20.青い扉
近日中に済ませなければならない、粗方の任務が終わり、休暇を得られたガルムは病院に行った。
そこには、三年前に意識を失ったきりの姉が眠っている。看護師達が寝たきりの者の処置を済ませ、病室から出て来た。
ガルムには、花束を持ってくる習慣はない。どちらかと言うと、姉がいつ起きても良いように、生活に困らないものを持ってくることが多い。
その日の土産は、髪の毛用の新しいブラシだった。
体を拭いて、髪を梳いてもらったばかりのようで、入院着を着ている病人は身ぎれいなものだ。
ガルムは、ブラシをサイドテーブルの引き出しにしまい、背もたれの無い椅子に座ると、無言で姉を見つめる。
しばらくしてから、季節の話、最近覚えた料理の話、新しいチーズケーキの作り方の話等、ぽつりぽつりと声をかけた。それから、ルームメイトの話。
ノックスの事を思い出して、ついでに「祈る女」の事についても思い出して話しをした。
「マリン・ナーサリーは確かに美人だけど、自分の最期にアイドルの事を祈るって、どうなんだろうね」
そう、少し笑った声で言って、ガルムは姉のベッドの周りのカーテンを広げた。
そしてゆっくりと姿勢を倒し、長く伸びた前髪を分けている姉の額に、そっと口づけた。
「俺が王子様じゃなくて、ごめんね」と、囁き声の冗談を残して、ガルムは病室を離れた。
病院からタクシーを呼んでもらい、すっかり暖かい外で、涼風を受けながら車を待つ。
「ガルム君」と、ハッキリとした姉の声が聞こえた。
声の方を見ると、いつも見慣れていた黒いロングワンピース姿の姉が、風に髪をなびかせながら、其処に立っている。
「ねーちゃん……」と呟いて言葉を失うと、霊体なのか何なのかも分からない姉は、「まだ『おはよう』は言えないかな」と告げて笑顔を見せ、ふっと姿を消した。
コーンコーンと金属を叩く音がします。
時計の心臓の音は、今のアンちゃんにはそう聞こえました。
二十二歳の姿と、新しい箒を得たアンちゃんは、青い扉の閂を外し、外に出ました。暖かい風がふわりと吹き付け、夏の空の中に、カモメが泳いでいます。海と空は青く、白雲と白波、そして白い壁と青い屋根が、くっきりと見えました。
アンちゃんは、その風景の中に踏み出しましたが、風景は消えることはありませんでした。
簡易式のベンチに座って日向ぼっこをしていた老紳士が、「異国のお嬢さん。初めまして」と声をかけてきました。
「初めまして」と、アンちゃんも異国の言葉で答えました。それから、「メリュジーヌの凱旋は、何時か分かりますか?」と聞きました。
「あれが戻ってくるのは、一年に一度だ」と、紳士は言います。「お嬢さんは運が良い。凱旋は三日後だよ」
「本当に」と、アンちゃんは答えました。本当に運が良い、と言う意味です。「でも、彼女の力を借りたい者は、山のようにいるのでしょうね」
「何事も、彼女が気に入るかどうかだ」と、老紳士は波の遠くを見て言いながら、アンちゃんを励ましました。「お嬢さんは、非常に健やかな魔力を持っている。きっと、メリュジーヌも気に入ってくれるだろう」
「そう願います」と、アンちゃんも、海のほうに視線を向けて言ってから、紳士のほうに視線を戻し、「ついでに、美味しいケーキが食べられる喫茶店はご存知ですか?」と、聞きました。
老紳士が教えてくれたカフェは、階段の途中に色んな色の花を植えた植木鉢を飾った、青い丸い天井の建物でした。
アンちゃんは「このお店で一番お勧めのお茶とケーキを」と注文して、窓から見える海に目を向けました。何処までも続く青の先に、小さな白いマストが見えます。
別の国からの船だろうか、それとも帰ってきた船だろうか、とアンちゃんは想像を働かせました。
ほんの数百年前までは、この大地は円の縁を持った真っ平らだと思われていたんだっけ、と思い返しました。
それが、やはり数百年前の冒険家達の働きで、星は船に乗って一周できる丸い物体であると言う事が発見されました。
その事情は、一部の物には残念だったでしょう。その冒険家達は未開の地にとっては紳士的ではなく、野心に満ちた海賊行為を行なったのですから。
良質なバターの香りがする、香ばしそうなそうなケーキと、混ぜられた蜂蜜でトロントロンになったハーブティーが運ばれてきました。
「ありがとうございます」と言って、アンちゃんは食べ始める前に「おいくらですか?」と聞きました。
カフェの調理とウエイトレスをしている婦人が、この国の通貨での金額を言います。アンちゃんは、ポケットから、指定された金額より、硬貨三つ分多めの金属通貨を差し出しました。
アンちゃんは、白い街の近海を箒で空を飛びながら、風の方向に飛ぼうとしているカモメの横に並びました。
「まだ風を待ったほうが良くないかな?」と声をかけると、カモメは「良い風は、待ってても来ない」と答えて、押し返そうとする風に、翼を立てます。
バサリ、と羽を振り下ろしたカモメは、斜め横から吹いてきた気流に乗って、瞬く間に漁船の横につけました。アンちゃんも、カモメの後を付いて行きます。
ピューッと、漁船の中から口笛を吹く音がしました。
「お若い魔女さんだ。カモメを追いかけてるのかい?」と、屈強な海の男が声をかけてきます。
「ええ。お仕事の邪魔ですか?」と、アンちゃんは明るく聞き返しました。
「もうすぐ魚群が来るんだ」と、その人物は言います。「その時は、何処かに避けてくれないかな。海に影が落ちると、魚が怯えるからね」
「そんなに長居はしません」と言って、アンちゃんは指先に小さな魔力を込めると、やはり向かい風に向かおうとしているカモメの背に、ちょっと触れました。
「良いお仕事を!」と声をかけて、アンちゃんは海沿いの白い街に戻りました。




