エムとターナの奇妙な日常1
ネイルズ地方の北端。限界断崖を目指して、齢八歳の少年は人気のない道を――そもそも道と呼ぶものが無い場所を――ガサガサバリバリてくてくと開拓中であった。
木々や草葉の棘を避けるための丈夫なマントを着て、足元は蛇除けのための青い労働着と黒いブーツで覆っている。両手は人差し指と親指だけを出した革の手袋をして、腕はやはり丈夫な布地の衣服で覆っている。
所々、茂みの深い場所は、低木の枝をナイフで切って進んだ。
深い梢を越えて、西に傾き始めた緋色の光が森に差し込んできた。
様子のおかしさに気付き、少年は灰色の瞳を瞬かせ、ポケットから磁石を取り出した。片手に握っていた地図と見比べるが、磁石はずっと回転し続けていて、一向に北を示さない。
「ターナ」と、少年は左肩のほうに呼びかけた。
少年の肩に白い炎のようなものが燈り、それは青白い少女の姿の輪郭を得る。そして一方を指さしこう言った。「北は向こう」
「やっぱりおかしいよ、この辺り」と、少年は磁石を観ながら言う。「さっきから、磁石が全然別の方向をさすんだ」
「地面に磁力の強い石でも埋まってるのかもね」と、ターナと呼ばれた少女の霊体は言って、また白い炎の姿に変わると、すぐに炎の影も消した。少女の声だけが言う。「エムが変な方向に行こうとしたら、無理矢理でも顔を北に向かせるから、注意して歩いて」
「分かった。頼むね」と言って、エムと言う少年は少女の霊体が指を指した方角と地図の方向を合わせると、地図に沿って歩き始めた。
紺色のフード付きマントを着ている黒髪の少年は、エム・カルバンと言う。ファルコン清掃局に所属し、三年間訓練を受けた後、相棒のターナと一緒に局のために働いている。
八歳の子供が出来る仕事と言うと、責任が軽くてすぐに放り出せるもの……では成らない。
エムとターナは五歳の頃からみっちりと「人間としての責任」を教え込まれ、他の大人達と混じって仕事をしていても、その顔つきに甘えはない。
そんな二人が、辺境を目指して歩いているのには、それなりの理由がある。
シリコン化した大木の砕けたものが散乱している限界断崖には、古い種族が住んでいる。
かつて、その土地が森だった時から住んでいる種族だ。彼等は大地の軸が変動して森が枯れ朽ち、荒れ野と成った後でも、同じ大地に住み続けている。
実りのある森の中に住むのとはわけが違うので、限界断崖に住むその種族は、特殊な魔術を使う事で外敵を退け、荒れ野での恵みを勝ち得ている。
「その種族と言うのは?」と、エムが質問した時、今回の仕事を持って来た局員は「エルフだ」と答えた。
本来、エルフと言うのは耳の尖った小さな妖精をさすようだが、限界断崖に住んでいるのは人間ほどの体躯を持つエルフで、血統としては古代エルフに属すはずだと聞かされた。
「彼等は人間と比べると、永遠と言っても良い長い期間を生きる。美しさは衰えず、厖大な魔力を維持したまま。限界断崖に住んでいるエルフは、主に風と水を操る」
金色のウェービーヘアをポニーテールにした局員は言う。
「彼等の領域に侵入したら、炎の術は使うな。その術を使うだけで『禁忌』を破ったと見なされ、大地に魔力を吸いつくされる」
「明かりはどうしたら良い?」と、エムは聞いた。
「光魔球を使え。光そのものの力なら『炎』だとは判断されない」
そう指示を出されてから、エムとターナは仕事の内容を聞いた。
局員は言う。
「夢見ヶ淵と言う曲の旋律と演奏者の魔力波を調査、記録して来い。完全な記録データが取れるまで、何ヶ月かかっても構わない。良いか、必ず、古代エルフの奏者が演奏しているデータを記録して来くるんだ。人間や、他の種族の演奏では使い物にならない」
そのデータを何に使うのかを聞くほど、エムとターナも野暮ではない。頼まれた事だけをしっかりと頭に刻み、次の日にはクオリムファルンから抜け道を通ってネイルズ地方に侵入した。
道に迷いかける度に、ターナがグイッとエムの首を北に向ける。
夕陽の残り日が空の端から消えかけて来たので、少しの拓けた場所を見つけて野宿をすることにした。
マントを脱いで地面に敷くと、その内側には結界の魔法陣が描かれている。魔法陣の真ん中に指を置いて、「開放」を意味する言葉を唱えると、子供一人が寝転がるに十分な結界が展開された。
斜め掛けにしていた鞄から、僅かの食べ物と水筒と寝袋を取り出し、決まった量だけ食べて唇を水でぬらすと、荷物を盗まれないように抱え込んで寝袋に収まった。
夜の闇に朧げな姿を現したターナは、害獣からエムを守る見張り番をする。
「寒くない?」と、ターナは聞いた。
「大丈夫」と、エムは答える。「そう言えば、限界断崖に行っても、焚火は禁止だね」
「そうだね。到着する間に何か焼いたものを食べておこう。貴方の体が持たないと、話にならないから」と、ターナが提案するので、「狩りをする事になるのか」とエムは答えた。
「野鼠と野兎、どっちが食べたい?」と、ターナは意地悪を言う。
「出来たら……兎かな」と、エムは真面目に答えた。
「兎が可哀想とか、無いんだ」と、ターナはつまらなそうに返す。
「食事の話に可哀想を持ち込んでたら、飢え死にますよ」と慇懃に述べてから、エムは黙り込み、そのまま眠りに就いた。




