21.海の女主人
ヘカテーの閉じ行く月が見える夜空に、魔力を持った、大きな赤い瞳が瞬きます。
メリュジーヌは、蛇のような白い鱗と屈強な皮膜の翼、そして見る者を時に怯えさせ、時に魅了する姿形を持った、美しいドラゴンです。
街中は明かりを燈し、住人達は音楽を鳴らして、メリュジーヌを迎えました。
大きなドラゴンの姿をしたメリュジーヌは、町に入る前に海の中に飛び込み、巨体を隠しました。
海を泳ぎ、上がってきた、金糸の長い髪を体に纏わす美しい女性に、淑女達が夫々の手に持った白布を着せました。何枚にも布を重ねて、胸の上と腰の周りを紐で縛ったメリュジーヌは、まるで、お祝いの席のドレスを纏った美しい女王か、婚礼の儀式に挑もうとしている、凛々しい花嫁のように見えました。
「メリュジーヌ。この海の主なる者の働き、我等しかと目に焼き付けたり」と、この町の司祭が言葉を唱えます。
その言葉は、大声で人々に聞こえるように唱えられる時も、彼女の働きを労わる意味が含まれていました。
この町の皆が、視覚的には見えない海の向こうで戦っていたメリュジーヌを、しっかりと見守っていたと言う意味なのです。
白布を着たメリュジーヌは、勝利の笑みを浮かべて、彼女の住居とされている、一際大きな白い建物の中に姿を消しました。
湯あみをして、体を拭き、綺麗なドレスに着替えたメリュジーヌは、町の人々から提供されたご馳走の並ぶテーブルに着きました。
クロスをかけたテーブルの上に乗っているのは、大胆に切り分けられて焼かれた牛と豚と鶏の肉の他、丁寧に蒸された野菜と、生の旬の果物と焼きたてのケーキ、それから上等なワインと炭酸水です。
その料理を挟んで、向かい側の席にいる人物に、メリュジーヌは声をかけました。
「待たせたわね。セリスティア」と言ってから、大きな鶏の腿を焼いた骨付き肉を掴んで、野性的にガシッと噛みつきました。肉塊を歯で削ぎ、食んでから、「話と言うのは?」と、向かい側に居る人物に声をかけます。
「貴女が、本当は『平和を望んでる乙女』なんだってことは分かってる」と、青い瞳をした白い髪の女性は言いました。「だから、率先して戦いに行くんだって」
「ご理解ありがとう」と言って、メリュジーヌは一口噛んだ肉を皿に戻し、手酌でワインを注いで、喉を鳴らして飲み込みます。それから、手元のグラスに、慈しむような視線を向けました。
「そんな貴女に頼むは、非常に失礼だと思うんだけど」と、向かい側の席の女性は言います。「私達の闘いに貴女を巻き込んだら、私は貴女に何を払えば良い?」
遠回しな言葉に、水色の瞳を持ったメリジューヌは、ニヤリと笑みました。
「何も払う必要はない」と、料理を食らう海の女主人は言います。「貴女の働き方は良く知ってる。しかも、今は雇い主も居ない。払う必要がない代わりに、私が貴女を欲しいと言ったら、貴女はなんて答えるかしら? アン・セリスティア?」
「今の私に、朱緋眼の力はないよ?」と聞き返すと、「それでも、それに成り得る力を持っている事を知ってる」と、メリジューヌは応え、艶やかな唇に果物を持って行きます。
果汁を手指の間から滴らせながら、メリュジーヌは皮の薄い果実を噛み砕き、指先で種を口の中から取り出しました。その種を皿の上に戻し、フィンガーボウルで指を洗います。
「そうね。一晩、私を満足させてくれたら、貴女達の闘いとやらに参加しても良いわ」と、メリュジーヌ。
向かい側に座っていた女性はちょっと緊張した顔をしてから、「一晩だけなら」と答えました。
「交渉は成立」とメリュジーヌは言って、「食べなさい。どうせ、私ひとりじゃ食べきれないんだから」と、料理の前に片手を差し出します。
「ありがとう」と答えて、アンも、目の前の皿にある柔らかい鶏の肉に、ナイフとフォークを立てました。
その晩、メリュジーヌの寝室からは、長い長いお伽話を語るアンの声と、少しの魔力が行き交う音、それから幼い少女がクスクス笑うような囁きが響いていました。
朝日が昇る頃。メリュジーヌは「楽しい夜をありがとう」と言って、アンの手の甲にキスをすると、ちゃんとパジャマを着たまま、シャワールームに行きました。
彼女に、一晩の楽しいお伽話を聞かせ終わったアンは、霊体が消耗した力を補給するために、テーブルに残っていた干し葡萄を口に運びました。
バッカスの好物とされているだけあり、葡萄は見る間に霊体を回復させます。
一晩中、メリュジーヌのベッドの傍らで、魔術的現象を起こしながら物語を語り明かしたわけですが、夜が明けるまで話のネタが尽きなくて良かったと、アンは人心地ついていました。
メリュジーヌは、アンが困るのを承知のうえで、頼みごとをすると度々「一晩の楽しみ」を要求してくるのです。
そのため、アンはメリュジーヌに頼みごとをするときは、一晩持つだけの「お話」と「芸事」を用意して行きます。
一晩の間のメリュジーヌは、まるで赤ん坊のように無邪気で、アンに幼子として扱ってもらうのを喜んでいるようでした。
その、無垢な心を預け終えたメリュジーヌは、日の出と共に「海の女主人」の顔に戻るのです。
妖精にも切り替えが必要なんだなぁと、アンは思いました。
アンとメリュジーヌの出会いは、ずっと以前です。その頃は、まだアンも本当の十歳くらいでした。
その当時、既にドラグーン清掃局で働いて居たアンは、仕事の最中に、龍狩りに遭って傷を受けたメリュジーヌを見つけました。彼女を追手から隠し、隠れ家に連れて行って、傷が自然に治るまで看病をしました。
アンは、小さい頃からあんまり料理が上手では無かったのですが、メリュジーヌは食べたことの無い「バターを塗ったパンの間に、溶けるチーズを挟んで焼いたもの」を食べ、美味しいと言ってくれました。
「あの時の記憶のせいで、私は時々、焦げすぎたパンが食べたくなって仕方ないの」と、メリュジーヌはアンを揶揄って面白がるのです。




