30.幸福の方角へ
翌日の朝。
いつもより出っ張った腹を抱え、シャワールームに来たガルムは、胸焼けに悩んでいた。食道の奥がムカムカしている。昨日、甘い物を食べ過ぎた影響である。
甘さ控えめのシフォンケーキは確かに美味しかったが、同僚達は「ワンホールあるシフォンケーキを、ガルムが一人で食べ切る事」を望んできた。
「こんなもん、半分空気みたいなもんだから、行けるだろ?」と、同僚の一人、コナーズは、爽やかに無茶ぶってくる。「もちろん、クリーム無しで良いから、心置きなく食えよ」
「頑張ってみる」と言って、ガルムは念のために、まん丸いケーキをケーキナイフで真っ二つに切ってから、フォークを立てた。
血糖値がメーターで観れるのであれば、シフォンケーキ半分で満腹時の血糖値に到達した。
「ちょっと、もう腹いっぱい」と言ったら「これで飲みこめ」と言って提供されたジュースでさらに血糖値は上昇し、円かったシフォンケーキは四十五分の位置まで切られた。
「食いづらいなら味変しろよ」と言って、追加されたチョコレートシロップにより、メーターの上限は越えた。
「あと四分の一!」と、菓子を持ち込んだ同僚達は、ポテトフライを食べながら楽しそうにはしゃぐ。自分達はお付き合い程度にしか菓子を摂取していないのだから、大食いを見ている側は楽しいだろう。
頑張ってはみたものの、チョコレートシロップがだくだくしている、最後の四分の一にフォークが伸びない。
「ごめん。もう、無理」と、ガルムは音を上げた。
「後ちょっとだろ」と、同僚達はあくまで食わせる気だ。
「無理無理無理。むーりー!」と、ガルムは断った。「これ以上、胃袋に入れたら、全部戻ってくる」
それを聞いて、リアルにあかんのだと一同は察した。
「俺が食って良いなら、代行受け持つけど」と、大食いを見物していたノックスが、脇から顔を出す。
「あ。じゃぁ、シフォンケーキはノックスが代打をして」と、同僚達は、何かを割り振ろうとしてくる。「ガルムはジュースの残りを飲め」と言って、オレンジ色の液体が入ったボトルが目の前に置かれた。一リットル半はある、大ボトルの。
「物理的に入る余裕があるだろうか」と、ガルムが真面目に悩みだすと、「ケーキなんて水圧で圧縮されるって」と、同僚は謎の物理学を振りかざす。
それからジュースの瓶をつついて、「これ、薄めてないのだから、結構高かったんだぜ?」と、経済学も振りかざす。
それが、胃袋や血液の余裕と何等関係ないとしても、贈り物を贈る側の強硬な善意は、レンガ敷きの道で出来ている。
少しずつジュースを口に運び、胃袋がいっぱいになっては、それが小腸に届くのを待ちを繰り返して、どうにか飲み切ると、「よくやった」と同僚達は満足し……カスタードクリームが大量に入っているワッフル菓子を置いて行った。
「これって……明日になると腐ってるタイプのだよな?」と、ガルムは紙袋を確かめながら呟く。
「食うしかあるまい」と、ノックスはケーキの砂糖で、ちょっとハイになってるらしく、結構乗り気だ。
ひとり頭、ワッフル三個半を平らげ、食べ物を腐らせる業を負うことは無かったが、朝になっても吐く息がクリームっぽいと言う弊害は発生した。
シャワールームの脱衣所で軍服に着替え、その日はトレーニングに向かった。
訓練所の監督役は厳しく、予定が入ってる隊の隊員が、訓練所の時計で測って一秒でも遅れたら、背中を思いっきり蹴ってくる。
なので、他の時計と訓練所の時計がどれだけずれてるかは、基地の兵士のほぼ全員が知っている。そして、監督役が時計を合わせていたとか、その時点で何分何秒ずれていると言う情報も、耳に入ってくる。
訓練所の設備と隊員達の安全を考慮して、五分前には全員集合するのは常だ。その五分前行動に一秒でも遅れてくる奴も、背中を蹴られる。
俺達は一体、どこのなんの時計を信じれば良いのか……と、悩まない兵士もいないことは無い。少なくとも、時間を決定されている設備を使うには、五分以上前にその場に集まっている必要があると言う事は明白だ。
時間に厳しいのは、ある種の国民性であると言われる時もあるが、自分の脊椎が無事な状態で、その日一日を送るためには、訓練施設を使う時は時間は、きっちり守ったほうが良い。
そう言うわけで、胸焼けはしても、ガルムもノックスも遅刻することなく十分前には訓練所に到着し、最初は挨拶を交わしながらだらだらして、訓練所の時計で五分前が近づいたら順に整列した。
アンナイトの毎日の試運転も、ガルムの重要な日常課目である。
この近日は、ハウンドエッジ基地から、最長でどのくらいの距離の「照射」が可能かを調べている。障害物に遮られても、ある程度の許容範囲はあるのだが、宇宙空間への「照射」は出来ないのかと言う知的探求心を、参謀と研究者は持ち出した。
月に神気体を照射したら、月の探査が出来るのでは? と言う、中々ぶっ飛んだ研究員の発想により、試験は数回試みられた。しかし、どれだけガルムから魔力と神気を吸い取って出力を上げても、「照射」は月面に届く前に細く減退して、神気体は一向に月面に届かない。
何が原因なのだと言う言及もあったし、ガルムがビビってサボっているのではないかと言う疑いも持たれた。
参謀達の間では、「物理的には可能」なのだから、ガルムがビビっているのだと言う説が強かったのだが、操縦者に所謂「出来る限りの努力」をさせてみたら、それまでにない高出力の「照射エネルギー」が発され、そのエネルギーは五分と持たずに消えた。
整備主任が、ガルムの体の脈拍と心拍数が急激に異常値まで上がって、血圧が急激に下がったのに気付いて、「照射」を止めたのだ。
操縦席を確認すると、ガルムは意識を失い、呼吸も鼓動も止まりかけていた。急いで医務室へ運ばれ、其処から軍病院に運ばれ、意識を取り戻したのは三日後だった。その上、ガルムの身体の機能が正常値に回復するまでは、意識が戻ってから一週間の安静を要した。
軍病院のベッドの上で、ガルムは横たわったまま、まだ明るい空に昇ってきた三日月を見つめた。
「月は異界への入り口、か」と、頭の中で呟く。
かつて、姉が魔力と世界の事について話してくれた時の言葉を、思い出したのだ。
「三日月はアルテミス、満ち月はディアナ、閉じ月はヘカテー。この三人の女神が、月を司る主神だよ。どの女神も弓と矢を持っている。矢の示す先を知れば、何処にいても方角が分かるんだ」
姉の声の記憶は、まだ古びてはいない。その記憶は、忘れないように何度も思い出している。
方角が分かるなら、とガルムは思ってみた。幸福な結末の方角も、教えてくれないもんかな。全部が丸く収まる、最高のやつをさ。
そう思って、窓に映ってる自分に向かって、口元だけ笑ってみせた。姉とそっくりの、牙のような八重歯の目立つ歯列を見せて。




