エムとターナの奇妙な日常3
間違えているわけではないだろう。だからと言って気を抜いて良いわけでもないだろう。
道中一切見ることの無かった、立て看板に出くわした。緑青の吹いている銅で出来た矢印は、西を向いていて、其処には「灰沼井戸」と刻まれている。
エムとターナは矢印の方向を見て、固まっている。
矢印に示されている「灰沼井戸」は、つい昨日出くわした幻影の園とよく似ている。しかも、方向としては崖が切れる場所にあり、「見えるままに進む」と崖から落下することが考えられる。
エムはヒソヒソ声でターナに囁いた。「これ、罠だよね」
ターナもヒソヒソ声で答える。「絶対罠だね」
エムは一度疑ってみたが、「でも、妖精しか入れないように、こう言う造りにしているって言う事は考えられるかな?」と提案してみた。
「どうやって確かめる?」と、ターナ。
「ターナだけ移動できるんだったら、やってみてほしい」と、エム。
「うん。ちょっと待って、人形を作ってみる」
そう言って、ターナはエムの荷物から色鮮やかな紙を取り出すと、何か唱えながら折り始めた。言葉を唱えている間に、折り終わった紙の要らない部分を切り取る。
魔力の宿った小さな花の形のような人形が作られ、ターナはそれの中に滑り込んだ。金属のぶつかるような音がすると、花型の紙は、赤い童子用の着物を着た女の子になった。
肌の色は白やピンクと言うより薄いオレンジに近く、エムと同じく髪は黒、瞳は灰色。年の頃としてはエムより幼く見える。髪の毛は前髪をパラパラと残したボブカットで、足元には、靴ではなく分厚い板を加工した東の国の履物を備えていた。歩く度に、軽い板の音がカランコロンと鳴る。
「それじゃ、ちょっと覗いてくるね」
ターナはそう言って、緑の草原に包まれた「灰沼井戸」らしき場所の中に入って行った。
草原の中には、一級の彫刻家が細部までこだわって作った、小型模型のような家々が並んでおり、丈夫な木々の途中や枝の中にも、小型のツリーハウスがある。
ターナは、何処で足元の感覚が無くなるかを確認しながら、村の中を見回した。
耳の咎った小さな妖精達も、ターナが歩く影をじろじろ見回し、ターナがそっちを観ようとするとサッと物陰に隠れた。
小さな妖精達の中で、さらに小さな子供の妖精が、怖いもの見たさと言う風に家の陰から出てきた。
ターナと目が合い、その妖精は呆然としたように硬直する。
その妖精の親らしき妖精が家の中から飛び出してきた。
逃げちゃう、と思い、ターナはとっさに「待って」と言って手を伸ばした。
細い手足を握ったら折れそうだったので、妖精の体全体をふわりと持ち上げた。
「あなた達、エルフ?」
そう尋ねると、子供を抱きかかえたままターナの手の中でうずくまった女性は、視線を鋭くして答える。「そうだと言ったら、貴女はこの無作法な手をどうする?」
「あ。ごめんね」と言って、ターナは自分で踏んでしまわない場所に親子を下ろした。「私、ターナって言うの。この近くに、『灰沼井戸』って言う村はない? それとも、ここがそうなの?」
穏やかな声で聞いてみると、美しい金糸の髪とセピアの瞳をした母親は、子供を自分の後ろに隠し、園の一方を指さした。
ターナが罠かもしれない園の中に出かけてから、十五分。
八歳の男の子が待つだけにしてみると、とても長い時間を待ってみた。だけど、世の中の認識としては「たかが十五分」であることはエムも承知している。
もう少しゆっくり待とうかと、地面に座りかけた時、「エムー!」と呼ぶ、ターナの声が崖の下から響いてきた。
やっぱり罠だったのか? 崖から落っこちちゃったの?
そう思って、園の様子に邪魔されない場所まで回り込み、崖の下を覗いてみた。ターナの呼ぶ声は聞こえる。そして、崖の下で複数の何かが騒いでいるのは分かるが、それは大地の中に隠れている。
「井戸だよ。井戸を降りて来てー!」と、呼びかけるターナの声は、必死であるが明るい。
エムも、そのヒントを頼りに、妖精の園の中に踏み込んだ。
巨人になったような感覚で園を歩いてくと、古びた井戸が見つかった。その井戸だけは、人間ほどの体躯の者が使うサイズで作られている。
滑車を軽く引いてみて、手に水桶の重みを感じた。水は湧いているようだ。
「エム!」と、井戸の中からターナの声がする。「急に落っこちないように支えるから、ロープにつかまって!」
エムは言われた通りにロープに両手でつかまり、脚を絡めた。少しずつ、少年の体は井戸の中に降りて行く。
時間にしたら五分もかからず、エムは井戸の途中まで来た。それより下は、地下水が溢れている。井戸の中をぐるりと見回すと、薄暗い中に真っ赤な色が見えた。ターナの着物の色だ。
横穴があると分かって、エムはそっちの方に足を延ばし、ターナも、エムが水没せずに移動できるように手を貸した。
横穴の先には光魔球の明かりが燈っている。
「『灰沼井戸』は、この先」と、ターナは言って、石床に履物をカラカラ言わせながらエムの手を引いた。




