満足した王様と不満足な従者3
ルシフ種の娘達が、涼やかな声で歌う季節になりました。
ブルベはその声を聞くのが好きです。城の中の最南端の城壁に上って、黄色く色づき始めた山々を見つめ、昼間の暖かい気流を受けながら、其処に混じっている声に耳を澄ましました。
しかし、三十秒も待たないうちに、ゼブは景色を眺めるのも、耳を澄ますのにも飽きてしまって、岩と缶からで太鼓のセットを組むと、爪の長い手でカチカチテチテチと叩き始めました。
「うるさいなぁ」と、ブルベは文句を言いました。「君は一体、何千年生きているんだ? 子供みたいに物音を立てたがって」
「年齢を忘れるくらいは生きてるさ」と、ゼブは答えます。「なんにも聞こえてこないのに、耳を澄ませてるなんてばかばかしい」
「君には、精霊の声を聞く才能はないの?」
「ルシフ種の悲鳴なんて、唯の風の音だ。耳を澄まさなくても聞こえる」
「悲鳴なんかじゃない」
そう言い返して、ブルベは、ある特定の波数を持つ声に耳を傾けました。そしてうっとりとしたような表情をすると、「悲鳴なんかじゃないさ」と呟くのです。
「ブルベ」
少し諫めるような声で、ゼブは言います。
「精霊に恋患っても、叶わないもんだよ」
「分かってるよ。だけど、影にキスをするくらいは、叶えられるだろ?」
「ルシフ種は影を――」
影を持たない、と言いかけて、兄弟をちらっと見たゼブは、ブルベが怒りだしそうな様な、泣き出しそうな様な、複雑な表情を浮かべて自分を見ているのが分かりました。
ゼブは、ブルベが本気でこの「風の唸り」を発する誰かに恋心を抱いていると知ったのです。
ゼブは視線を下げ、「悪かった」と謝りました。
「たぶん僕達」と、ブルベは兄弟から顔を背けて言います。「そう言う試練を持ってるんだと思う」
「試練?」と、ゼブは聞き返します。
「本当に腹が立っても、絶対に一人で心を落ち着けられない試練」
ブルベがそう言うので、ゼブは言い返しました。
「僕は付いて行くよ。いつかお前が本当の孤独を望んでも」
「鬱陶しいやつ」と、ブルベは二人の間では、一番怒った時に相手を罵る悪口を言いました。
「そりゃどうも」と、ゼブは返しました。
再び、王の間に招かれたゼブとブルベは、フルートと踵の音で、王の耳を和ませました。その時、王は眠っているように見えました。
長い眉毛の下の瞼を持ち上げる事もしないので、ゼブは不思議に思いました。何時も、ゼブ達が来ると、挨拶の代りに、片方の瞼を持ち上げてみせるのに。
異変を感じてから数秒もしないうちに、王に取り付けてある装置が、機能不全を起こしました。
ノスラウ王は、頭に蓄積していた霊気をあっと言う間に吸い込んでしまうと、急に何かに急き立てられるように手をばたつかせ、口を覆っている鋼のマスクをむしり取りました。
そして、手近に居た一対の魔神の、フルートを奏でているほうを掴むと、牙の生えた歯列の中に、その体を押し込んだのです。
拍動の間――言うなれば手術室――の寝台の上で、ブルベが目を覚した時、隣にゼブは居ませんでした。その代わりに、胸から上を失った彼の躯が、隣のベッドの上にありました。
ブルベの意識が戻っている事を知った魔神の一人が、「ゼブは助からなかった。これから、分離手術をする。ブルベ、もうしばらく眠っていてくれ」と言いました。
そして、ブルべの口に鋼のマスクが取り付けられ、鎮静の術と同じ作用がある気体の吸入が始まりました。
腰の斜め後ろでくっついていたゼブとブルベの体は、幾つかの重要な血管を切り裂いて縫い合わせられ、ブルベの体内で血液が正常に循環するように処置してから、「状態回復」のような術を使ってもブルベ単体の状態までしか戻らないように、封印が成されました。
ブルベは、いつか望んでいたように、一人になる事が出来ました。しかし、それは思っていた以上に「静か」なものでした。
もう、やかましいときもあれば、美しいときもあった、あの、ゼブが作り出す音色を、真横で聞くことは出来ないのです。
「何故、王はゼブの命を奪ったんだ?」と、ブルベは術後の経過観察のために訪れた、分離手術の執刀医の下で聞きました。
「恐怖に憑りつかれたんだろう」と、執刀医は言いました。
「この星に存在する全てが持っている、一番根源的な感情だ。みんな、命が途切れる恐怖を何処かに持っている。
ノスラウは、常に後継者は自分の地位を剥奪し、自分の命を奪うはずだと言う恐怖を持っている。だから、優れた古の神々は大半が彼に食われたんだ。そして、ゼブも」
「そんな狂った王様を、僕達は保護しなきゃならないのか」と、ブルベは疑問ではなく、諦めを口にしました。
「恐怖を持たないのは、ユニソーム達のような、外の世界から来た永劫の者だけだよ」
執刀医はそう声をかけ、まだ傷が消え切っていない、ブルベの臀部と太腿に僅かの治癒をかけると、「お大事に」と言って、退室を促しました。
思考の間で、ブルベは蹄に取り付けた踵を外すのをためらっていました。もう、ゼブの身長に背丈を合わせる必要もないのです。
ですが、ゼブが「カッティングケイク」と名付けた、この特有のカチカチ音を鳴らす歩行器具を外してしまったら、本当に自分は一人になってしまう気がしました。
一人の体を持った、唯のブルベとして生きていく事は、ルシフ種の娘に恋をした時、切に願った生き方でした。
ブルベは長椅子に座ったまま、少し膝を浮かせては下ろして、踵が「カッティングケイク・カッティングケイク・カッティング・カッティング」と鳴るのを聞いていました。
ブルベは、ルシフ種の娘の影に口づける事を、考えるのをやめました。恋に破れた時、肩を抱きしめ、心を分け合ってくれる兄弟は、もう居ないのです。
蹄に植えこんであったネジを外そうと手のをばしました。その時、「僕は付いて行くよ」と言う、ゼブの言葉が思い出されました。




