7
慣れない体勢で眠ったからか、からだの節々が痛みを訴えている。石造りの壁と床は固くて、背中の血のめぐりを悪くさせていた。
……腕の中の小さな塊を確認する。
涙が収まってきた頃、カミーユはからだを完全にセルジュに預けたまま眠ってしまった。このまま帰る気もなく、セルジュは彼女を抱きしめたまま夜を明かした。昨日の夜、一人にしないで、と訴えながら眠りに落ちたのだ。起きて、泣き顔以外の表情を見ないと安心できなかった。
窓から、生まれたばかりの朝日が差し込んでいた。カミーユはまだ眠ったままで、唇を半開きにして規則正しく呼吸をしている。長いまつげで縁取られた瞼は赤く腫れ上がっていた。後ろに回した手のひらで少女の背中を摩り、熱を生み出す。こうしていないと、彼女のからだはあっという間に温度を失ってしまう。重量をあまり感じないから、自分は一輪の花を抱いて眠ったみたいだ、と思う。
眠る少女の頬に手を添える。相変わらず冷たくて、本当に、真っ白な鈴蘭の色をしている。だけど、半分開いた唇だけ仄かに色づいていた。
ふと、考えてしまう。
ここだけ別の温度を持っているのだろうか。肌の色に反してやわらかな桃色で、そこだけ雪原に咲こうとする花みたいに艶めいても見えるから。それとも鮮やかな色だけ宿していて、肌と同じように氷そのものの温度なのだろうか。
確かめたい。
意識の全てが、少女のそこに集まっていく。ほんの僅かな寝息さえも自らの頬に感じる中、セルジュは自分のそれを重ねようとする。唇は、からだの中で温度を一番繊細に感じる部分だと、彼女も言っていたではないか。互いのからだはぴたりと密着していて、少女と少年の隙間は、顔と顔の間しかなかった。セルジュが少女の寝顔を見て、幸せを感じてしまうのがその証拠だ。
腕の中で、カミーユが目をつぶったまま身じろぎをする。吐いた息から無意識に漏れた声が混ざっていた。ほんの少しだけ苦しそうに寝顔が変わっている。自分でも気が付かないうちに、顔を歪ませてしまうほど腕に力が入ってしまっていた。
力を抜いて、慌ててセルジュは顔を離した。カミーユの寝顔がもとに戻る。……眠りに落ちる前に見せた、深い安らぎに満ちた顔だった。
無防備な少女に対して、一体何をしようとしたのか。少なくとも、この寝顔を崩してしまってまでおこなう行為ではない。セルジュは湧き上がった感情に驚きつつ、そのおこないを自制できたことに感謝した。
心臓の高鳴りを押さえながら、今はこのままでいい、とセルジュは言い聞かせる。隣にいることで、彼女が安心して眠れるのであれば、それだけで自分は十分幸せなのだから。
――少女が目覚めたのは、それから暫く後だった。
睫がふるえたかと思ったら、若草色の瞳が徐々に開かれて、不明確にセルジュの顔を捉えた。抽象画から緻密画へと変化していき、ぱちぱちと瞬きをして、その瞳が大きく見開かれる。頬がわずかに紅潮していた。この状態に強い動揺を覚えるらしい。
「……ごめんなさい。迷惑だったでしょ」
「そんなことはない」
申し訳なさそうなカミーユの言葉に、セルジュは首を横に振った。彼女には、先ほどのセルジュの所業は見抜かれていなかった。安堵の息を吐くが、見抜いていたら彼女はどんな反応を示したのだろう。
それが怖くもあり、また知りたくもあった。
「……でも嬉しい。ありがとう。……喉が渇いたわ。もう起きましょう」
少女はするりとセルジュの腕の中から抜け出た。抱えるものがなくなったセルジュの両腕が宙をかく。名残惜しかったが、セルジュの喉も水を求めていた。
二人で聖堂から一歩外に出ると、冷気が瞼を刺激して視界を明るくさせた。触れたら溶けてしまう柔らかい氷が、一面を覆っていた。真っ白で、冷たい朝日を浴びてきらめいていた。
セルジュはほとりに腰かけて、白い花が揺れる泉の水をすくって一気に飲み干した。一緒に入ってしまった鈴蘭も気にせずに胃に落とす。初めて飲む水は甘いけれど、少しだけ苦かった。
陽の様子から、ラドルファスが早朝のミサを終えて朝食を摂る頃だろう。セルジュの不在に気が付く筈だ。
別れの時間が近づいてくる。ずっと抱きしめていたというのに、このまま離れるのが惜しかった。だから密かに決意する。
「……また来るよ」
一番の秘密が眠る、放しがたい右手の甲を取る。自分の思いが、少しでも伝わるように。
するとカミーユは、セルジュの手を両手で握り返してきた。
「待ってる。ここで。この花園で。ずっと」
生まれたばかりの朝日はせかいをあたためない。けれど、より赤い光を発していた。光は彼女の金の糸と混ざりあい、白い彼女の顔に鮮やかな色を差し込んだ。
心臓が騒ぎ出す。
その時の彼女の顔は、セルジュがこうであってほしいと願った晴れやかな笑顔だった。
きんと刺す森の空気が、帰り道を歩くセルジュのからだを冷やす。上着はカミーユに着せたままただったから、寒くなるのも当たり前だ。でも自分の肌寒さが彼女を温めているのだと思うと、それでいいような気がした。
腕に彼女の感触が残っている。小さくて頼りなくて、冷たくて。どうしようもなく手放しがたい。
懸命に耳を傾け、セルジュの拙い話を大事に咀嚼する。自分が話すときは、楽しくて仕方がないというように瞳を煌めかせる。あれだけセルジュと話すとき明るいのは、一人でいる寂しさを紛らわせるためだったのだろう。そんな彼女が、こころの底から大切だと思う。
彼女はここでしか生きられないと言う。だったら、自分がここに居続ければいいだけの事だ。――次に来たら、もう村には帰らない。
あの右手の秘密を知りたい。もっと彼女の事を知りたい。もっと、もっと共に過ごしていたい。……気が付いてしまった。離れられなかったのは、セルジュの方だったのだと。本当は、抱きしめるだけでは足りないのだと。
牛と、朝露が交わり合った匂いが鼻に届く。村の近くまで来ていた。森から届く川と、歩いてきた自分がいつの間にか合流していた。村人の喉を潤すこの川に、ぽつぽつと白い花が浮いている。彼女が浮かべていた花が、流れに身を任せてここまでたどり着いたのだ。
その時だ。
「え……」
予兆は何もなかった。思い当たる節もない。だが、目の前の木々がぶれて、視界がゆがんだ。
耐え難い吐き気に襲われて、セルジュは膝から倒れ込む。心臓が強く波打ち、呼吸がままならなくなった。
鈴の音が響く。
心臓に刺すような痛みを感じて、目の前が真っ暗になった。