダム」と、リヤは訂正する。「彼の肋骨の細胞から、貴女は作られたの。アダムは貴女のオリジナルであり、世界に名を付ける者であり、夫よ」
「おっとって何?」と、ターナは聞く。
「貴女を守って、養ってくれる人。子供を身ごもると、人間は体の自由が利かなくなるの。その間に、貴女の面倒を看てくれる人の事を、夫って呼ぶの」
リリスがそう説明すると、ターナは頷いて、「それじゃあ、とっても大事な人だね」と答えた。
「ええ。私が貴女の面倒を看るのも、いずれアダムの妻になる時に、必要な事だからよ? 私が木の実を取ってあげたように、アダムにもこの実を食べさせてあげて。とても喜ぶわ」
リヤから新しい実を手に受け取り、ターナは「うん」と元気に頷く。そして、また赤い実を齧り始めた。
地上では、各清掃員達により、巨樹と化した邪霊の撤去作業が行われている。
各所でマンホールを吹き飛ばして伸びた根は、瞬く間にどんどん成長して、巨樹を支える立派な根っことなっていた。
アーヴィング夫人から支給されたランタンの炎を軸に殻を展開して、一本一本と樹の根を焼いて行く。
ウルフアイ清掃局の局員にとっては、個別で担える仕事ではない。
複数人、最低でも二人で地下道を囲む陣を組んで、じりじりと炙り焼きにしている。
樹の根っこは「炙り焼き」でも、表皮からボロボロと崩れてくる。それに気をよくしていると、他の場所から局員の悲鳴が聞こえてくる。
別の位置にある根が太り始めたのだ。おまけに、多少の火炎を浴びせても燃えず、攻撃に対しての防御の様子を見せた。
「アンは、何処に行ったの?」と、ナズナ・メルヴィルが周りの清掃員に聞いた。
清掃員の一人が、ニュースブックを開いて、「置手紙を残して姿をくらませたらしい。手紙に書かれていたのは……『挟み撃ち』だそうだ」と述べる。
「挟み撃ち……」とナズナが復唱した時、ジープが一台、割れて凸凹になっている岩盤を走ってきた。
運転席からはギナ・ライプニッツ、助手席からはシェル・ガーランドが姿を現わす。
「状況は分かってる」と、シェルは自分達のニュースブックを叩いて言う。本をギナに渡し、「地下に潜入する。邪気の発生源になってる光源を壊す」と言い出した。
「その……貴女の体についてるのが、『邪霊吸引機』なの?」と、ナズナは聞く。
「その通り。実体化してる邪気に邪魔されずに、地下に潜るなら必要だ」と、シェルは説明する。「私とギナで光源を壊すまで、この周りの地区のマンホールを『浄化』し続けてくれ」
「分かった」と、ナズナは答え、ランタンから取り出した「炎」を拡大して、自分達の目の前にあった樹の根を焼き尽くした。
「今のうちに」と、ナズナが短く言うと、シェルとギナが、一時的に空っぽになったマンホールを降りて行った。
シェルは邪気の濃度が濃い事を察して身の回りを殻で多い、梯子を下りている間に吸引機のホースを下に向け、スイッチを入れた。
ヴィーンと言う低い音が鳴り始め、煙のような邪気を放つ粘液状の邪霊が、吸引機の中に吸い込まれて行く。
根を再生しようとする邪気を吸い込みながら、シェルとギナは地下道を前進した。
木曜日深夜二時
鼓動を打つように、硝子のケースの中に取り出された魂が、脈打っている。
それは透明な水の塊のようだった。丸く形をとり、ゆらゆらと揺れている。
意識を失っているエム・カルバンは、移動式の寝台から固定式の寝台に移され、胸の皮膚を切り裂かれていた。
肋骨が露出するように、薄い筋肉が切り分けられ、その肋骨の一部は僅かに切除されていた。
エムの体内には、至る所に赤いポリープが出来ており、それはあの巨樹の上でターナとリヤが食べていた実のように見えた。
素人仕事の荒っぽい手術を施されたエムは、目を覚まさない。
開いた胸の皮膚と肉を元の位置に戻してから、手術を執刀した人間もどき達が、炎の翼を持つ「大天使」に向かって血だらけの手を差し伸べ、祈りの言葉を唱えた。
「天の御使いよ。癒したまえ」と、声を揃えて。
その声を受けて、「大天使」は、エムの体に力を送った。
少年の体に力が満ちて、傷が治癒する。それと同時に、エムの魂が灯っていたケースの中に、「大天使」の電光が走った。
「アダムよ。ひとつとなる時が来た」と、大天使は呼びかけ、エムの魂に自分の身を宿す。
其れまでピクリとも動かなかったエムの体が跳ね、両手で頭を押さえた。何かを吐き出すように咳き込んでいる。
五歳の体は急激に成長し、子供に着せるサイズの手術着を引き裂く。
電光の翼がその身の背に宿り、光を帯びた衣が、成長した体を覆う。
瞼を開いたエムの瞳は、朱に近い緋色に染まっていた。




