23.御霊を大地へと
アンは東に向かって飛びながら、何匹かの渡り鳥の体に触れて、術を施しました。
箒に乗っている不思議な霊体を、鳥達はあまり気にも留めません。
――散らばった力か。
アンは術を使いながら、ある事を考えていました。
あの一週間を経る前に、アーヴィング領の鉱山から逃げた者達の、持って行った邪気の行方を思ったのです。発電所が機能し始める前後に、あの町から逃げ出した者達はどうなったのか。
遠くに在った山脈の影が、濃く見えてきます。あれを越えれば隣国です。アンは、今は考えている場合ではないと思考を変えました。
ドラゴン達が表立って動くように成っても危険が無いように、ゲオルギオス協会には、しばらく活動ができない状態になってもらうか、もしくは壊滅してもらう事を目論んでいました。
それは恐らく、ドラゴン製品を求める人間達からしたら「悪行」であり、ゲオルギオス協会からしたら「降って湧いた災難」でしょう。
ですが、彼等が今まで、どれほどのドラゴン達を、製品にするために狩ってきたかを知る身としては、アンは同情する気にはなれませんでした。
爆風を伴いながら、雨が斜めに打ち付ける。雷は雲の中を駆け抜け、時折木々や大地を叩いた。
洞窟の中に居る子供達は委縮したり、負けん気を出してふんぞり返ったりしている。蜂蜘蛛の幼虫達は、外で聞こえる大きな雷鳴や風の唸りにびっくりしていた。若い蜂蜘蛛達は、「外の世界は一体どうなってしまっているのか」を、人間の子供達から聞こうとしている。
肉を探しに行った大人の蜂蜘蛛達は、恐らく何処かに雨宿りしたまま、身動きが取れないでいるだろう。
怯えてはいても、腹は減る。蜂蜘蛛の幼虫達は、房の内側をひっかくのではなく、「おなか。ごはん」「おにく。たべる」と、どの個体でも囀るようになったキーワードを連呼している。
その中で、「いっぱいいる」と言うようになった幼虫が居た。「もっといる。おにくいる。たりない。たりない」と、他の幼虫とは、少し違う囀り方をする。
そう言った「少し複雑な囀り方」をする幼虫達は一定数いて、彼女等は猛烈な勢いで食べた。そして食べるごとに体が大きくなった。
やがて、蜂蜘蛛の女王の体に変化が現れた。雄蜂のゲノムを持った卵を産むようになり、彼女の体から発されるフェロモンも、極端に弱くなり始めた。
霊媒は、「この時が来たのか」と察し、女王に進言した。
「女王。貴女の体は、もう娘達を残すことが出来ません。そして、貴女の生む雄蜂達は、貴女のゲノムしか受け継げない」
「つまり、どう言う事?」と、老いて力を失いつつある女王は、静かに尋ねる。
「貴女が、この国を去る時が来たのです」と、優しくだが、ハッキリと霊媒は告げた。「娘達が本能に突き動かされ、貴女を攻撃し始める前に。どうか、外の世界へ」
女王は、人間のように俯き、近くに居た幼虫に触角を這わせた。それは、喋る言葉が他の幼虫とは少し違う、多弁な娘達……恐らく、新しい巣を作り、新たな女王となる娘達だった。
「あなた達の生きる先には、これからたくさんの苦労と、たくさんの困難があるでしょう。でも、何も恨んではいけない。生き抜くために、戦いなさい」
まだ触覚を持たない、芋虫のような娘達は、女王が触覚で自分達に触れるのを、くすぐったがっているような様子だった。
言い聞かせられた言葉を、まだ具体的に想像できるほど、幼虫達は世界を知らない。
「明日、私は此処にいないでしょう」と、女王は霊媒に背を向けたまま告げた。
霊媒は目を伏せ、胸に手を置き、「女王。どうか、最期の時に御身の傍らに居る事をお許し下さい」と述べた。
