9.誰のための世界か
体内の炎症を抑える薬を飲み、サクヤはケホンケホンと咳をします。
ヤイロが触診計を手につけて、背中から肺の位置を調べると、サクヤの物ではない邪気の気配があります。胸に集中するようにして、濃度五十三程の邪気が蓄積していました。
「横になっていなさい。念のために、ブランケットをもう一枚かけて」
ヤイロがそう声をかけると、サクヤはベッドを下りようとしました。ブランケットを自分で用意しようとしたのです。
「サクヤ様」と言って、老年の執事は少女をとめ、身に触れないようにベッドに座らせます。「私がご用意いたしますので、ベッドを離れぬように」
「あ……。はい……」と言って、サクヤは恥ずかしそうに肩をすくめました。まだ、お嬢様扱いに慣れていないのです。
ヤイロはその様子を目を細めて眺めてから、自室へ向かいました。旅に出ていた二年間の間も、耳の利く情報屋や、共同研究をしている仲間達からの情報は集まって来ていました。
それ等の情報に全部目を通して、情報が重複している時は必要なほうだけとっておき、新しい情報が出て来たものは、同時期の情報と関連付けて、信用できる物だけ残しておきました。
心霊内科にあたる、陰陽学者にサクヤの様子を診せると、邪気罹患による肺炎を起こしていると言われました。
自分の予想が当たってしまい、ヤイロは学者に「炎症をとめる術の処方」を頼みました。ですが、学者は言います。
「お嬢さんは、何等かの強力な力によって、守られています。よっぽど親和性のある力でない限り、外部からの気の流れは、受け付けないでしょう」
学者は、術による処方は何も出来ないと言い、出来る限りの最善だと言って、やはり体内の炎症を抑える薬を置いて行きました。
ヤイロはしばらく考え、二年前より事態が好転していることを願いました。
そして自室に戻り、執事も知らないタンスの奥の隠し扉を開けました。
隠し扉の中は、小さな部屋になっていました。ウォークインクローゼットくらいの小さな部屋です。
床には、気を高めるための五芒星が描かれ、部屋の中央に、魔戯力によって精霊を閉じ込めた水晶が、主を待ってぼんやりと光っていました。
指先に指令を帯びた力を込め、水晶の表面に五つの指を起きます。水晶の中央で燈っていた霊気が、指先のほうに伸びてきて、指令を受け取りました。
水晶の中央が、一際鮮やかに光り出します。
その光は足元の五芒星に宿ると、一体の、霊体ともつかないものを呼び出しました。
それは、黒い髪と茶色の瞳を持った、サクヤそっくりな女の子。彼女の守護幻覚、ササヤでした。
ヤイロによって呼び出されたササヤは、事情を知って、すぐにサクヤの枕元に駆け付けました。
サクヤは、薬の影響で深く眠っています。でも、ササヤが近くに来たことは分かったようです。左手を、僅かに持ち上げようとした気配がありました。
「大丈夫よ。眠ってて」
ササヤはそう優しく呼びかけ、ブランケットに覆われているサクヤの胸の上に手をかざします。
術としては「治癒」の力を込めたのですが、邪気は根深く、完全に治すことが出来ません。
「邪気を『浄化』しないと、一時しのぎにしかならない」と、ササヤはヤイロに告げました。
「誰か、君の知り合いに、『浄化』の力を持った人は?」と、ヤイロは尋ねました。きっと彼女を知っているだろうと言う確信があったのです。
「居る……けど。まだ、あの子に術を使わせるのは……」と、ササヤは躊躇います。
「何か、不都合があるのかい?」と、ヤイロは穏やかに聞きました。「困ったことがあるなら、言ってみなさい。聞くくらいはできる」
ヤイロがそう言うので、ササヤは強い浄化の力を持っている子を知っているが、彼女は「世界の見え方」を覚え始めているばかりで、まだうっすらとしたヒントしか与えられていない状態である。今、事を急げば、その子から、学習の機会を奪ってしまう事になると、ヤイロに訴えました。
「だけど、このままじゃ、サクヤの体が持たないのもわかる」と、ササヤは続けます。「こう言うのを、世界の事情と個人の事情って言うんでしょ? まだ、私も、それを天秤にかけて良いか、分かんない」
「分からないなら、信じた事をしなさい」
ヤイロはそう優しく説きます。
「ササヤ。君は、世界を救いたいと思ってる。それと同じくらい、サクヤを救いたいと思ってる。ササヤ、君にとっては、サクヤを失う事は、世界を失う事だ。そして、私にとって君達二人を失う事は、私の探してきた答えを失う事だ。それから、世界を学んでいる少女にとっても、君を失う事は『道を示す者』を失う事だ。君は頭の良い子だ。此処まで言えば、何を守るべきかは分かったね?」
ササヤは目を瞬き、深呼吸をして、「私は……私を守る」と言って、サクヤの部屋の壁を覆っていたカーテンの後ろに隠れました。
ササヤの気配は瞬く間に部屋から消え、少女を包んで丸く膨れたカーテンも、一瞬で襞が戻りました。
ヤイロは静かに頷いて、「それで良い」と呟きました。
漆喰の廊下で、アンちゃんはすっかり疲れていました。いつもは、アンバーがローズマリーの庭まで連れて行ってくれるのに、そのアンバーがいつまでたっても戻ってこないからです。
何か大変なご用事があるみたいだけど、何なんだろう。
そう思いながら、瞬きをする度に、目の中で「マントルの中の赤ちゃん」は、星の心臓を食べています。星の心臓は唯食べられるだけではなく、傷が出来た箇所は、ある程度の大きさの傷なら自己修復できるようでした。
ですが、アンちゃんはちょっと気付いていました。最初に赤ちゃんを見つけた時より、赤ちゃんの大きさが大きくなっている気がすると。
このまま赤ちゃんが大きくなって行ったら、いつか、林檎でも齧るみたいに、星の心臓をカプリと齧ってしまいそうです。
「ゆゆしきじたい」であると、アンちゃんは考えました。




