8-1
視界を阻むほどの濃い霧の中で。
……また。あの鈴の音が鳴っている。このまま足を動かしていれば、再び彼女の所に辿り着くのだろうか。
霧が晴れて、セルジュの視界に入ったのは住んでいる教会。村の中だった。
よく見れば村の様子が違う。人の姿が無いのだ。教会も造りは全く同じだが、セルジュが知るものよりもずっと若々しかった。
教会の扉を開き、そっと覗いてみると真っ暗だった。肌が二つの気配を捉える。一つは大きく、一つはとても小さかった。大きい気配は、この教会の司祭だ。
明かりがひとつもない中、細い声がぽつぽつと語りだす。
「司祭さま。わたしの血はみんなと同じ色です。わたしの姿はみんなと同じです。どうしてわたしはみんなと同じように生きていけないのでしょうか」
村に買い物に行ったら、自分の顔を見るなり逃げ出されたこと。店の人がものを売ってくれなかったこと。店を出た途端、村人から死んだ牛の血を頭から浴びせられたこと。泣きながら家に帰っても、父は何も言ってくれなかったこと。生ぐささが暫くからだから離れなかったこと。
「耐えなさい。あなたには忍耐があるはずだ。神はあなたに、越えられない壁を与えない」
暫くして、司祭は紡ぎだした。……ラドルファスとは、明らかに違う声だった。
すぐに細い声の主が、真っ暗な部屋から出てきた。月光の髪。若草色の瞳に、初雪色の肌の少女。
カミーユだ。今よりも小さいけれど、間違いない。
だけどセルジュが知っている彼女とはまるで別人だった。俯いて、顔を見ても表情らしい表情が浮かんでいない。どこまでも真っ白な表情。初雪色の肌はより青白く、生気がなくてかさついて見えた。瞳は若葉のまま枯れ果てていた。長い髪を帽子で隠し、男物の服を着させられていた。
彼女は、教会の端で待っていた大柄な男性に手を引かれて歩いていった。
彼らの姿が見えなくなると、村人が家から出てきた。二人が歩いた道を、水をかけて清めた。
その男は、ふるびた木の鞘に納められた、大振りの剣を右手に持っていた。その剣の柄にはある紋章が掘られていた。
あっとセルジュは声をあげる。それはセルジュにとって、決して忘れられないしるしだった。
――父を斬首刑に処した、死に神の証。
*
その大柄な男は彼女の父だった。
「われわれは人の首を刎ねて代々生きてきた。この家に生まれたものは、それでしか生きる術がない」
彼はそう言って彼女を育ててきた。
彼は勤勉な男だった。誰もが嫌悪感を隠さない仕事を眉一つ動かさずに行う。そして娘の教育――同じ道を歩ませることにとても熱心だった。
彼は、彼女が女であると認めていなかったのだろう。
彼には娘しかいなかった。彼の妻は既に亡くなっていた。娘の他に兄弟はおらず、彼の後妻になろうというものもいなかった。
彼はよく、娘を自分の仕事場へと連れて行った。彼の仕事場は主に村の広場で、彼は常に古ぼけた長剣を持っていた。
――寒々しい光景だった。村人が、木の台のまわりを囲んでいる。何が行われるか見物人は知っているようで、揃って暗い顔を浮かべていた。嘆きの涙が降ってきそうな、重苦しい空気が漂っている。
「目を背けるな。よく見て学びなさい」
後ろ手に縛られた一人の男が、粗末な木の台の上で跪いている。膝をついたあたりに黄色い液体が広がっていた。これから行われる事柄を想像して、おそれを抱かずにはいられないのだろう。むき出しにさらされた首筋が、青白く光っていた。
「首を前に傾けると、骨と骨の間に隙間が出来る。その隙間に、刃を入れ込むのだ。一息でやる。手を違えればその分、痛みは長引く」
彼は振りかぶって、神の速さで男の首に剣を入れ込んだ。鮮血が飛び散る。骨に引っかかることなく、肉が刃に食い込むこともなく、首と首から下で綺麗に分かたれた。
