八話 虐げられた犬に恩恵を
それからでも毎晩泣き声は続いた。犬の声を聞きながら、分かったことがる。土日になると、工場の人間は誰も来づ、犬に餌や水をあげる者がいないということ。
だから、土日になると餌を求める鳴き声が日夜聞こえてくるのだ。その遠吠えともつかない、鳴き声は深く私の心を傷つけ、気がおかしくなりそうだった。
勉強にも気が入らず学校では居眠りをすることが多くなる。夜眠れないのだ。疲れているのに、布団に入っても眠れない。
犬の泣き声で眠れない。布団を顔までかぶっても、脳の髄に染みつき、泣き止むことはない。私はおかしくなりそうだ。おかしくなりそうだ。おかしくなりそうだ。
いや、すでにおかしくなっていたのかも知れない。
おかしくなってないと、あんなことを思いつくはずないのだから。
犬が鳴く、私を呼んでいる。呼んでいる、私を呼んでいる。私は決意した。その日、私は行動に移す決意をした。
私は布団から抜け出し、冷蔵庫をあさった。真っ暗な台所に電球色のオレンジの明かりが灯る。ハム。ハムを見つけた。私は勝手に冷蔵庫から食材を盗み出す、罪悪感と格闘しながら、ハムを持ち出した。
罪悪感はあったが、それを上回る使命のようなものが私を動かしたのだ。
私は蒸し暑い真っ暗な夜道を歩く。月の光でなんとか歩くことができる。月光はどんよりとした雲で見え隠れを繰り返す。それはまるで今の私の心情をあらわしているようだった。
罪悪感と使命感を見え隠れさる、雲の流れは私の心情をあらわしているのだ。
しかしもう決心はついている。
ハムをふところに抱え、私は向かった。犬のもとへ向かった。
数分歩くとすぐその場所につく。目の前に工場が見え、立ち止まる。息があがってきた。心臓が早鐘を打つ。呼吸の速さと、心臓の鼓動がとてつもない速さで繰り返された。
私は動転している。動転していることが、動転していても分かった。蒸し暑い空気を一息吸って、むせかいりそうだった。
気体ではなく液体の空気を吸っている感覚だ。手足に多汗が生じ、ズボンでその汗を拭きとる。私は根が張ったような足を動かし工場の敷地をまたいだ。
これで不法侵入者になったのだ。もう後戻りはゆるされない。
自分が悪いことをしているのは分かる。
しかし、これを悪いと言ったら、この工場の人間は、この村の人間はどうなのだ。悪いことを悪いと言わない、人間はどうなのだ。
少なくともそんな人間よりはまともなことをしていると、私は思う。
足音ができるだけでない歩き方。差し脚抜き足忍び足、という表現がしっくりくる歩き方で、歩いていたが未熟。
砂利を踏みじゃりじゃり、という擦れる音は鳴る。
明るいときに聞くよりも、大きく聞こえる。
すると、鎖がなる乾いた音が響いた。私の気配に気づき、犬が首を上げ唸る。近づくにつれ、糞尿の臭いが強くなり、息も吸えないほどだ。
獣の臭いと、糞尿の臭いが入り混じり、この世のものとは思えない、空間を生み出している。
工場の人間はこの臭いを嗅いでも平気でいられるのか。嗅覚が馬鹿になっているのか。どうして糞尿を掃除してあげないんだ。
考えれば考えるほど分からなくなる。その一方で分かりたいとも思わない、酷いことをしているのに、酷いことをしている自覚がない人間の心理など分かりたいとも思わない。
服の袖で鼻を抑えながら、檻の前までたどり着くと、犬は唸る。
空気を震わす、恐ろしい唸り。
私も怖いが犬も怖いのだ。しかし怖じ気る訳にはいかない、私は手を伸ばせば届く距離まで近づいた。
そのあいだも、犬は低いどすの効いた声で唸る。その低い唸り声を聞きながら私は持ってきた折りたたみ式のナイフを開き、ハムを一口大に切った。
檻のとなりに立てかけるように置いていた、尺をつかみ、その中に一口大に切ったハムを入れ檻のすきまから尺を差し入れる。
犬の唸りが止んだ。
ハムのにおいを嗅ぎ取り、薄暗くハッキリは見えないが鼻をひくつかせているのは分かった。
においを嗅ぐだけで、なかなか口を付けようとしなかったが、空腹にはあらがえなかったようで犬はハムの一切れを舌先で巻き取った。
犬がハムを噛む音が唯一聞こえるのみ。
一口食べると歯止めがきかなくなったようで、次々にハムを食べる。まさにバクバクという擬音を絵に描いたような食べっぷりだと思った。
これほどまでにお腹を空かせていたのか、私は犬の境遇を思い泣いた。涙が頬をつたい止まらない。息をかみ殺し、泣いた。
これを泣かずにいれようか。この犬の姿を見て泣かない人間がいようか。骨だけの体。禿げあがり皮膚があらわになっている、痛々しい体。
あぁぁ、なんと人間とは残酷なのか。どうして、生き物を糞尿まみれの雨風もしのげない狭い檻の中に閉じ込め、土日には餌もあげずほったらかしに、こんな残酷なことができようか。
人間以外にできようか。
私は無意識に手を伸ばし、鉄格子のあいだから私の手を差し入れた。私は犬を撫でていた。脂が指に絡みつきベタベタしている。
一度も洗ってもらったことのないことが分かる。
犬の目が暗闇で光ったそのとき、雲に隠れていた月が姿をあらわし犬の姿を照らし出した。
怯えた目で私を見つめ返している。子羊のような姿。
迷える子羊が私を見返し、助けを求めている。
その日から私は毎夜のように犬のもとへ通った。初めのうちは唸っていた犬も慣れてくるにつれ、私を迎えるようになった。
私が近づく足音だけで私だと分かるようになっていた。
そうなってくると前にも増して情、というものが湧いて余計に苦しくなる。あぁあ、どうして私には小さな動物を救う力もないのか。
どうして、警察にとどけることも、保健所に相談することもできないのだろう。
この工場の人間は毎日この犬をみてどう思っているのだろう。
いや、どうとも思っていない、気にも留めていないからこんなことができるのだが。どうして、私は犬一匹救う力も持たないのか。
私はどうしようもなく、悲しかった。




