2
黄金の海が沈んだ。
祭りの日は天気が悪く、朝から光が射すことはなく鈍重な雲が覆っていた。湿気が僅かに視界を悪化させていた。広場の火が燃え盛り、村全体を暖めている。火の粉が揺れながら天に昇って行った。
祭りの見どころは若牛の屠殺だが、村人の多くは、その後の宴の準備で忙しい。髪を綺麗に結い上げた熟年の女が羊の乳を搾っている。その隣にいるのは彼女の夫と思しき人物で、古楽器の手入れに余念がない。別の所では年若い少女が、笛の音に合わせて軽快に踊っていた。
自分には馴染みもゆかりもない祭り。しかもその見所は中々に生臭い。
昼を過ぎて、若い牛が紐に繋がれて広場にやってきた。引くのは飼い主で、若牛は大人しく彼に従っていた。
村人は、それが行われるのを察して広場にぞろぞろと集まってきた。牛を中心に、広場に完璧な人の輪が完成した。
その頃を見計らって、飼い主が若牛の首筋に、さっと刃を引いた。
牛が血を流しながらゆっくりと倒れていく。体内から出たばかりの血は、倒れたところを中心にして地に広がっていく。雛罌粟の花よりも鮮やかだった。瑞々しく生命が震え、鰯色の空を映していた。
村人が桶と刷毛を持って放血したての牛に群がる。そうして、各々の家へと向かって行った。
その様子をぼんやりとセルジュは見つめる。
瑞々しく震える血は、たとえ役目が違っても人も牛も変わらないらしい。
……それは大都市ネムの街の中央広場で頻繁に行われていた。
人々に見せる残酷な娯楽で、見るものはその存在に吐き気と嫌悪を抱きながらも、その行為から目を離さなかった。ある時は麗しく飾り、ある時は人の原型をとどめなかった。
――切り取られた断面から滴り落ちる命の液体。首と、首から下に分かたれたからだ。死臭が漂う。すべての細胞が壊死する。魂が抜けたからだは、腐敗がとどまることを知らない。さっきまで人間だったものの唇が動いた。
それを掴んでいるのはネムの街の処刑人。人間だったものは――
「セルジュ」
隣で見物していたラドルファスが、セルジュに話しかける。危うく、蓋を開けるところだった。
「わたしは村の衆と話がある。折角の祭りだ。君もたまには、若い人たちの輪に入ってみなさい」
セルジュが生まれ育ったネムの街からミナス村にやってきから半月になる。それはつまり、この村にきて少し時間が経ったのだから、いつまでも閉じこもっていないで友人を作れと諭しているのだった。
ラドルファスが離れると、セルジュは途端にこの村における自分の存在が透明になったように感じる。村はひとつの共同体で、乱されることのない完璧な輪だった。そこに異分子が入ろうとすると、輪は受け入れまいと弾き飛ばすか、自然と引き入れて何事もなかった顔をさせる。村人は、突然司祭の元にやってきた薄暗い少年を受け入れるか、受け入れまいか、彼らなりの裁判を行っているところだった。
ネムの街にはもう、セルジュが帰る家も、血を分けたたった一人の肉親もいない。だから、街に戻る理由がない。……これから自分が生きていくのは、この村しかないのだ。
それでもなかなか人は変われない。どうしたらいいかも分からず、結局セルジュは、食べることも飲むこともなく、離れたところで何となく祭りを眺めるだけにした。
夕方になり、夜になっても祭りの輪が崩れない。さすがに小腹も減ってきた頃。
「おい」
意識の後ろ側から、少女のように甲高い声が届いた。誰を呼んでいるのかわからなかったが、周りには誰もいなかったので、声が指しているのは自分なのだと悟った。声の先を向いてみれば、先日、セルジュに苦言を呈した少年が立っている。
「お前の親父、死に神に殺されたって本当か」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。頭が白くなりそうになるセルジュに構わず、少年は子どもの顔で続けてくる。働き者でも、中身は見た目の通り幼い。悪意があるのか、ないのか、セルジュには分からなかった。子どもから感じ取れるのは、暴力的な好奇心だけだ。
「ここにはだいぶ前に処刑人はいなくなったから、僕は見たことがないんだ。人が集まって、人が死ぬところを見るなんて、この辺りじゃやらない。罪人は大きな都市に連れていかれて、そこで首を取られるんだ。なあ、どんな感じだったんだ?」