その後の埋葬は司祭と彼の仕事。血で汚れた木の台を清めるのは、彼女の仕事だった。
眉間にしわを寄せながら、カミーユは布で血をふき取っていく。染み込んだ部分はどうしても拭い去れなかった。村人は彼女を視界に入れずに、足早に去って行った。処刑人の娘。カミーユという男の名を持った少女。あらゆる刑を眉一つ動かさずに執行する残虐たる死に神の一族。曰く、彼らと目を合わせれば末代まで呪われる……。
刑罰が無い日は、身寄りも引き取り手のない死体の解剖や、人体の構造の研究に明け暮れた。
ある場面では、彼女と父は質素な一室にいた。村のはずれの、親子の家。木造りの粗末な寝台の上に、青白い男が横たわっている。男の首に圧迫された痕が残っている。既に絶息していた。手を掛けたのは勿論彼だった。
彼は短く祈りを捧げたのち、一呼吸置かずに体を切り開き始めた。これが腎臓、これが肝臓、小腸、大腸、胃、そして心臓と丁寧に説明していく。小腸は小ぶり。肋骨は意外ともろい。
からだについて知っていくのは、彼の仕事には不可欠だった。骨はどうしたら砕けるのか。喉と心臓と脳の密接なかかわり合い。からだのどこに刃を入れれば絶命するか。どうすれば苦しみを長引かせずに命だけ奪えるか。熟知した上で刑を行う必要があった。
彼女は、父に命じられ、切り開かれた人間だったものに震えながら手を伸ばした。それぞれの中を触り、確認し、最後に手を取ったのは心臓だった。とれたての人の中心は、両掌で収まるぐらいの大きさだった。滑りやすい感触だった。血によって見た目が赤い分、より醜怪になっている。
淡々とした父の声が、心臓の役割について語る。これが人間の中心。全ての人に等しく与えられるもの。
血臭が少女の鼻を襲う。彼女は胃からせり上がってきたものを押さえようとした。それがいけなかった。取り出した心臓を、床に落としてしまったのだ。押さえた手の隙間から、透明な液体が漏れた。
双眸から涙が零れた。濡れた白い頬を固い拳が抉る。少女の身が軽く飛んだ。からだが赤く染まり、金の長い髪が赤い液体を吸い上げていく。床には、切り開かれた死体から零れ落ちた血が溜まっていた。落ちた心臓は、一瞬自発的に動いた。それは勿論錯覚だが、息をとめ、人体から切り離されて尚、心臓は生命活動を行おうと必死になっているように見えた。
「泣くな」
父親は、部屋の片隅のあるものに目を向けた。木造の椅子。父が言わんとすることを理解したカミーユの蒼い顔に、明らかな恐怖の色が差し込まれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい父さん。しっかりやります」
泣きながら謝罪する娘を冷たく一瞥する。
その後、暫く彼女は床から身を起こせなかった。滑らかで柔らかい心臓の感触は、指にまとわりついて離れなかった。死臭は熱になって、彼女のからだを襲っていた。
――父さんは男の子がほしかったの。だって男の子なら、立派な跡継ぎになれるから。だけど、生まれたのは女の子のわたしだった。
――わたしに強い子どもになってほしいから、こんな名前をくれたの。
――父さんのことは嫌いじゃないの。でも、わたしは父さんの望むような、強い子どもにはなれなかった。
呆然として見つめるセルジュの頭に、彼女が紡いだ言葉の端々が浮かんでいた。
*
再び、場面が切り替わる。寒々しい鰯色から、いのち咲き乱れる鮮やかな色彩に変わった。
……村の教会から、幸福な顔をした一組の男女が出てきた。男性は、素朴だがしっかりとした作りの一張羅を着ていて、女性は繊細な刺繍が施された純白の単衣を身に纏っていた。女性の細い腕は、服と同じ色の花束を抱えている。花は一つの種類しかない。長い葉茎に、揺れる音のない白い鈴。
