雨の日だって好いもんだ1
しとしとしとしとしとしと。と、然して耳につく音もなく、細かい雨は降り続ける。
季節は真夏。冬でもないのに雨季に入って、静かな雪ではなく雨が降って、それが全く明けないのだ。
今回の休暇は基地で過ごすことにしたアヤメ・コペルは、ベランダに出て、この雨模様では家に帰っても出かける事も出来なかっただろうと想像し、長子の役目から解放されたことを少しだけ喜び、低気圧による多大な頭痛に苦しんでいた。
痛み止めは飲んだのだが、胃壁に悪影響を及ぼす薬のなので、そんなに大量には飲めない。珍しい薬でもない。昔から伝わるその薬剤は、アスピリンと呼ばれる。
頭痛は鈍くなり、眠気が襲ってきて、ついでに胃が痛い。頭痛を目立たせなくする代わりに、胃壁を犠牲にしているのかも知れないと思ってしまう。
「アヤメ。粘ってないで、横になりなよ」と、ルームメイトが声をかけて来る。ケーナと言う名の、赤い肌と呼ばれる人達の血を継いでいる女の子だ。
彼女の髪は黒く、皮膚は僅かに赤みのある褐色だが、その瞳は鮮やかなグリーンだ。混血による稀有な発色をしたのだと言う。
ノブレス・オブリージュが広まっているこの国では、一応、階級以外に他人を差別するカテゴリーはない。階級としては差別されるわけだが、人種への差別はそんなにないはずだ、とされている。
しかし、暗に向けられる「カラーズ」への視線や、言葉の引っ掛かりを意識している身の上としては、ケーナとアヤメは同じ境遇を分かち合える仲だった。
ケーナの血筋は、西の陸塊の南側にある山脈付近から来る。その土地で「ケーナ」とは、「笛」を指す名前だ。
そんな名前を付けられたケーナは、名前が示すように高く涼やかな声をしている。吐息をたくさん含んだ歌を歌わせると、その高音はより一層映えた。
アヤメはぼんやりとそんな事を考えてから、言われた通りに屋内に引っ込み、二段ベッドの下に横になった。
「何か食べたい物はある?」と、ケーナが聞いてくれる。
「頭痛に効くもの。それから、胃痛に効くもの」と、アヤメが呻くと、ケーナはしばらく考えてから、「ちょっと待ってて」と言って、貸し出し用の厨房のほうに行った。
基地の貸し出し厨房には、番人と呼ばれる食品衛生士が居る。その人物は、基地の料理好き達が集めたがる食材から、腐っている、もしくはもうすぐ腐ると判断したものを、何の容赦もなく生ごみ入れに廃棄する事で恐れられている。
キングストンと言う名の兵士の作ったビーフシチューは、作りだめした当日のうちにゴミ袋行きになった。
理由は、「多大なる悪臭を放っていて、他の食材と厨房の環境に悪影響を及ぼしたからだ」そうだ。つまり、キングストンの料理技術は、番人の認めるレベルでは無かったのだ。
そんな番人の愛称は、マダム・オズワルド。男性なのだが、オズワルドの身振りや口調や手の動かし方等、諸々の要因からそう呼ばれている。そして、オズワルド本人も、マダムと言う呼び方が気に入っている。
「料理は、遊びじゃないのよ」と、マダムは、休暇の楽しみとしてお菓子作りや料理をしようとする兵士達に苦言を呈す。
「本当にあなた、作ろうと思ってる? 小麦粉も、卵も、バターも、全ては神が与えて下さった素材と言う傑作なのよ? それを使って、あなたは本当に新しい物を作ろうと思ってる?」
初めて貸し出し厨房を利用する者は、まずマダムのこの問答に耐えねばらならない。
自分が何を作ろうとして、どんな材料を集めて来て、どんな気持ちで居るかを簡潔に述べ、マダムの了承を取らないと、施設の軽量スプーン一本にも触らせてもらえないのだ。
「こんにちわ」と言って、マダムに馴染みの兵士が来た。灰色がかった白い髪をショートカットにしている、青い目の若い兵士だ。年の頃は十七、八。
「ガルム・セリスティア~」と裏声を出し、さっきまで椅子に座ってぶすっとしていたマダムは、ライトグレーの瞳を輝かせ、骨太い妖精のようにその兵士に近づく。「また、お姉さんへのプレゼントを模索しているのかしら? 魚醤君?」
「マダム。その魚醤とは綴りが違うから」と、毎度の挨拶をしてから、「今日はイチゴのピューレも作るから、いつも通りにお願いします」と言う。いつも通りに、味見をお願いします、の意味だ。
「そのピューレは何に合わせるの?」と、マダムは忙しく頷く。
「クリームチーズケーキ」と、ガルム。「クッキー皿を焼くところから作る。それから砂糖とクリームチーズと生クリームを練って、ゼラチンで固めて……。冷蔵庫も借ります」
それを聞いて、マダムは胸の前で手を組み合わせ、頬を両手で包んで腰を振るようにくねくねする。「んもぅ。あなたはいつも私をドキドキさせてくれるんだから!」
「まぁ、冷やして作るケーキは珍しいですよね」と、ガルムがとぼけた事を言うと、「意地悪ねぇ!」と、オズワルドは語尾を強調する。「私はね、あなたの作るお菓子に、愛を感じているの」
「はい」と、ガルムは買って来た材料をキッチン台の上に並べながら、生返事を返す。
「何時、目が覚めるかも分からないお姉さんのために、お菓子作りの腕が鈍らないよう、あなたは鍛錬を欠かさない。
そしてその腕は、確実に次のレベルに到達して行く。その度に、私は、目覚めたあなたのお姉さんが、涙を流しているのを想像するの。
あなたの切なる愛と、上達したお菓子作りの腕に、感激の涙を流す姿を、想像するの!」
マダムが何時もの熱弁を口にするのを、ガルムはやはり「はい」と言う生返事で通過する。
其処に、マダムのドリームを邪魔する者……どちらかと言うと、頭を冷静にさせてくれる使者が現れた。ケーナだ。
「マダム。私の牛乳とヨーグルトは残ってる?」と言う彼女の手元には、ブルーベリーのジャム瓶がある。
「ケーナ・ウィンストン」と、急に熱の冷めた声でマダムは応じる。「ええ。残っていますよ。ヨーグルトも牛乳も未開封ですからね」
「良かった」と言って、冷蔵庫を開ける前に、「ルームメイトが頭痛と胃痛で困ってるから、介護食を作ります。ヨーグルトを増やす工程も行います」と、断る。
「ンまぁっ」と、マダムは子音を強めに発音した。「ルームメイトの頭痛のために、六時間もかけるの? 頭痛のほうが発酵してしまうんではなくて?」
「食べてもらう方は、すぐに持って行きます。その後で、ヨーグルトを増やすんです」と、ケーナが細かく説明すると、「納得」と、短くマダムは答えた。




