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氷れる花園  作者: 神山雪
3/12

3


 際限なく伸びきった枝葉をかきわけてセルジュは足を動かす。昼と夜の温度差がここまであるとは思っていなかった。まだ冬ではないというのに、薄手の上着だと完全に寒さを防げなかった。鼻を動かすと、樹と土で湿気った空気が肺を冷たくさせた。木の種類は分からないが、相当に身長が高かった。

 鬱蒼と(しげ)る大木が重なり、人が歩けそうな(みち)という路がない。本当に村人はこの森に入っていないことを雄弁(ゆうべん)に語っている。地面から盛り上がった木の根が、ぼこぼこした起伏を形成している。ただ歩いているだけで、からだ中に傷をつくってしまっていた。

 影が地面を覆う。それに気付いて僅かに顔を上げると、(うごめ)く星が輝く夜空が広がっている。満月も姿をあらわしていて、昼間とは打って変わった快晴だった。 

 進めば進むほど気温が低くなってきている。湿気と冷気がまとわりついて、からだを重くさせている。

 どれぐらい歩いたか分からなくなった頃、急に、木の根のうねりが無くなった。



 ――そこは、時が凍ったのではないかと思ってしまうほど美しい空間が広がっていた。



 その開けた場所の一面には、雪が広がっている。いいや、雪ではない。よく見れば小さい鈴型の連なり。

 鈴蘭(すずらん)だった。幸福をあらわす花で、婚礼の際には必ず花嫁の腕に収まるものだ。

 また、この花に関する逸話が、この国には星の数ほど多く存在する。ある地方では、悲恋の果てに亡くなった恋人たちが死んだ場所から豊かに鈴蘭の花が咲き始めたという話がある。また、別の地方では森の守護神が敵と戦い打ち勝ったが、深い傷を負い、その傷を鈴蘭の花が癒したという話もある。

 一番親しまれているのは、こんな恋物語だ。

 一人の少年に恋心を残して死んでしまった娘が、森に咲いていた鈴蘭から新しいいのちが与えられた。未練を残して死んだ娘は花守の妖精へと生まれ変わるのだ。やがて、娘は彼とこころを通わせる。だが、思いが成就(じょうじゅ)した瞬間に、彼女は消えてしまい、少年の手元には一輪の鈴蘭だけが残される、という話だった。

 誰もが愛してやまない、恋物語の題材になる美しい花。だけど、花開くのは春のはず。こんな季節に一面を覆い尽くすほど咲くなんてあまりにも不自然だ。植物のほうが季節を読み違えたのだろうか。

 その傍らには、廃墟(はいきょ)と、小さな泉がわき出ている。廃墟は、神のための聖堂だった。泉から溢れた水は、小川になり、廃墟の横に流れる川と合流していた。この川は森を通り過ぎ、村に潤いを与えて海へとたどり着くのだろう。

 泉の脇に腰を下ろし、泉の底を見ようとする。驚くべき透度を保っていて、浅い底には魚一匹どころか苔さえも生えていなかった。

一心に歩いてきたから、喉が潤いを求めていた。中に手を入れてみるが、すぐに引っ込めてしまう。氷に(じか)に触れたかのように冷ややかだったからだ。


「ひとがいるの?」


 全く唐突に、詩をうたうような澄んだ声が届いた。

 声に驚いてセルジュは振り向き――

 それ以外のすべてのものが、影に見えた。

 足下に咲く季節はずれの鈴蘭も、あたり一帯を覆う鬱蒼とした木々も。背後にそびえ、しけった空気を漂わせる廃墟の教会も。

 優しく地を照らす月光が、それの輪郭(りんかく)を映し出す。

 瑞々しい若草色の瞳に、柔らかい光をともす金色の髪。雪みたいに白い頬。

 十四歳のセルジュよりも、少し年下だろうか。

 初雪色の鈴蘭は月の女神に見初(みそ)められた。そんな言葉が似合う美しい少女が、満天の空の下で静かに佇んでいた。

 その瞳から、一筋の星が流れ落ちた。


 *


 少女は一見すれば少年と勘違いする人もいるかもしれない。胸元もほとんど平らだったし、見事な月光の髪は肩よりも短い。切り口も雑で、すべての髪を乱暴につかんで鎌で力の限り刈り取ったかのようだった。薄絹(うすぎぬ)の単衣から細い足と(ひざ)小僧(こぞう)がのぞいている。驚くことに、彼女は裸足だった。

「ごめんなさい、びっくりしたでしょ?」

 そう言って彼女は、石で火を熾してくれた。

 橙色の明かりは、少女の姿形や顔立ちをより鮮明にさせた。肌は、二人の横に咲く鈴蘭の花に劣らないほど白い。青さが差し込んでいるから、花の生き生きとした色ではなく、空から降った初雪に陰が落とされたような静かな色だ。整った顔立ちをしているけれど、セルジュが想像する年齢よりも幼く見えた。膝を抱える右手の甲を、白い布が覆っていた。

「私はカミーユ。あなた、名前は?」

「セルジュ」

 ぼんやりと、珍しいなとセルジュは思う。カミーユ、は、普通は男の子に付ける名前だ。

「あんまり聞かない名前ね。あの村の人なの?」

「違う」

「じゃあ、別の国の人? でもそうは見えない。どこから来たの?」

「ここと同じ国。ネムの街から」

「凄いところじゃない! それじゃ、まちのひとなのね? すごく遠かったでしょ。ねえ、あの大都市はどんなところ? 楽しい?」

「そんなに楽しくない。大きいけど人がいっぱいで、誰が誰だかわからなくなる」

 隣の泉から絶え間なく水がわき出るように、カミーユと名乗った少女はあらゆる事を尋ねてきた。(うつむ)いたままの素っ気ないセルジュの返答にも気を悪くした風は見せず、少女はあらゆる話題を飛ばしてきた。

