1.前兆と根源
ビニール製の床は水モップで綺麗に拭き清められている。店内の空気は朝のうちに入れ替えられており、口に食事を運ぶ間も、腐臭や異臭に悩まされることは無い。
ガラリ、と店の出入り口が開き、近所に住んでいる中年の男性が、早口に注文を唱える。
テーブルを拭いている店員はそれを聞き取り、大声で厨房に伝える。
「えーい」と言うような、了承の返答が来て、店の奥から響く、中華鍋を鉄のおたまで掻き混ぜる音に拍車がかかる。
ウルフアイ清掃局の近辺にある大衆食堂では、主にシャイナ料理を扱っている。
クオリムファルンの人が思う「シャイナ」の味は、全体的にエビチリに似ていた。甘くて酸っぱくて辛くて海老の出汁が利いているのだ。
そんな大衆シャイナ料理店で、ハオメンと呼ばれる縮れたヌードル料理を食っている女の子がいる。彼女の着ている黒いユニフォームの背には、銀色の糸で狼の頭部の刺繡が刺されていた。ウルフアイ清掃局の人員だ。
彼女は、技術的に麺を啜りこむことができないらしく、ヌードルをフォークで口に持って行って、一口を口に入れては嚙み切っていた。器の中は、噛み千切られた細かい麺がスープに浮いている。
前髪の長いショートカットを額で分けて、耳の両側にかけている、明るい茶色の髪の女性は、麺を咀嚼しながら琥珀色の瞳をしかめ、眉間にしわを寄せる。
髪の長さ以外は、シックな人形のような容貌をした彼女の名は、モニカ。
難しい顔をしているが、食堂のご飯が美味しくないわけではない。この国でシャイナ料理と言ったら「美味しい大衆料理」の、一、二を競う。
しかし、鶏ガラと海老の出汁をしっかり取った、濃厚なスープ麺を啜っていても、彼女には悩める事情があったのだ。
ほんの半月前。モニカを含めるウルフアイ清掃局の一部の局員達は、邪気清掃のために、国の東部の森林地帯に出向いた。
いつも通りのゴート式屋敷を掃除するのかと思ったが、道中、情報を聞いてみると、東の森では近年軍隊が出入りするような、大規模な邪気の放出があったと言う。一時的には邪気や魔獣を片づける事が出来たが、最近、鎮静化していた邪気の放出量が上がり、邪霊の発生も疑われるようになってきた。そこで、邪気や邪霊の専門業者であるモニカ達、清掃局の出番となったわけである。
軍の活動には、かつてのドラグーン清掃局と名を連ねた、ホーククロー清掃局とレオスカー清掃局も協力している。それでも、邪気を完全に封じきれなかったのだろうか。
モニカはそんな事を考えながら、ジープの後部座席で他の局員達と作戦会議を開いていた。
モニカの先輩である、ナズナと言う局員が居る。ナズナとモニカは仕事先でよく顔を合わせるが、その時はナズナは別の仕事場に行っていて、モニカはおしゃべり相手がいない状態で現地に着いた。
確かに、森は鬱々とした空気が立ち込め、力を持った者には「薄い黒い靄が立ち込めている」のが分かった。
結界や殻で身を守らない状態で、これを長時間吸うと、大体の人間は心を病む。
モニカ達はジープから降りる前に、自分達の周りに透明な殻を纏い、邪気の影響に備えた。
移動中の通路を浄化しながら、一度綺麗にした場所に結界を仕込んで、まるでトンネルを作る突貫作業のように、邪気の立ち込める森の中を潜って行く。
木々は枯れていないが、誰かが好んでその形に変形させたように、おかしな形に捩じれている。本来なら、そんな形に変形したら枝の重みで折れるだろうと思われる、奇妙な捩じれ方をしていた。
太い枝を無数に伸ばす、立派なオークの古木でさえ、まるで粘土遊びをした子供が、ふざけて作ったように、枝が渦を巻いていた。
そして、奇妙な木々が増えるごとに、邪気の濃度も上がって行った。
やがて、森林地帯を抜けて岩場に出た。その岩の中で、非常に目立つ、ずっしりとした大きな物が、真っ二つにしたように砕け割れている。
特に濃度の濃い邪気が、其処から溢れていた。
「要岩を割ったのか」と、局員の一人が言う。
「邪気の濃度も上がるはずだ」と、別の一人も言う。
「修復するか? それとも、新しい岩を?」と、もう一人も言う。
「この大きさの岩を用意するのは、可能?」と、モニカも聞いた。
「修復するほうが現実的だな」と、結論が出て、局員達は配置についた。
岩の周りを、局員達八人で囲み、状態回復を応用した術をかける。割れていた岩は、ゴロゴロと音を立てながら、元の塊の形を取り戻した。局員達は、要岩に「封印」と「浄化」をかける。
これで、岩は元通りに、この土地の邪気を封じ続ける仕事をしてくれるはずだ。
原因がはっきりわかってて良かったと言いながら、局員達は帰ろうとした。
その時、モニカは不思議な音に気付いた。誰かが打楽器を叩きながら、甲高い声で咆えているような音。それは、要岩の中から聞こえる気がする。
なんだろうと思い、岩の周りを一巡りしてみた。特に変なところはない。
「モニカ。引き上げるぞ」と声をかけられ、モニカは「了解」と答え、しんがりを務めた。
その日から、モニカは眠る前になると打楽器の音が聞こえ、甲高い咆哮を聞いているような気がした。
ダダッダダッカカッカカッと言う、木や素焼きの板を叩くような音と、憑依状態になって咆えているような、人間らしからぬ者の声。
段々とその音ははっきりしてきて、遂には睡眠に支障が出るようになった。何度も同じリズムが聞こえてくるので、その音を暗記してしまうくらいだった。
邪気による何かの症状かと疑ったが、医務室に行っても心霊内科に行っても「特に何も異常はない」と言われる。
そこで、その謎の音楽についての悩みを、局の中の知り合いに喋った。
モニカから話を聞いた局員は、次の日には欠勤し、その後、行方不明になった。




