九話 偽善は終わった苦しみは始まった
『救う』とはどういう意味なのか。近頃よく考える。そんな簡単なこと分かっていたつもりだったが、あの犬を知って思う。
『救う』とはどういう意味なのか。本当の救済とはなんなのか。
ただ、あの檻から出すだけが救済といえるのか。初めの頃は檻から出すことが犬を救う唯一の方法だと思っていた。
しかし、檻から出したところでそれから先はどうする。中途半端に救ったところで、そんなの尻切れトンボじゃないか。
そのことを四六時中考えていると、ジレンマにはまり精神的におかしくなる。前にも増して私は暗くなった気がする。両親にあたる態度がきつくなった気がする。
悪いことを悪いと思わない、大人を私は許せなかったのだ。だから結果として態度がきつくなっていたのかも知れない。
大人が助けてくれないのなら、私が助けるしかないじゃないか。数か月ものあいだ私は悪夢をみた。それは自分が生まれてからこのかたずっと、糞尿まみれの檻に閉じ込められている夢だ。
その檻の中で私は毎日変わらない。一生涯変わることのない景色を見ている。それはパレットだ。積み上げられたパレットを私は一生涯見続けるのだ。
パレットの向こうはどうなっているのか、想像して一日が終わる。それしかすることがないのだから、ずっと考えている。
翌日は雨だった。雨が天井の鉄格子を通り抜けて、地面を濡らす。
私はビショビショ。体を震わせて体温を保つ。しかし、思い出したように吹く風で私は震えあがるのだ。
季節は真夏。さんさんとした太陽の光が檻の中に降り注ぐ。暑くて動く気も起きない。喉が渇いた。水を探す。置かれていない、ボーっとした頭では何も考えることができずに意識を失った。
季節は移り変わり、冬になった。冷たい風が私の体に打ち付ける。濡れた地面に私はまるまった。意識が遠のきまるで冬眠している熊のような感覚だと思う。
少しでも体温が逃げないようにできる限り、体をまるめ無駄な体力は使わない。体の上に雪がつもり始め冷たいと、思えたがしばらくするとあたたかい、という感覚になる。
『麻痺』という感覚なのだろうか。
「あたたかい」こんな「あたたかい」なら、麻痺でもなんでもいいや。
そこで私は目をさました。
私は夢を見ていた。あの夢は犬の夢だ。私があの犬になった夢だ。妙にリアルな夢だった。あの犬が私に夢を見せたのかもしれない。
自分がいま置かれている状況を夢に見せ、助けを求めているのかもしれない。
「僕にどうしろっていうんだ!」
布団を蹴飛ばし私は叫んだ。心の底にたまったドロドロのなにかを吐き出すように私は叫んだ。それは悪夢をみたときに叫び起きる、感覚に似ていた。
あの夢を見てから前にも増して失敗が多くなった。失敗が多いいのを夢のせいにしたくはないが、あの夢を見て以来、私はよく失敗するようになったのだ。
魂の一部をあの檻の中においてきたようで、何をするにも気が入らない。檻から出せたとしても、あの飼い主に飼われている限り本当の救い、というものはない。
あの飼い主から引き離す方法。私たち家族が救った、とばれない方法。
そこで私は自分をあざ笑った。一匹の命がかかっているというのに、最後は自分の心配だ。なんて臆病な人間だろうか。
誰もかれも、臆病者で他者の痛みなど、隣人の痛みなど考えもしない。偽善者の集合体
考えているふりはするものの、上辺だけ。その痛みに共感し痛みを分かろうともしない。それでいて、他人を傷つけ、おとしめて、喜ぶ不届き者。
私はつくづく人間という生き物を嫌いになった。
私も人間ではないか、自分自身もいやになる。どうして人間はそこまで残酷になれるのか。ちっぽけな、私の頭ではなにも分からない。
世界中の人間が答えを出せないでいる、世紀の問題に私が答えを出せる訳がないのだ。
あぁあ、どうすれば犬を救うことができるのか。
そのあいだも私は毎夜工場に通う。犬は私が行くたびに、「キューン、キューン」と悲しい声をあげる。
犬の頭をなでながら、
「なぁ、おまえは救われたいか?」
と私は犬に問うた。
犬に私の言った言葉など分かるはずがないか、と思ったそのとき、
「助けて、助けて」
と、犬がしゃべった。私は耳を疑う。どういうことだ、犬がしゃべっべるなどあり得ない。
私がボケっと立ち尽くしていると、
「わたしを助けて……この終わりのない地獄から救い出して……」
月の光を反射して揺れる瞳孔は本当に私に語りかけているように見えた。
初めは幻聴だと思った。しかし、やけに鮮明な幻聴だ。本当に幻聴なのだろうか。もしかしたら、本当に犬がしゃべっているのかもしれない。
でないと、ここまで鮮明な幻聴があろうか。
私は恐る恐る犬に話しかけた。
「た、助けてあげたいよ……だけど僕にどうしろっていうんだよ……?」
犬の瞳の中に私はいた。犬の瞳の中に私は囚われている。その瞳には不思議な力が宿り、私は目をそらすことができない。
犬の瞳に吸い込まれるようだった。
「君はもう分かっているはずだよ。わたしを救う方法は一つしかないのだから」
犬はいった。
私は口をぱくぱくさせる、もう私が知っているというのか。知る訳がないじゃないか、知る訳が、知る訳が、知る訳が……。
もう一度犬はいった。
「もう君は分かっているはずだ。偽善はやめなさい、君はやさしい子だ。わたしのことを気に留めてくれたのは君だけだ」
犬はそういった。私は……分かっている。ずっと、前から分かっていた。もう何か月も前から分かっていた。
犬を救う方法が一つしかないことを私は分かっていた。
そう、私は分かっていたのだ。自分は偽善者だ、分かっているのに、知っているのに、知らないふりを決め込む、そんなの薄汚い大人と同じじゃないか。そう、私は偽善者だった。
しかし、もう偽善は終わりだ。もう、知っているのに知らないふりをするのは終わりだ。
もう、終わったのだ。