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犬の檻  作者: 物部がたり
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四話 泣き声と不特定多数の日本人

 聞こえる、声が聞こえる。神経を乱す、声が聞こえる。私は眠ることもできず、静かに小説を読んでいるときのことだった。

 一人で、静かに文字だけを追っていると、この世界には私しかいないのではないかと、いう錯覚にとらわれる。くだらない、錯覚だ。

 これも静寂が引き起こす、錯覚なのだ。

 

 しかし、この錯覚が、人間を追い詰める、幻聴というものなのだろう。

 私はどうしようもなく、心細くなった。


 ただ、ページをめくる音と、呼吸音。そして時計の針が動く音だけが、聞こえるだけ。時計の針が動く音と、呼吸音が波長しリズムを刻む。

 チクタク、チクタク、時計の音だけが一段と大きく、聞こえる。夜はどうしてこうも、物音が大きく聴こえるのだろうか。


 明るいときには聞こえない、些細な音が夜になると聞こえてくる。虫の鳴き声、風の音、時計の音、樹々や木の葉の(さえず)り、普段気にも留めない、自然の音が聞こえてくる。

 耳をすませば、自分の鼓動の音も聞こえてきそうだった。


 そのときに、私は気付いた。何かが聞こえることに。何かとは()()()()だ。神経を乱す、鳴き声だった。

 私は声をさぐる。鳴き声が聞こえる、方角をさぐる。

 外、鳴き声は外から、聞こえる。そのことに気付き、私は読んでいた本に(しおり)をはさみ、窓を開けた。


 夏のむあっとした、空気が顔にかかり、まるで誰かの息を浴びせかけられたかのような、不快感を感じた。生温かい、空間を見渡しながら、声の聞こえる方向を見た。

 しかし、窓から漏れる明かりで照らされた、範囲以外はまったく一メートル先も、見えなかった。けれど、か細い声は聞こえる。

 そう、この鳴き声は犬だ。犬が鳴いていた。


 犬が金切り声を上げながら、鳴いていた。この場合は鳴き声、というより、泣き声と書いた方がしっくりくる、声で鳴いていた。犬が泣いている。

 心地いい物ではない。決して私は犬が嫌いなわけではない、がこの泣き声だけは神経に触った。

 普通の鳴き声なら、いくらでも辛抱できる。しかし、この泣き声は他の犬と、違う鬼気迫る何かが、感じ取れた。


 一体、何だというのだ。私は窓を閉めて、カーテンをした。再び私は布団に潜り込み、読みかけの本を広げた。そのあいだも、泣き声は聞こえてくる。

 耳をすまさなければ聞こえない、泣き声だが、一度気になりだすと、否応(いやおう)にも耳に入ってくる。私は頭まで布団にもぐって、本に集中することにした。


 視線は活字を追うものの、頭では違うことを考えている。それはこの泣き声を出している、犬の姿だった。声は太く、小型犬ではないことが分かる。中型犬か、大型犬に違いない。

 知っている限りの、犬種が脳裏にちらついた。

 しかし、私は鳴き声だけで、犬種が分かるプロフェッショナルではない。ただ、意味を持たない、分からない英単語のような呪文だけが、右から左に流れるのだ。


 私は小説を読みながら、いつの間にか眠ってしまっていた。電気を点けっぱなしで、いつの間にか眠ってしまったようだ。私は犬の泣き声の幻聴と共に、目覚めた。

 悪夢から目覚めるときのように、良い目覚めではなかった。私はどうすることもできない、苛立ちを抱えたまま、起きた。ふらつく、足で私は階段を下り、台所へ向かう。


 台所では、母が朝食を作っていた。香ばしい香りが、鼻腔をくすぐり、少しだがいらだちが軽減した。


「父さんは?」

 

 と、私はフライパンの取っ手をにぎったまま、調理する母に問うた。母は振り返ることなく、

「仕事に行ったわ」


 短く答えた。

 その、声からは母の感情が読み解けない。台所の壁に掛けてある、時計に視線をやると、短針が七を差していた。夜眠れなくても、いつも通りの時間に起きられるものだ、と私は自分に感心した。

 母はフライパンで焼いていた、目玉焼きを皿に盛り、私が座る、テーブルの前に置く。今日の朝食は目玉焼きと、昨日の残り物の、味噌汁そして、ご飯だった。


 私は母に、


「ありがとう」

 

 とお礼を言い、目玉焼きを咀嚼しながら、味噌汁で流し込んだ。


「美味しいよ」


 と当たり障りのない感想をいった。 汁茶碗を持ち、汁をすすっていた、母は、


「そう、良かった」


 汁茶碗から口を離していった。後から食べだした母の方が先に食べ始めた、私よりも先に食べ終わり、少し遅れて私も食べ終えた。

 自分では自覚していないが、私は食べるのが遅い方なのも知れない。いや、少し頭をひねり、考え方を変えたら、母が早食いなだけなのかもしれない、と逆転の発想を考えた。


 私は食器を洗った。目玉焼きの油が水をはった食器の表面に浮き、少し黄色い油が表面張力で溢れるか、溢れないかの狭間でもがいているのを見るのが、何だか面白かった。

 機械的にするべきことをする、歯を磨き、トイレに行き、制服に着替える。どこの家庭でも、毎朝同じことが繰り返されているのだろう。


 そのことを思うと、顔も名前も知らない、赤の他人も自分と同じ人生を歩んでいるんだな、と見ず知らずの他人に親近感すら湧く。

 この、日本という島国に産まれた日本人という、不特定多数の人間は、同じ人生を歩み同じように死んで逝くのだ。


 もしかして、人間など、習慣、という機械的プログラムを生活の中で組み込まれた、機械なのかも知れない。プログラムされた物事以外は何も、行うことができない、機械なのかも知れない、な。

 そんな、自分でも訳の分からない、ことを考えながら、私は通学路についた。

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