 ネムの街での生活はセルジュにとって楽しいものではなかった。全てがぼんやりした思考の中で過ぎていく。友らしい友はできず、また作ろうとも思わなかった。父から消極的だと言われたことがあるが、セルジュが自己嫌悪を強く抱くことを知っていたから、それを批判するような言葉は出てこなかった。

 ラドルファスの気遣いはありがたい。だけど、少しだけ鬱陶(うっとう)しいと思ってしまう。結局自分はこのままなのだから。

「色々と聞いてしまってごめんなさい。ここ以外の場所なんて知らなかったから、つい、いろいろ聞いちゃった」

 彼女が謝ることじゃない。つまらない返事しか出来ない自分が悪いのだと思いつつ、彼女の言った、ここ以外の場所は知らないとのことが気になった。

 村から出たことがない、という意味だろうか。それともこの森しか知らないということだろうか。

「森から出たことがないの?」

「ああ、ごめんなさい。言い方が悪かったわね。出たことがないっていうか、ちょっと理由があって、ここで一人で暮らしているの。それで、村には行けないの。ちょっと昔いろいろあってね」

「一人で?」

「そう。一人で」

 ますます意味が分からない。この森で、何がしかの役目があるのだろうか。それか、彼女の言うように昔何かがあって、それが原因で村八分にでもあっているのか。ただ、そんな状況に置かれているようには見えない。そもそもこの森には死に神がいるから、住まうことが出来ないと言われているのだ。

それよりも、瞳と言い、肌といい、あまりにも人間味がなさすぎた。セルジュには神が特別に造った精巧な人形に見えた。

「君は本当の人間?」

 そんな問いがぽろっと出てきた。少女が目を丸くさせる。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。本当にこの森に死に神がいるなら、彼女はいのちを落としているのではないか。

 だけど少女が驚いたのは一瞬だけ。すぐに顔を崩して笑いだした。

「あなた、おかしなこと聞くのね! ひとじゃなかったら何に見えるのかしら」

 カミーユが左手をのばしてきた。頬に感じた少女の手のひらは、予想以上に分厚かった。親指と人差し指の間はぽっこりとたこが出来ていた。いびつだけど、少女らしい柔らかさはけして失われてはいない。温度はどちらかというと冷え切っていて、その冷たさにぞくりと背中が震える。だけど、幽霊ではない。紛れもなく、人間の感触だった。

「ごめん。変なこと聞いて」

「いいのよ、気にしてないわ」

「もう一つ、変なこと続きで聞いていい?」

 いいわよ、と少女が答える。

 セルジュは顔を上げた。生まれて初めて、目を見て誰かと話そうと思った。眼球がまぶたの中で忙しなく動く。少女の瞳に写る自分は、真っ黒な髪に栗色の瞳と色彩に乏しく、実に平凡で頼りない顔をしていた。

「この森には、あらゆる生き物に死を招く神さまがいるって聞いた。ずっとここにいるなら、見たことがある?」

 セルジュは少女に、それにまつわる伝承を話した。

 カミーユは瞳を瞬かせ、小さく首を傾けた。その横で、音のない鈴の花が揺れる。少女は、花を焼かないようにと注意して火を(おこ)していたのだ。本来、秋には咲かないはずのその花は、月光を浴びてあまやかに香った。いくつもの花と花がふれ合い、こすれて、わずかな音になる。それが重なると、からだのあらゆる神経を震わせる凛とした鈴の音になった。

 地を照らす月光。その光を宿す初雪色の少女。一面に咲く鈴蘭の絨毯(じゅうたん)の、甘い芳香(ほうこう)。花畑の横には、満々とした透明な泉。眠りについた廃墟の聖堂。ぬばたまの闇に包まれた森は、わずかな火と月光だけが頼りだった。火が()ぜる。秋の空気はすべての音ととけあって冷たく漂っている。酔いそうなほど澄み切った空間だった。現実味がなくて、森の外から来たセルジュには異界(いかい)に見えた。

 その中心できらめく少女も。やっぱり人間のように見えなかった。人間のかたちと質感を持ったなにか別の……。

「……じゃないかな」

 声に、セルジュははっと我に返った。

「あら? 聞いていなかった?」

「……ごめん。僕が尋ねたのに」

 いいのよ、と少女は小さく笑った。

「確かにそういう話はこの辺りで昔からあるわ。わたしも聞いたことあるもの。でも、会ったことないし、ここにはそれをあらわすようなものもないわ」

「そっか……」

結局はただの昔話だった。信じている訳ではなかったが、村人たちが真剣な分、少し拍子抜けしてしまう。

 北の一番星がだいぶ傾いていた。あとどれぐらいで、仄かな明るみが差し込んでくるのだろう。

「火、ありがとう。……そろそろ行くね」

 ……居場所を求めてやってきたはずなのに、帰らなければならない場所がある。

 ラドルファスは日の出前に起きて、早朝のミサを一人で行う。森に来てどのぐらい時間が過ぎたか分からないが、ずっと部屋にいましたという顔ができるぐらいの余裕があったほうがいい。

「また、来てくれる?」

 去ろうとするセルジュのからだを、少女の声が引きとめる。……声の質が変わっていた。

「ずっと一人だったの。ねえお願い。わたしと話をしてくれないかしら」

 さっき質問責めしたときは、砕いた星の声みたいに輝かしかったのに。今の彼女の声は、寂寥(せきりょう)たる地の果てからやってきていた。ここは地の果てではないけれど、村人が忌避して入らない、入り組んだ森の中だ。

 その森の中で、たった一人。


 静かに頷いて、セルジュは振り返ることなく村へ戻っていった。


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