ざわざわと嫌なものが足の裏から這い上がってくる。先ほど牛の血を見て思い出そうとしてしまって――司祭のお陰でその蓋をあけずに済んだというのに。
「やっぱりお前も呪われているのか」
百万人が住む大都市。ネムの街の大広場。
彼が掴んでいるのは、父の首だ。瑞々しい赤が断面から滴り落ちる。
「ハル! やめなさい!」
セルジュが固まっていると、一人の女が飛んできた。彼の母親らしい。若くて、子どもと同様に働き者なのが見てわかる。誰よりも子どものことを案じている平凡な存在。
母親と少年が何か言い合っているようだったが、セルジュの耳には届いていなかった。やがて言い終わると、母親は何も言わずに、少年の手を引いて足早に立ち去っていった。
人の輪は、暖かくて平凡で普遍的で、道を外さないものを愛してやまない。村はひとつのせかい。せかいを形成するのはそういった温かな人たち。……自分みたいな人間が入る余地は、少しもないのだ。
*
祭りが終わり、司祭が戻ってきた時も自分の部屋に籠っていた。何かあったらしいと察したラドルファスが気にかけてくれたけど、大丈夫ですと返すのがやっとだった。
少年に言われたことは本当なのだ。冬の入り口の、初雪ちらつく中、セルジュの父は処刑台の上で死んだ。中央広場で見物に来た街の人に囲まれながら。
父は優しい人だった。そんな人が処刑人に首を取られるとは想像もしていなかったし、その喪失に純粋にこころを沈ませた。
目をつぶると様々なことを思い出してしまう。仕事に出かける前の穏やかな顔。刑が決まり、最後に面会を許された時、父はセルジュの事ばかり心配していた。かつて父だったものの瞳が、虚空を彷徨う。罪状は最後までセルジュに知らされなかった。代わりに、処刑場では様々な噂が飛び交った。罪人の――父のコートの中に血の付いたナイフが入っていた、役人の食べ物に毒麦を混ぜた、等。セルジュの耳に届いた噂はすべて、父がやらなそうなことだった。
そして父の死から、自分を見る周りの目が変わったのは確かだ。
死に神に首を取られた罪人の子ども。呪われた子ども。街の人はセルジュのことをそう見ていた。
「あんな子を引き取って。うちがどう思われると思ってるの」
「わかっている。だけど、あの子を引き取れば、うちは徳の厚い家族だと思われるだろう」
引き取られて間もなく、兄夫婦のそんな会話をセルジュは聞いてしまった。愛情ではなく親戚という義務から自分を引き取ったのは分かっている。しかし、その会話を聞いて傷つくか否かは別の問題だ。
人の顔を見ると、悪意があるような気がしてしまう。数少ない知り合いは憐れみながらも避けていくから、人と関わっていくのに消極的になっていった。優しい言葉の裏に何かがあるのではないかと、自分から疑ってしまう。日々押し黙り、沈黙を貫いていた。
そんな時に、母の兄夫婦から知り合いの司祭が手伝いを探しているから行ってみないかと言われたのだ。
だけど住む場所が変わり、環境が変わっても、結局自分は完璧な輪の中には入れない。……人の住む場所では、息苦しくなってしまって自分はいられないのだ。
必要なだけの衣類と生活品があるだけの殺風景な部屋で、何も思い出さないように蹲る。
……その時に。
再び、数日前聞いた鈴の音がセルジュの鼓膜を震わせた。
頭を上げて窓の方を見やる。前に聞いた時とまったく同じ感想を抱く。月の欠片から作ったような清冽な音。窓は閉め切っている。外と遮断しているのに、どうしてこんな僅かな音が届いてくるのだろうか。
鈴の音は空中を漂い、余韻を残して消えていく。目に見えない、誰かの涙のようだとも思った。
ここに居場所はない。だけど……。
あの鈴の音が鳴っている場所なら。誰もが忌避するあの森なら。
そう思った時には、セルジュは寝台から降りていた。昼間では駄目だ。村人に見つかってしまう。
ラドルファスは死に神がいるなんて言っていたけど、セルジュはそれを信じているわけではない。仮にいたとしても別にそれでもいい。どこか別の場所に行きたかった。
夜が深まり、ラドルファスが就寝したのと同時に、セルジュは静かに教会を出た。