雨の日だって好いもんだ3
ガルムは、何処も見ていないような、目の前にあるベイクドチーズケーキに、ぼんやり眺めているような視線を向けながら、ぽつぽつ話した。
「三年くらい前の事です。当時の事は、俺もよく覚えてないんです。家が誰かに燃やされて、姉に逃げるように言われて、逃げてる途中で意識を失って、気づいたら、姉も俺も、空の高い所から落っこちそうになってて……。
姉の腕が、俺の体から離れて、必死に手を伸ばしました。そしたら、背中から熱みたいなものが出てきて、体が浮いて。姉を受け止めることは出来ました。
後は、ハウンドエッジ基地の軍人さんに教わった通りに、エネルギーを操って、基地に連れて来てもらったんです。俺達を連れて来てくれたのは、タイガさんって言う名前の人でした。知ってますか?」
アヤメは頷き、「私の後輩」と答えた。
「そうですか。運が良かったのかな」と、穏やかにガルムは返した。「それで、この目の事は、一部の人だけの秘密にしてもらって……。中等科を卒業してすぐ、予備軍に入隊したんです。後は……大体、みなさんと同じ通り」
「その頃から、アンは眠ったきりなの?」とアヤメが聞くと、「はい。自発呼吸はあるんですけど。意識は戻ってません」と、ガルムは要点だけ伝える。
それで、アンが目を覚ますまで、お菓子作りを続けているのか、と言う結論は、アヤメは言葉に出さなかった。
虚しいと見限ってしまう事も、可哀想だねと慰める事も、頑張ってなんて無責任を唱える事も出来なかった。
アヤメも、目の前の一切れのケーキを眺めながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
アヤメにとって、アンとの記憶は、十七歳のあの日に会った切りだ。
今、眠りの中にいるアンは、一体何を思っているだろう。悪夢に苦しんでいるだろうか。それとも、穏やかな良夢の中にいるだろうか。
閉じた時と、ほとんど同じくらいゆっくりと瞼を開ける。目の前のケーキが滲んでいた。
「アヤメさん?」と、ガルムが呼び掛けてくる。
アヤメは、自分の目の涙の量が増えてることに気付き、慌てて目頭を拭った。瞬きと同時に、雫が一滴、頬に落ちる。
「私が泣いてちゃ、立つ瀬が無いな」と、照れ隠しを言う。
「たつせ?」と、ガルムは聞いたことの無い言葉を復唱する。
「立場って意味」と、アヤメは赤らんでいる目元を伏せる。そして、かつての戦友のように、大きく息を吸って吐き、傍らの少年を見ると、「ガルム君。君は、諦めてないんだろ?」と、聞いた。
ガルムは目を瞬かせ、唇をかむ。膝の上で、彼はぎゅっと手を握った。
アヤメは言い聞かせるように言う。
「お姉さんが何時か目を覚ますって、信じて……ううん。分かってるんだろ? だから、待ってられるんだ。こんなせまっくるしい基地の中で、休みの度にケーキを焼いて。
アンは、全然、弱い女とかじゃない。私が感心しちゃうくらい、すごく……手際が良くて、何でも分かってる。最善を尽くす方法が分かってる。彼女が眠ってるのは、それが必要だからなんなんだ。だから、君に出来ることは、最高の一切れを彼女に渡す事だよ」
そう言ってから、アヤメはすっかり冷めた手元のケーキを手づかみで持ち上げ、溶けかけているホイップクリームをつけて、口に運んだ。
大口を開けて、三口くらいで一切れを全部食べ切り、指に付いたクリームを舐めた。
何を聞こうかと言う風に、ガルムはその様子を眺めている。
口の中身を飲み込んでから、「うん。お店以上」と言って、アヤメは空になった皿を、ついっと少年のほうに返す。「洗っといて」と。
「あ。ああ、はい……」と、空になった皿を受け取り、ガルムは呆けたような表情から、苦笑いのように目元と口元を笑ませた。
「何?」と、アヤメは聞いた。
「いや、何でも無いです」と言いつつ、皿を眺めるガルムは、片手の親指で頬を掻き、「何か……姉に会ったみたいだって、思って」と述べてた。それから、正面を向いて歯を噛み合わせ、茹で上げたように顔を真っ赤にした。
どうした? と思って、アヤメが少年の視線の先を見ると、まるで地母神のように微笑んで、二人を見つめているマダムが居た。
「もうぅ~! 私、顔出す前に、一度目元を拭ったわよ!」と、マダムは別室で熱弁する。「あの子はね、根は優しくて良い子だって分かるんだけど、何となく、私にも、他の子達にも、白々しいと言うか? 距離置いてる所があるのよ。それを一気に飛び越えて、『姉に会ったみたい』だなんて……私だって言われたことないのよ?!」
マダムはそう言いながら拳で机を叩き、再び涙腺が緩んできたようで、何度も何度も備え付けのペーパータオルで目を拭って、鼻をかむ。
ああ、言われたいんだと思いながら、アヤメは出されたお茶を、音を立てずに啜った。
「そんなわけで」と、マダムは顔を整えてから仕切り直した。
「あなたは言葉を伝えた以上、私と一緒にあの子の成長を見守るの。何も、いつも顔を出せなんて言わないわ。
あの子だって、一人で抱え込んでる問題があるんだから、それを時々聞きに来るくらいの働きを見せなさい。それが、あの子の、最高のチーズケーキを食べた者の使命よ!」
それって使命なんだ……と、アヤメは心の中で唱えたが、アンに身内が居て、その人物が同じ基地で働いているんだったら、時々顔を見せても良いかもしれないと考え直した。
「分かりました、マダム」と、アヤメは答える。「マダムが惚れこんでるチーズケーキですから、食べ逃げはしませんよ」
「分かってくれる?!」と、マダムは向かいの席からでかい顔面を近づけてくる。「良い? 前もって言っておくけど、きょうだいのピュアな愛の中に、他人がちょっとだけ入り込むだけですからね?」
「入り込むと言うか……。そっと見守りませんか?」と、アヤメが言うと、「もちろん、第三者視点は大切よ? だけど、人間って言うのは、いかに孤独でも、誰にも関わらないで生きていくことは……」と、愛弟子を思いやるマダムの熱弁は、滔々と続いた。




