29.眠りに就くとき
少年の背から生えた、気流と熱を伴う白い腕は、まるで光る翼のように見えた。ガルム少年は、その翼に支えられて空中に浮遊し、意識を失った姉を抱きかかえた。
上空を観ると、さっきまで攻撃を仕掛けて来ていた者達が、散るように逃げて行く。
恐らく、彼等は目的を達せずに、退避する事にしたのだ。
ガルムは、姉の首をさぐり、脈がある事を確認した。呼吸はか細く、脈拍はゆっくりだが、確かに鼓動は打っている。生きている。
浮遊している状態に戸惑っていると、一匹の蜂が近づいて来た。刺そうとするわけでもなく、威嚇するわけでもなく、ガルムの肩に、ひょいっととまる。
「アン・セリスティア。こちら、タイガ・ロンド」と、蜂から人間の声が聞こえた。声質からして男性だ。「貴女の現在の位置を記録したい。結界を解いて下さい」
「え……。あの……俺は……」と、ガルムは言いよどむ。
相手は、声が違う事を察し、「アン・セリスティアではありませんか?」と問い質してくる。「あなたの名前は?」
「ガルムと言います」と、名乗って、「ガルム・セリスティア」とフルネームを告げた。
「アン・セリスティアの弟の?」と、声は聞いてくる。
「はい」と、ガルムは答え、「結界を解くって、どうやるんですか?」と聞いた。
相手にそれまでの経緯を話し、簡単なエネルギー流の扱い方を教えてもらった。
結界で阻害されていたガルムとアンの状態を確認し、位置の記録を終えると、タイガと言う人物は「それでは、二人の身柄をハウンドエッジ基地に転送します」と確認し、ガルムは「お願いします」と答えた。
基地に保護されたアンは、軍病院に移送され、そこで延命措置が取られた。脈も呼吸も落ち着いているが、意識が戻らなかったからだ。
左腕の凍傷の痕は、回復の術をかけられても色素沈着が残り、青痣になった。
ガルムも軍病院に連れて行かれ、魔力測定と思考力の検査を受けた。アン・セリスティアの特徴でもあった、「複合意識」を受け継いでいないかを調べられたのだ。結果としては、ガルムの意識の中に「別の意識」は存在せず、ガルムははっきりとした単一の意識を保有していた。
そして姉から譲り受けた、「生きた爆弾」どころか、「生きた兵器」とでも言える、異常なほどの高出力の魔力も持っている。
術の基礎を学んでいないので、今は、ぼんやりとしたエネルギー流しか扱えないが、鍛えようによっては、生半可な魔神よりレベルの高い術が扱えるだろうとされた。
複合意識までは受け継いでいないのだが、ガルムの意識の中には、静止イメージとして、アンの意識の断片が残っていた。
そのイメージを調べる事によって、アンとガルムを取り囲んでいた「敵」が、確実にドラグーン清掃局の、局員や役員達であると判断出来た。
ドラグーンの局の者達が、今まで仕事で封じ、不完全なエネルギー変換を施した邪気を、意図的に解放し、それを悪用した事も分かった。
法の裁きが必要なのが誰かがはっきりした後、タイガはガルムに代理人を付け、法的機関に資料を提供した。
「アン・セリスティア」にかかっていた疑いを返上させ、ドラグーン清掃局が邪気を悪用した事を公に明かした。
その事件を嗅ぎつけた情報屋は、ドラグーン清掃局のスキャンダルを、大々的に書き立て、公共放送でも速報を流した。
談義番組などでは、様々な業界の知識人等が、数週間に渡って「ドラグーンと言う有名清掃局の起こした恐ろしい顛末」についてを語り続けた。
ドラグーン清掃局は汚名を着る事になり、有能な局員達が他の清掃局に引き抜かれて行った結果、その名は地に落ちた。
法的な処罰を受ける間だけ、その存在は一般民の目耳を楽しませたが、清掃局として運営して行く資金と技術を国に没収され、ドラグーン清掃局は「かつて存在した没落企業」として記憶されるだけになった。
訴訟が終わった後のガルムは、病室のガラス越しに姉を見舞っていた。
白いベッドの上のアンは、補助術師の術と、魔力波で起動する機器による治療を受けている。白い睫毛を穏やかに伏せている彼女は、眠っているだけのように見えた。
「ガルム君」と声をかけられ、ガルムはハッとしたように声の方を見た。タイガが、伏せがちな目を瞬かせながら、ガルムのほうに歩み寄ってくる。
「アンさんは、きっと、大丈夫だから」
困ったようにタイガは少年を励ます。何せ、その目を受け継いでしまった以上、ガルム少年にぼんやりしている時間はないのだ。
「君は、君の身の振り方を考えなきゃならない。このまま、政府の管理に置かれるのは、君のお姉さんも望んでないと思う」
「はい……」と、ガルムはおぼつかないように答えてから、「だけど、この目を持ってる人は、公の仕事に就かなきゃならないんですよね……」と、ガルムは硝子に映っている自分の目を指さす。青のカラーコンタクトレンズに隠されている、その奥の朱色を。
「今の所、僕を雇ってくれそうな仕事が思い浮かばなくて」
「うん……」と、タイガは一度頷いた。それから、「その事なんだけど、君が朱緋眼を持ってることは、まだこの基地の、一部の人しか知らないんだ。だから、隠し通すこともできるよ? 僕達の威信にかけてね」と続けた。
「ありがとうございます」と、口元を引き締めながら、ガルムは答える。しばらく二人は黙った。
二人は、静かに呼吸を続けて居るアンを見つめる。彼女はまだ生きている。
そうだ。彼女を生かさねばならない。力を得て、もっと強い力を得て、どんな難敵からも彼女を守れるように、強く在らねばならない。
ガルムは、言おうとしていた言葉を、告げた。
「それだったら……。軍に入ることは、出来ますか?」
タイガはしばらく考えるように俯いたが、意を決したように瞬き、顔を上げてガルムを見ると、「君がそう望むなら、可能だ」と、力強く答えた。
島国の北に位置する国で、山脈を超えた東側に、そのおうちはありました。
おうちには小さな庭があります。庭を保温する結界に守られ、球根から花が咲いて、草は刈り取られ、整えられた木々の生えている、とても美しい庭です。蜂や蝶が蜜を求めて飛び交い、なんとも賑やかなものです。
そこで、四歳のアンちゃんは、一人っきりを楽しんでいました。
並んで咲いているチューリップを覗き込んで、どれかの中に小さなお姫様が隠れていないか、探しています。
何をしているの? と聞いてくるのは、花を咲かせたチューリップ達だけです。
「んんん……。ないしょ」と、アンちゃんは、はにかんで答えて、唇の前に人差し指を立てました。一人っきりの秘密の遊びを、邪魔されたくないのです。
何処かで、焼き立てのクッキーの香りがしました。それから、アンちゃんを呼ぶ声がしました。
「お茶が入ったわ。休憩しましょう」と、優しい声が言います。その声の主は、香木のような丸い香りをした魔力を持つ、金色の髪とアクアマリンの瞳が美しい、青いドレスの女性でした。
アンちゃんは、生れて初めての、ゆっくりとした時間を過ごしていました。
魔女の庭の片隅に、小さな幻想を残して。




