六話 ムンクと叫びと犬の檻
家に続く一本の道を重くも、軽くもない足取りで歩いているときにそれは聞こえた。昨夜、正確には明け方に聞こえた、神経を刺激する鳴き声。
聞いているだけで、ムンクの叫びの絵に描いている奇怪な人物のように、耳を覆いたくなる鳴き声だった。
こんな近所中に響き渡る鳴き声で鳴いているのに、ここの住民は犬の存在を知らないというのか、なんとおかしな話ではないか。
もしかして、この声は私のような人間にしか聞こえないのかもしれない。しかし、私には霊感、というものがない。何かの拍子に霊感に、目覚めたのかもしれないな。
私は鳴き声のする方向に近づいていく。それは好奇心の怖いもの見たさだった。こんな神経を乱す鳴き声をあげている、犬はどんな姿をしているのか気になったのもある。
目線だけを動かし私は音源を探す。鳴き声はいつの間にか止んでいたが、近いのは確かだ。周辺にあるのは、民家と電信柱、そして自転車だ。
どこから聞こえてくるんだ。
家の中にいるのか、とも考えたが家の中にいるのならここまで鮮明に聞こえない。外にいるのは確かだと思う。
全身を耳にして些細な音も聞き逃すまいと、神経を集中させた。そのとき、再び犬が金切り声をあげたのだ。今度こそ場所が分かった。私は迷わず鳴き声のする方向に向かう。
私の目の前に工場が見えた。この工場から犬の声が聞こえる。私は恐る恐る工場の中を覗き込む。すると、見えた。私を昨日から悩ませていた音源の犬、が。
工場の中では気泡緩衝材を専用の機械で、巻き取っている。気泡緩衝材のロール状の筒が工場の中には沢山並んでいた。
工場の外にはパレットが積み上げられ、その奥に檻がある。
檻の中には犬がいた。
柴犬のような外見をしいるが、柴犬ではない。
柴犬にしては毛が少し長かった。長毛というほどではないが、四~五センチはある灰色の毛。
灰色の犬が。いや、初めは灰色だと思っていたが、汚れで灰色に見えるのだけなのだ。洗ってやれば真っ白な犬になるかもしれない。
よく見ると灰色がかった毛の一部がピンク色がかった、箇所がぶちのように点々とある。毛が剥がれて皮膚がみえているのだ。
私は工場の敷地に足を踏み入れた。すると、鼻を刺す悪臭が酷く息も吸えないほどだ。檻の中には泥のような物が積みあがっている、と思ったらそれは糞だと気づいた。
糞尿で踏むところもないほど、檻の中と、地面に散らかっていた。悪臭の原因は足の踏み場もない糞尿、だ。その糞尿の上にその犬は寝ていた。
身動きもできないほどの小さな檻に、犬は閉じ込められている。糞尿も掃除してもらえない、不衛生な檻に犬は閉じ込められていた。
そのとき、積み上げて置いてあるパレットの意味が分かった。このパレットはこの犬を隠すために置かれているものだ、と。
隠そうとしているということは、この犬にしていることに後ろめたさがあるということだ。立てかけるようにして、檻の横には尺が置かれていた。
その尺で犬に餌を与えているに違いない。水も置かれていない。いや、置くところもないのだ。
どうやって水を飲むのか。この工場の人間が定期的に水分を与えているのか。どうして、檻の外に出してあげない。
私にはこの工場の人間たちがしていることの、意味が分からないかった。いや、工場の人間だけではない。近所に住んでいる人間たちは何をしているんだ。
そのとき私は思い出す。今朝、おばさんに犬のことを聞いたら、あやふやに返されたことを。あれはこの犬のことを知っていたからだ。
あのおばさんもこの犬にしている仕打ちを、悪いことだと分かっていたから、答えられないかった、そう思うと今朝のおばさんの反応の納得がいく。
この犬にしていることは動物虐待にあたる。
私はこの犬を救わなければ、という強い使命感にかられた。犬に近づく。犬は顔を上げ、私を見据えた。怯えている。
そして、立ち上がろうとするが足が、がくがく震え立ち上がるのにも四苦八苦している。
鎖を引きずる金属音が犬が動くたびに聞こえた。檻に入れられているにも関わらす、その首には首輪をつけられ、天井に繋がった鎖が犬の首に伸びていた。
犬はやっとの思いで立ち上がり、怯える子ヤギのように私を見つめ返してくる。
犬には筋肉がなかった。
つまりこの犬は散歩にも連れて行ってもらっていない、ということになる。
私は信じられなかった。どうして命あるものにこのような仕打ちができるのか。
どうして、感情あるものにこのような仕打ちができるのか。
どうして、糞尿まみれの狭い檻の中に犬を閉じ込めておくことができるのか。
そんなことができる人間は人間じゃない。と、当時の私は思っていた。しかし、今になってみれば分かる。人間だからできるのだ、と。
動物を身動きのできない、糞尿まみれの檻に閉じ込めることは人間だからできるのだ。人間以外ができる訳ないのだから。
怒りに打ち震えていると、工場の中から足音が聞こえてきた。私は慌てて、パレットの裏に隠れる。中から出てきたのは中年の男で、頭が剥げていた。
中年男は犬に目もくれず敷地内に止めていたリフト車に乗り込んだ。
このままでは、パレットの裏に隠れているのがばれてしまう。私は慌てて逃げ出した。
その日を境に私の頭の中では糞尿まみれで震え、怯える犬の姿が焼き付いて離れなくなってしまっていた。