鈴蘭だ。春を象徴する花の一つで、この国には花婿が花嫁に、婚礼の際に鈴蘭の花を贈る風習がある。
カミーユは森の中から幸せな婚礼を眺めていた。恰好はそれまでの男物の服ではなく、普通の少女が着るような単衣のものに変わっていた。髪も隠すことが無くなり、腰まで長くなっていた。
隣に父親の姿は無かった。婚礼の日に彼の仕事を行うことは禁じられている。彼は、自分を恐れる村人の婚礼に出ようとは思わないのだろう。村人もまた、彼の来訪を望んではいなかった。勿論、彼の娘も快く迎えるはずがなかった。
遠くからでも花嫁の美しさは際立っていた。白いベールに包まれた小さい頭。一粒の真珠が、亜麻色の髪を飾っている。鈴蘭を抱く花嫁の白い腕。指先は百合の茎みたいだった。
カミーユは自分の手のひらを眺めていた。彼女の手は花嫁と同じように白いけれど、いびつなたこが沢山出来ていた。手も皮も分厚く、花嫁の、糸でひっかけばすぐに傷がついてしまいそうな脆い表面とは大違いだった。
羨望と諦めの色が少女の顔に浮かんでいた。先日、彼女の父は彼女の結婚を決めた。三十過ぎた父ほど年の離れた男で、別の地方の処刑人の次男だった。顔も知らないその男は、彼女の十四歳の誕生日に婿入りしてくるのだ。彼女は、父には逆らえない。彼女の父は、彼女を自分の跡を継がせる予定だったが、彼女のからだが月のように満ち欠けを繰り返すものだとようやく認識した。そして、彼女に自らの技を教え込むのをすとんとやめた。代わりに、結婚して跡継ぎを作れと言ったのだ。
……あの羨望した顔は、自分の婚礼が幸福なものになるとは思っていないから浮かべるものだ。
「君は行かなくていいの?」
俯いた彼女に投げかける声があった。驚いて振り向くと、見知らぬ少年が音もなく立っていた。花嫁と同じ亜麻色の髪、灰色の瞳。優しい色に包まれた、十五歳ぐらいの少年だった。この人は誰なのだろう。
カミーユは声を出さずに、首を縦に振って返答した。普段の彼女は、父親以外の人と関わらないから、とっさの時に何も言葉が出てこなくなっていた。目を合わせたくなくて、ひたすら地面に視線を向けていた。
それでも疑問だけは通じたらしく、彼は自分が何者なのかを語った。
「僕はあの花嫁の遠縁さ。この森の向こうの町に住んでいるんだ。母に頼まれて来てみたけど、僕は小さい頃会っただけで覚えていないし、向こうも困るだろうから。どうしようかなと思っていたら、君を見つけた。ねえ、よく顔を見せてくれないかな」
最後の言葉にだけ首を横に振る。足が石のように固くなっていた。からだを強張らせる彼女の頬に、温かいものが触れてきた。
そっと顔を持ち上げられる。両頬に感じるのは、父とは違う手のひら。血の通った柔い熱。
彼女が初めて触れる生きた他人の手だった。
「綺麗だね。君の髪も、瞳も。森に住まう秘密の妖精みたいだ」
少女の瞳が極限まで見開かれていった。まっすぐに見つめる灰色の瞳に心が奪われる。人と関わりを持たなかった彼女の心は浅い泉だった。その泉に、言葉が水滴になって落ちてくる。音を立てて波紋が広がり、瞬く間にすみずみまで満たされていった。
「僕はアルマ。君の名前は?」
正直に名乗ろうとして、口が止まった。自分の名前を言っては駄目だ、すぐにわかってしまうととっさに思ったのだろう。滑り出たのは彼女が唯一知る女性の名前。亡くなった母の名前。
「わたしは……、わたしはマリー」
「マリーか。可愛い名前だね」
躊躇いながら、少女は嘘をついた。
……少女の人生で幸福の時間が流れ出した。