22.旅のお土産
高い山の上に、伏せた皿のような雲のかかる空を、アンは「肌寒くなって来た」と思いながら箒で滑って行く。
生物が飛んでいると言うのなら、もう少し起動がぶれたり進路が有機的であっても良いようだが、飛空艇より安定した高度と速度で、一人の魔女はツーッと空を滑って行く。
途中、ガラスベルを鳴らすような音が、彼女のポケットで響いた。身分証に出国許可印が押されたのだろう。
内容の濃い一ヶ月だったと、彼女は思い返す。そして、あんまり色んな町を見回している時間が無かったなぁとも考えた。出かけたのは、雪水湖と白霧森、割鉢街道の馬車の旅と、黒散原野の近くの町と、山間の路築町……その他に、原生林の中と岩山の蜂蜘蛛の住処。
織七巡には結局立ち寄れなかった。
私、何のためにオシャレして旅行に行ったんだっけ? と、彼女はちょっとだけ疑問を思い浮かべてみた。
しかし、ローズマリーに占ってもらった結果から、もめごとに頭を突っ込んでみてよかったのかも知れない。これから二ヶ月をのんびりと過ごす為だったと思えば。
それでも、ローズマリーの占いには、まだ含みのある部分がある。「龍の産んだ二つ児」の事だ。
アン達の推測としては、十四年前に生まれたもう一人の龍の子は、弟であるガルムでは無いかと言う事で結論が出ている。
調べてみる必要がある。
そう思ったが、意識の中で共存している子供達は不服そうだ。彼等は彼等で、アンと「一緒に生まれた」のだと思っているのだから。
アンの意識の中には、小さな町がある。
十四年前に大破させた、検査機関の在った町に似ているが、彼等はそのままの生活は望まなかった。
家を建て替え、壁を塗り替え、何処からともなく仕入れをして、新しいお店を開き、人気の無くなった商売は廃れて行く。
彼等はいつでも「アン」と一緒にいて、夫々の近くに居る「アン」を家族だと思っている。アンの普段の考え事は「相談」だと思っていて、常に口を挟んでくる。
だからこそ、全員の目的や意見が一致していない時は、アンも頭が複雑に働いて「なんだか落ち着きの無い人」のように振舞ってしまう。
この十四年でだいぶ普通に振舞えるようになって来たが、観察眼の鋭い人には二日も一緒に居たら、「なんか変な奴だな」とばれてしまう。
――ファルコン清掃局。
頭の中で誰かが言った。
――ランスに話を聞いてもらおう。あの人なら、安全にアンの事を調べられる。
アンは唇を噛んで少し考え、「そんなに気軽に頼みごとをしに行けるような間柄じゃないよ」と、頭の中で返答した。
――なんでさ。またいつか逢おうって言ったんでしょ?
「そんな事は言ってない」と、アンは思わず口に出して答えた。「会う気がするって言っただけ」
――素直じゃないなー。
そう頭の中の誰かは言うが、アンは十分自分の考えには素直であると自負している。
「ネリアにでも相談してみるよ。意識を探る術は彼女も得意だ」
そう口に出して返事を返すと、わちゃわちゃ言っていた頭の中は急に静かになった。
「何? 気に入らない?」
アンが冗談半分でそう言うと、冗談ではないと言う風に、頭の中で複数の声がする。
――あの人は信用成らない。
――絶対、ランスに相談したほうが良い。
――ドラグーンを信じすぎちゃいけない。
「何故?」と、アンが短く尋ねると、彼等は口を揃えて言う。
――あいつ等は、常に、アンの心を殺そうとしてきたじゃないか。
アンは、この手の返答に困ってしまう。何せ、自分が「心を殺す」事こそが、事故を起こさない最良の手段だと信じるように、躾けられているからだ。
「私が我儘になると、もっと困る人が発生するんだよ」と、アンは答えた。
トラウマに付け入り、徹底的にアンの心を縛り付けてきた「躾」は、今も彼女の心を拘束しているのである。
アンの箒は、自宅がある町の近くに差し掛かった。
自宅に近づくにつれて飛翔高度を落とし、二階の窓に箒を寄せる。
指に魔力を込め、鍵のかかっている窓の前でくるりと円を描く。鍵の役目をしていたネジが、くるくるとほどけて床に落ちる。
窓ガラスを開けて、カーテンを退け、アンはきっちり一ヶ月ぶりに自宅に帰った。床板の軋む音さえ懐かしい。
鍵のネジを元通りにネジ穴にしまい、パンパンに膨らんでいるリュックサックをベッドの上に置く。
コンコンコンと、ドアをノックする音がした。
「ねーちゃん。お帰り」と、扉越しにガルム少年の声がする。床の軋む音に気付いたようだ。
「あー。今、着替えてから、降りるから」と、アンは実際、ワンピースの背中のジッパーを開けながら答えた。
「分かった。食事は要る?」と、ガルムは聞いてくる。
「セロリのスープが飲みたい」
「分かった。トマト味で良い?」
「どちらかと言うとチキン味で」
そう答えると、弟は黙ってから、「ちょっと鶏の首買いに行ってくる」と応じ、廊下の床板の軋む音が階下に向かって行った。
どうやら、残してあるブイヨンでは、スープを作るには足りないようだ。
家着として使っている、モフモフのセーターとモフモフのブルマーを着て、アンは一階に降りた。
お土産として買って来た缶詰を、三つほどキッチンのテーブルに置き、薪ストーブに近づく。
熾火が残っている事を確認して、薪と炭を追加し、熱される部分に、水道から水を入れた鉄製のポットを置く。
壁掛け時計が秒を刻み、十分くらいで水はお湯になった。充分に煮沸するために、暫く湯気が出続けるのを、じっと眺める。
ポットの金属がかんかんと音を鳴らし始めた。もう良いかと言う風に、分厚く折り畳んだ布巾を挟んで、ポットの取っ手を掴む。
陶器のポットに茶葉を入れて、カップとポットにお湯を注ぐ。茶葉が浮き沈みするのを待って、カップを温めるためのお湯を捨ててから、茶こしをポットの鼻先に備えて、オレンジ色の茶を注ぐ。
この時、ふやけた茶葉が茶こしに引っかかるのは、見ていて何となく爽快だ。
「ガルム君はお菓子を作っておいてくれたかな?」と呟きながら、焼き菓子を入れて置く用の大きな缶の蓋を開け、覗き込む。期待通り、大きなビスケットが缶の半分辺りまで詰まっていた。
実に、姉の好みをよく知っていてくれる弟である。
アンは弟手作りのビスケットと自分で淹れたお茶で一息つくと、テーブルの上に置いておいた缶詰を見つめた。
南国のお菓子の箱みたいな極彩色のラベルが貼られたその缶詰には、キリっとした字体で「ドラゴン肉」と描いてある。
お店の人の話では、缶詰を開けないまま熱湯で十分煮ると、濃厚なドラゴンのソース煮込みが食べられるのだそうだ。
「エイデール国でしか食べられない珍味と言ったらこれですよ!」と、店員さんは大推薦してくれた。
ドラゴンの血には、人間には有毒な成分が入っているので、血を抜いて真っ白にした肉を、長時間ソースで煮込んで作るのだと言う。ドラゴンの肉の味はしないが、ドラゴンの触感は楽しめるはずだ。
戻ってきた弟は、どんな反応を見せてくれるだろう。
ニヤニヤしながら、アンはビスケットを齧り、茶を飲んだ。