「貴女は……」と、穏やかな声で、女王は言う。「本当に、貴女には世話になってばかりだ」
許可を得た霊媒は、「ありがとうございます」と返事をし、巣盤の一番下の房から去ると、明日に備えて準備を始めた。
明日の旅の時、辿り着いた死出の場で、女王を介錯するための準備を。
前日の悪天候が嘘のように晴れた翌日、まだみんなが寝静まっているうちに、女王は卵を産む任についてから始めて、外の世界を見た。その傍らには霊媒が付き添う。
かつて、羽化をしてから自由に跳ね回った森が、薄靄の中に浮かぶ。あの時は、霊媒が見守る中、この岩山を見つけるまで、何ヶ所も新しい巣を構える場所を探していた。
その懐かしい森の中を、蜂蜘蛛の女王は淑やかに歩く。霊媒も、一歩下がった位置を、ゆっくりとついて行く。
「候補は五つあったわね」と、女王は思い出すように言う。「私が、一番人間から見つからない所を譲ってもらった。私が、一番弱虫だったから」
「そんな事はありません」と、霊媒は女王を宥める。「貴女の生きる力は、誰より強かった。だから、五年もの間、生き延び、新しい子を残せた」
「貴女が居たからよ。霊媒」と、女王。「他の姉妹達がどうなったか、貴女は知ってる?」
「一名は、最初の娘達を生んだ年に、戦死されました。肉を求めて大型の獣と戦い、息絶えたのです。もう一名は、二度目の冬を越せませんでした。娘達が偽女王を作り、今でも東の山脈に住まわれています。別の一名は、人間達に見つかり、帝国ごと滅ぼされました。あなた以外の最後の一名は、別の巣を作り、娘達を生み……彼女は、既に帝国を去っています」
「そう」と、悲しげに、穏やかに、蜂蜘蛛の女王は呟いた。「貴女は、どの女王達にも、執事や夫を用意してあげたの?」
「ええ」と、霊媒は答えた。「それが私の仕事ですから」
女王は霊媒のほうを少し振り返り、人間のように「フフッ」と言って笑った。「本当に、貴女は、忠実で、優しい人だわ。誰一人見捨てないんだもの」
「助けられなかった命のほうが、多かったとしても、でしょうか?」と、霊媒は溢し、口元を手で押さえた。姿勢を正して「申し訳ございません。口が過ぎました」と詫びる。
「私はね、思うの」と、女王は歩を進めながら語る。「蜂蜘蛛と言う種族として生まれて、本当は子供の頃に、人間に焼き殺されるはずだった。でも、その運命は、貴女と人間の子供達が変えてくれた。
あの日、母なる女王が貴女に叫んだ言葉を覚えているわ。『子等を連れ、逃げろ』。その言葉の通りに、恐ろしい魔の手から、貴女は私達を逃がしてくれた。
そして、みんなに執事を与え、成虫になるまで見守って、子を成すための夫を用意して、私達が『正常な蜂蜘蛛』として生きられるように、尽力してくれた。本当に、貴女には感謝しかない」
そう言って、蜂蜘蛛の女王は、ある大樹の根元に、首を低くしてうずくまった。
「そして、霊媒。私からの最期の頼みよ。私に、悲鳴を、上げさせないでね」
「承知いたしました」と言って、霊媒は鋼鉄のナイフを、そっと女王の首にあてがう。「御霊を大地へと」と言う祈りの言葉を唱え、一息に女王の首を刎ね、頭の無くなった体の、各所の神経瘤を貫いた。
女王の体はガタガタと震えたが、神経瘤を貫かれた体は勝手に動く事も無く、うずくまった姿勢のままで事切れた。
霊媒は亡骸と、刎ねた首に手を添え、術を使う。屍は細かい塵になって、まだ濡れている地面の中に消えて行った。
――本当に、優しい人。
そんな念話が、星を離れようとしている女王の魂から、聞こえてきた。




