七話 偽善の人々
その日から何をするにも、上の空だ。夜になれば、犬の鳴き声が聞こえる。私はなんとも言えない、心情で耳を抑えた。
この暑い中、狭い檻の中で糞尿にまみれて、散歩にも連れて行ってもらえない。犬のことを思うと罪悪感とも取れる嫌悪感を覚えた。
どうして、こんな鳴き声を毎日聞いて、この村の住人たちは声をあげ訴えないのか。もう、あの犬は何年、あんな檻の中に入っているのだろうか。
少なくとも、二、三年以上は立っている成犬に見えた。
二、三年もの間、誰も動いていない。その証拠が、あの犬の姿だ。大人が動いてくれないのなら、自分が動くしかないじゃないか。私は正義感に燃えた。
どうして、大人は動かないのか。大人の誰かがあの工場の責任者もしくは、保健所にでも言えば、解決することではないか。
大人の誰かが、誰かに相談すれば解決することではないか。誰かとは……いったい誰に……。私は考えた。
誰かに相談すると言っても、この村の人間は誰一人として、あの犬のことを見て見ぬふりをしているではないか。
そんな、大人たちに相談して、何が解決するというんだ。
現に誰も動いていないから、今こうやって自分が苦しんでいるんじゃないか。私は犬の鳴き声から、心を守るため布団にもぐりこんだ。
あのまま、あの金切り声を聞いていればきっと、精神を病んでしまう。しかし、いくら布団で音をさえぎろうと、耳に焼き付いた、『声』は消えることはなかった。
私には、「助けて、誰か助けて」と語りかけてくるのだ。
あの犬が私に助けてと語りかけてくる。
耳を塞いでも、頭の中から聞こえてくるその声は消えることがない。
子供の私はどうするのが正しかったのか。あのときの私にはあれしか、他にあの犬を助ける方法が思い浮かばなかった。
誰があのときの私を責められようか。
少なくともあの村の人間に私を責める権利はない。もし、この手記を最後まで読む者がいれば、第三者のあなたに私の善悪を判断していただきたい。
数時間考えあぐねた末、私は思いつく。
私が警察か保健所に電話をかければいいのではないか。そうだ、こんなに悩まなくても、この村の人間に助けを求めなくとも、初めから私が警察に電話していればよかったではないか。
そう思うと、何日も悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてきた。
そこで私はまた考える。誰が電話をするのか。私が電話するのか……。子供のいうことを信じてくれるのか。子供のいうことなど誰も信じてくれないのではないだろうか。
と、私は自分に言い聞かせていたが、本当のところ警察に電話をかける勇気がなかったのだ。
翌日私は母に相談することにした。
「母さん……」
母は手に持っていた、茶碗をテーブルに戻し、
「どうしたの?」
と不思議そうな顔で聞き返す。
私は言おうか、やめるかいいよどむ。
「……角を曲がったところにある工場で飼っている、犬のこと知っている……?」
母は顔に影をつくり、
「ええ……知ってるわよ。夜にいつも吠えてるからね。あなたも気になってたの」
私は檻に閉じ込められた、犬の姿を頭に浮かべた。
汚れて灰色になった白い毛、ストレスで皮膚が露出し、ぶち模様を作る体。歩くこともままならない、狭い檻の中。
糞尿で埋まった地面。夏は暑くても水も置かれていない、雨がふっても屋根がない。風が吹いても壁がない。寒さをしのぐ家もない。
あの犬の絶望的環境を思うと、心が張り裂けそうに痛くなった。
なにを楽しみに毎日を生きているのだろうか。まともに歩くこともできない、あの環境で楽しみなどあるわけがない。
「もう、あの犬の話をするのはやめなさい」
予想外の言葉が母の口から出た。
あの犬のことをしっていてなにもするな……と、いうのか。それが大人のいうことなのか。私はその一言に衝撃を受けた。私は母の言葉に食いつく。
「どうして! あの犬のことを知ってるんだったら、あの犬の姿を見たんだったら、そんなこと言えないはずだ!」
大声を張り上げたことのない私が初めて、声を張り上げた。
私の激昂を見て、母は驚きを隠せない。
『あ』の発音するときのように開けて、私を見た。母は眉根に薄いしわを寄せて、
「あなたも、あの犬を見たの……あなたの辛さは分かるわ……。だけどあの犬を飼っているのはあの工場の責任者。この村の地主なのよ……あの人からこの家も借りてるわ。この村のほとんどの人がそう。だから、誰も口出しできないの……。分かってちょうだい」
母の言葉を聞いて、納得した。通りで犬にあんな酷いことをしているのに、誰も口出ししないはずだ。口出ししたくてもできなかったのだ。
間違ったことを間違ったと言えない、大人たちばかりだということではないか。そのことに私はやり場のない怒りを感じた。
「だけど! あの犬が可哀想じゃないか! 直接言うのは駄目でも、警察や保健所に電話して助けてもらったらいいじゃないか!」
私は椅子から立ち上がり、テーブルに両手を叩きつけた。
しかし母は悲しそうに首をふるだけ。
「そんなことしたら、すぐに私たちが通報したことがばれて、どんな目に遭うか……」
「どうして……? 警察に注意してもらうんだから、分からないじゃないか……?」
幼い私は浅はかで、母の危惧することの意味をくみ取ることができなかった。
「今まで、誰も通報しなかったのよ……もし、いま通報したら真っ先に疑われるのは最近引っ越してき私たち家族じゃない……」
たしかにその通りだ。
私は失望のあまり足の力がぬけ、椅子に崩れ落ちた。正しいことを正しいと、いわない大人たちに怒りが湧く一方、正しいことを正しいといえない、自分が不甲斐なく、悲しかった。
なによりも、どうしてあげることもできない、あの犬が哀れでならない。
あの犬を助けない限り私の頭から犬の泣き声が、助けてと呼ぶ声が、消えることはないのだから。