15.進入禁止区域
水曜日二十四時十分
仮宿に宿って居るためだろうか。なんだか、胸騒ぎと言うものがする。
人間だった頃に覚えていた「生物としての直感」が、頭に何かを訴えかけてくる。
ラム・ランスロットは、睡眠を必要としない。体を回復させたければ、新しい紙で人形を作って術を施し、それに宿れば良い。
もし、人形を作ってる時間が無かったら、その辺にある札や、意識を失っている生き物の中に「潜り込んで」しまえば、必要なエネルギーや休養は得られる。
彼は、長い間、一種の精霊として野生の動物のように生きていた。自分が何処の誰で、何故人間に近い形をしているのかを不思議に思う事も無かった。最初から、彼はその姿だったから。
深い自然を求め、遠く東の国の山奥まで出かけた時。
異国の道士の衣を着た、壮年の術師に出会った。髭を蓄えた術師は、彼に、「仕事を手伝ってくれないか」と声をかけてきた。まるで、人間に接するように。
「お前は……」と、彼は返事をした。「誰だ?」
「うん? ここら辺に出る、大蛇退治に来ててな」と、術師は返し、続けて問うた。「お前の名前は?」
彼は暫く考えた。名前。昔、そんな物を持っていたような気がする。
「ラム……」と、彼は呟くように答えた。「ラム・ランスロット」
確かに、それは人間だった頃の、彼の名前だった。
術師は、大蛇退治の後に、ラムを自分の住処に連れて行き、「霊符」と言う術を教えた。紙で作った人形を仮宿として操り、擬似的な人間の姿を作る方法も。
紙の人形と言え、器を得てから、彼は自分の生前の意識を思い出した。が、生きていた頃の記憶を取り戻そうとして、それがすっかり抜け落ちているのにも気づいた。
人間だった時の記憶を取り戻したい。術を極めれば、何かが分かるかもしれない。そんな思いから、ラムは道士の弟子となった。
弟子入りしてから、本当にふとした時、海が目の前に思い浮かんだ事がある。
岬のような崖の向こうに向かって走って行く、小さな子供の体。その背を追って、誰かが来る。誰かの撃ったその矢が、少年の背を貫こうとする瞬間、彼の体は崖から海に転落し、魂は空へ飛翔した。
矢は空を裂いた。魔力のこもった矢の軌道は、少年の体と魂を分離し、彼を精霊と成した。
それ以来、少年の魂は空を飛び続けた。誰も追って来ない、自由な世界へ。
あれが俺の「元の記憶」だとして、なんでそんな事が今思い浮かぶんだ?
ぼんやり考えながら、ランスロットは補給所のカウンター席に座ったまま、霊符作りをしている。
マーヴェルは、睡眠をとりに仮眠室に引っ込んでいた。
疑問を相談する相手もなく、ランスロットは考えた。
何かが起ころうとしている? 何が? 何か、あの時のような、危機に直面している? 体を失う時ほどの危機に? 誰が? 何が?
自問と自答を頭の中で繰り返しながら、ランスロットは思考を練る。筆を操っている手が、ヒュッと横に引っ張られた。
妖精が三匹ほど寄り集まって、彼の腕を思うように動かしている。
ランスロットは、抵抗はせずに彼等のするままにさせた。すると、筆が机に不思議な文様を書いた。
降霊の時に使う術を仕込むときの、専門の文様。
彼は口を動かし、何か言おうとしたが、女の小指ほどの大きさの妖精達は、小さな口元に人差し指をあてて、「黙って」のサインを出してくる。
次に、妖精達は文字を書かせた。「アン」「エム」と言う二人の名前。
アンに、何かあったのか? そう聞こうとしたが、妖精達は「黙って」のサインを出したまま、「アン」と「エム」の両方から矢印を引っ張る。降霊の文様の方向に。
ランスロットは、ぞわっと皮膚に寒気が走った。
アンの瞳を見た時、「変わった特徴だが、アルビノにならない事も無いな」と思った。
彼女の、灰色がかった白い髪と、朱色に近い緋色の瞳。
肌の色は血色を透かしたピンクと言うより、少しだけオレンジがかかっているので、アルビノだとしてもメラニン色素を作る機能が全く欠如していると言うわけでは無いようだ、と、安直に思っていた。
あの瞳の色が、白化個体だからではなく、魔力に由来するものだとしたら……。
ランスロットの知識の中に、「朱緋眼保有者」が閃いた。
もし、アンがそれを自覚していて、俺と同じ情報を受け取って居たら……あいつなら、どう行動する?
会って二日程度しか経過していないが、ランスロットはアンの行動をシミュレーションし始めた。
あいつなら、自分の目で確かめようとするだろう。本当に、そんな事が起こっているのか。
そう思って、筆を墨入れに突っ込み、人形から抜け出した。ランスロットの体を作っていた小さな紙細工は、ひらりとカウンターの上に舞い落ちた。
街のあちこちに貼ってある札を経由しながら、ランスロットは見張り台にしていたビルディングの高所に移動した。
何かが、いや、箒に乗った「あの莫迦女」が、町の空を塞ぐように漂っている邪気の雲を通り抜けて、空の高みに行こうとしている。目指している場所は、北地区。そこからアンの気配は、やや西の方へ移動する。
何か、彼女の持ち物の中で、魔力を邪魔しない物質は……。
ランスロットはビルディングの屋上から霊体を跳躍させた。アンのポケットの中に入っていた、銀製のペンダントの中に。
木曜日零時二十五分
空の高みから、黒い霞の薄くなりかけている町を見下ろし、アンは震えた息を吐いた。
上空が寒いからなのか、それとも目の前で起こっていることが恐ろしいからなのか。
北地区の西側では、何かの機械を使って、人間だった者達が、町の中にエネルギーを通している。それは何等かの模様のように見えた。
「降霊の文様だ」と、ランスロットは宿ったペンダントから声を飛ばした。「知った事が知られる前に、引き返せ」
「ラ、ランス?」と、アンはきょどった声で呼びかけて、何処からランスロットの声がしているのかを、きょろきょろと探す。
「ええい。大声を出すな。奴等にバレるだろ。見るものを見たらさっさと引き上げろ」
ランスロットはそう促したが、アンは「エムを探さなきゃならないの。あの子の瞳を朱くするわけに行かない」と言う。
やっぱり自覚してたか、とランスロットが苦々しく思ってるうちに、アンは箒の先を返そうとする。北地区の東側。発電所に行く気なのだろう。
「いいか、今の状態の俺に出来る事は」と、口走りかけて、「俺に……」くらいで、ランスロットは口ごもった。
もう、箒の先は発電所をめがけている。彼のサポート能力が限定されている状態にあったとしても、アンは引かないだろう。
「仕方あるまい」と、ランスロットは言って、「発電所の更に北側に向かえ」と指示を出した。
「そこに何かあるの?」と、空を滑る箒を操りながらアンは聞いてくる。
「『隠し通路』だ。俺用のな」と、ランスロットは返した。




