20.重篤な症状
タイガのプレゼンテーションの間、セラは常に「胃袋の中が冷たくなったような気配」を感じていた。
そのためか、タイガの語った「現在の蜂蜘蛛の生体と行動様式」や、「守護幻覚を発現している子供達は蜂蜘蛛を守り、蜂蜘蛛から守られる共同生存関係を築いている」と言う内容を苦々しく思っても、反論も出来なかった。
タイガは言う。
「今現在でも、ブレインに打ち込まれている情報と、私やノリス・エマーソンの集めた情報には『誤差』があります。どのように違うかは、お手元に用意した二つの資料を見比べて下さい。青いインクで印刷したものが、ブレインに打ち込まれている情報。黒いインクで印刷したものが、私達が本来集めてきた情報です」
タイガは改まった口調のまま、淡々と説明する。
次の世代として生まれた蜂蜘蛛達は邪気をほとんど纏っておらず、濃度十程度の微弱な邪気を発する他は、霊的な力を帯びている。
その蜂蜘蛛達には、カオン・ギブソンやノリス・エマーソン、そして孤児達による人語での教育が成され、「家族」と言う群れと、人間の習性を理解している。
知力の上昇により、他種族との交流が可能であり、会話による意思の疎通が取れる。
蜂の習性以上の繁殖は見られず、次世代以降の蜂蜘蛛達のテリトリーも、ネイルズ地方の黒散原野内部に限定される小規模なものである。
以上の理由により、次世代の蜂蜘蛛に、野生動物以上の危険性は無いと判断できる。
両方の資料を見比べた、重鎮達や出席者達の間で、「まるで違う内容じゃないか」と言う意見が口にされた。会議室がざわざわ言い始める。
セラは、背を丸め、テーブルに肘をついて、握り合わせた手を口元に寄せ、「黙れ。お前は邪気の侵食を受けているんだ。そう言って詫びろ」と念じながら、じっとタイガを睨んでいた。
しかし、セラがどれだけ魔力に訴えかけても、タイガはけろっとした顔をしている。
むしろ、魔力を放っているセラのほうが、脅しをかけられているような緊張感を覚え、声を発しては成らないような恐怖の中にいた。
セラは魔力の使い方を覚えて二年目だ。通信兵ではあるが、睨むだけで他人を黙らせられるくらいの視線と、術の使い方も覚えた。そのはずなのに。
タイガはセラの「念術」に気づかないかのように、どんどん「正確な情報」を提出し、ブレインには間違った情報が入力されているとの説明を完了した。
「蜂蜘蛛の情報管理者は誰だ?」と、少佐がタイガに聞く。そこでようやくタイガは、少し緊張した表情になり、「セラ・リルケです」と答えた。
会場内全員の視線が、背を丸めているセラに注がれる。
「セラ・リルケ。何故、誤った情報をブレインに入力した?」と、重鎮の一人が言う。「単なるミスと呼ぶには、重大な『誤差』だと思うが」
セラは、ぐうっと音を鳴らして、息を呑みこんだ。
卒倒したセラ・リルケが医務室に運ばれてきた。白目をむいており、開いたままの口からは涎と、唇をかみしめた事による少しの出血が見られた。
ガートは、なんだか同情する気に成れない患者を見て、「念のためは有効だったか」と納得した。一見、唯の「状態保存」にしか感じられないように、タイガの周りに薄い障壁を作っておいたのは正解だった。
自分の発している、ほとんど邪気と言える魔力に脅かされたセラは、「私は!」と叫んで椅子から立ち上がると、支離滅裂な言語を発し、最後に「狂っているのです!」と残して、意識を失ったらしい。
自分の発狂を証言して意識を失う……と言うのが、確かに何等かの精神疾患を抱えているように見られたことから、セラは狂った魔力を発さないように力を封印され、精神医療施設に運ばれた。
重鎮達の即決で、セラは通信兵と管理職としての資格を失い、兵役義務も解除された。これから、彼には病棟での、長い人生の休暇が待っている。
タイガは、軍医術師達の間で「それとなく秘密にされていたセラの事」を、ガートから教えてもらった時、気が抜けたようにハハハと笑った。
「『自分は狂ってる』なんて発言しちゃうほど、呪いを発さなくても良いのに」と言って。
「一歩間違えば、お前がその状況に陥れられてたんだぞ」と、ガートは眉を寄せ、真面目な顔で忠告する。「特に、反対意見の出そうなプレゼンをするときは、『障壁』を忘れるな。お互いが冷静でこそ、話し合いと言うのは進展するんだ」
「これからは気を付けます」と言って、タイガは医務室のベッドに座り込み、横たわる。「『保存』が切れかけてる。一時間だけ眠らせて下さい」
「永眠するな?」と、ガートは笑いもせずに冗談を飛ばした。
「自信ないです。時間に成ったら起こして下さい」と言うや否や、タイガは瞼を閉じ、眠りの中に引き込まれた。
静かな寝息を立て始めたタイガは、二年前よりずいぶん身長も伸びて、中性的だった顔つきも男っぽくなってきている。
去年辺りは、身長の伸び過ぎでアキレス腱が痛いと訴えてきた事もあった。
イリル、お前に弟が居たら、このくらいかもしれないぞ? と、ガートは心の中で亡き娘に語り掛けた。
それから、すっかり慣れた心の中の独り言を自嘲する。
その白衣の背中に寄り添うように、青白い少女の影が浮かんでいることに、ガートは気づいていないようだった。
「撤退だ」と、現地で指示を出していた中尉が言う。「基地からの報告で、蜂蜘蛛には危険性がないと判断された。我々はこれ以上、この地に居座ることは出来ない」
隊員の一部は反対した。蜂蜘蛛に危険が無くても、殺された仲間の敵討ちもせずに引くのかと。
中尉は述べる。
「我々がこの地に居るのは、私怨のためではない。任務のためだ」
位としてはそう強制力のない立場だが、中尉はきっぱりとした口調で宣言する。
「我々は、地雷原だと言われている場所にわざわざ出かけて行き、途中で地雷を踏んで負傷しただけだ。誰も恨むな。その地雷を埋めたのは、我々なのだ」
自業自得と言う言葉を知っていても、「正しいはずの情報」に従って危険な魔獣を討伐に来たのに、「その情報は間違いでした」と後から教えられた方としては、納得は行かないだろう。
しかし、脚を一本使い物にならなくされた、先の帰還兵は、一時期は激高していたものの、真実が分かってみるとひどく恥ずかしい気分になった。
無害になった生き物を怯えのままに殺しに来て、逆にその生物を守る人間によって殺されかけて、その人間を悪魔だと心の中で罵っていたのだ。
恥ずかしさを覚えるのは、矛盾に気づいたからだ。だが、自分達が身に受けた拷問の記憶と、使い物にならなくなった体の一部は、回復できない。
「誰も殺さなくて良かった」
そう泣き言を言った兵士に、あの女が最たる怒りを感じた理由。それは、彼が「命の数」に数えていなかったからだろう。あの女が守ろうとしていた命を。
生き残った二人の負傷兵は、基地に輸送され、間もなく除隊した。これからも、麻痺の残った手足を引きずり、怯えて目を覚ます日々を続ける事になるだろう。




