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氷れる花園  作者: 神山雪
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 羊飼いのシモンの妻が亡くなったとセルジュが聞いたのは、カミーユがうさぎを捌いたその数日後だった。


 シモンは白い髭と白い頭の小柄な老人で、とても骨が太く頑健(がんけん)で、背筋をぴんと立てて毎日のように仕事に励んでいた。先の祭りの際に、彼は九十五回目の誕生日を迎えていた。村の若い衆に長寿健康のこつはなにかと尋ねられ、シモンは毎日搾りたてのミルクを飲むことだと白い髭を揺らしながら答えていた。

 シモンは妻を愛していた。子が独立し村から去った後は、妻と羊が彼の家族だった。村人は、涙に暮れる老人の背中を眺め、同情しながらも様々な噂話に興じた。亡くなった妻は、心臓が悪く病気がちだった。毒のある妙な水を飲んだらしい、等。口の悪い人は、シモンの妻が今年初めての死に神の犠牲者ではないかと言いあった。

 ラドルファスはシモンの妻の葬儀を丁重に行った。祈りの聖歌を詠い、百合の花を捧げ、最後は火で燃やす。その手伝いで、セルジュはこの日は忙しかった。棺の中のシモンの妻のからだは縮み切っていて、静寂を奏でている。肌の色は土気色で、からだの面積よりも、周りの百合の花が占める面積のほうが圧倒的に多かった。

 老人の背中を見て、少しだけセルジュは後ろめたさを覚えた。あの森には本当は死に神なんていなくて、代わりにいるのは少女一人だと知っているのは自分だけなのだ。妻の死と死に神の関連性なんて何もない。……それを伝えるのは、なぜか躊躇われた。

 さすがにこの日は疲れしまって、夜、抜け出すことはしなかった。眠る間際、あの少女は今もひとりきりで鈴蘭の中にいるのだろうかと考えた。



 ……鈴の音の中を、セルジュは歩いていた。

 ここがどこだかは霧が濃すぎて明確にはわからない。ただその鈴の音は、麦を刈っていた時に鼓膜をふるわせたそれとよく似ていた。

 漠然(ばくぜん)と歩いていると……あの少女と出会う、氷れる花園にたどり着いた。清涼な泉。静謐な聖堂。一面に咲くのは鈴蘭の花。すべてが白く凍っていて、ただ少女が静かにたたずむだけのあの花園。

 泉の中に、月と白い花が浮いていた。月は、鏡のように水に写っているのではなく、実体を持って浮かび上がり、時折沈んで、控えめな音を立てながらまた姿を現している。

 眺めているうちに、月のように見えていたそれは髪の毛で、水から音が立つのは、人が自由に、深く潜っては揺れているのだと分かった。人影は小柄で、白く、月光の髪の――そんな色彩を持っている人物を、セルジュはただ一人しか思い浮かばなかった。おおきく水を上げて現れたのは、想像した通りの少女だった。

 彼女は寒さなんて気にはならないのか、震えて上がってくるそぶりも見せずに、泉の中の鈴蘭と共にゆらゆらとたゆたっている。彼女が泉に住まう妖精で、跳ねた水滴と小さい花は泉から生まれた宝石に見えた。

 その姿に、セルジュは危ういものを感じた。どうしてこんな時期にわざわざ潜ったりしているのだろうか。この間触った時、あの水は心臓が止まるほど冷ややかだった。あの時よりも、今の方がより冬に近づいている。

「カミーユ」

 それ以上中に入らない方がいい。風邪を引いて、下手したら肺炎になってしまうかもしれない。

「カミーユ」

 戻ってきて。君がいなくなってしまったら、僕はここにくる理由がなくなってしまう。君に会えなくなってしまう。……彼女と会えなくなることを心配する自分に、僅かに驚いた。

 何度か、セルジュは泉の端から少女の名を呼んだ。

 しばらくして、少女はようやく泉から身を起こした。

 薄絹の真っ白な単衣は水に濡れてからだにぴったりと張り付いていた。それだけではなく、微妙に透かして肌の色を見せている。それは、セルジュが今まで意識しなかった、少女のからだの線を強調させた。成長に乏しく、しかし少年とは明らかに一線を画した、細くて白い曲線(きょくせん)


 そして無数の痣と傷が刻まれていた。


 初めて見てしまった少女の生々しいからだから、さっと目をそらす。ごめん、と蚊の泣くほどの小さな声で謝罪を口にする。自ずと、顔が赤くなるのがわかった。彼女は服を絞ったり、泉で手を洗っているらしいけれど、それを意識する余裕をセルジュは持っていなかった。強く目を閉じる。視界を暗くさせても、薄絹ごしに見えた、わずかな胸のふくらみと白いからだに染み着いた汚染のような傷跡が頭に張り付いて離れない。隠されていた二つのものをみた罪悪感でいっぱいだった。

「セルジュ」

 目を閉じ、顔を横にそらしたままのセルジュを、澄んだ声が呼んだ。

 ――そこでセルジュは目を開いた。寝台の上にいて、横たわっているからだは紛れもなく己のものだった。霧に包まれた森を歩いていたのも、水に浮かんでいた少女の姿も、夢の中での出来事だったのだと知った。

 忘れてしまうことも多いのに、今し方まで見ていた夢は覚えている。ただ……。

 最後、彼女は一体どんな顔をしていたのだろうか。


 まだ(もや)のかかった頭を片手で覆う。その間も、鈴の音が鼓膜をふるわせていた。 




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