10
氷の季節がおわり、春になった。
新芽が姿を現した。全てを覆っていた雲が晴れ、水気を含んだ春の気配がいきものを鮮やかに映しだしていた。
午前のミサが終わったラドルファスはいつものように、一人ひとりに丁寧に言葉をかけた。死病の色をした人は一人もおらず、そっと胸を撫で下ろした。
彼の横には一人の少年がいた。仕事を終らせ、食卓についた司祭に、その少年は静かに茶を置いた。
「ああハル。ありがとう」
母親を亡くしたハルを、今はラドルファスが引き取って育てている。働き者の少年は、午前を司祭の手伝いをし、午後は農作業に明け暮れていた。
「今日、シモンのじいさんの見舞いに行ってきます。羊の世話もしなくてはなりませんし」
羊飼いのシモンは、冬の間ずっと病で臥せっていた。その間はハルが羊たちの世話を行っていた。幼い少年は、働いて、母の死を乗り越えようとしていたのだ。春になり、シモンの体調は大分よくなったが、まだ油断は出来ない状態だ。
そんな会話の中、ラドルファスは食卓の上の景色が、ミサが始まる前と違うと気がついた。
一輪挿しの花瓶に、鈴蘭の花が生けられているのだ。
「この花を、どうしたのですか?」
司祭が訊ねると、少年は素直に答えた。
「今朝水をくみに出かけたら、川べりで咲いていたのです。手折るのは可哀想だったのですが、あまりにも綺麗だったので」
幸福の象徴で、誰もが愛する花。だが、それに人のいのちをとる強い毒性と幻覚作用があると知っている人は少数だ。その毒は直接心臓を刺す。花を浸した水を誤飲して亡くなったという話も多い。食卓に飾るには不向きな花なのだ。感謝をしつつ、その旨を伝えると、ハルは花瓶を食卓から窓際に移した。
「それからさっき、郵便が届きました。……司祭さま宛てではないのですが、これの受取人はもういないので、司祭さまに渡すべきかと思って」
ズボンのポケットの中からハルが取り出したのは、一通の手紙だった。送り人と宛名を見て、ハルの言わんとすることを悟る。確かに、この手紙の受取人はもういない。そのことを送り主は知らない。ラドルファスが知らせていないからだ。教えたところで、反応を期待するのは難しいと思われたのだ。
封を切り、流麗な筆致で書かれた内容を追った。
すべてを読み終え、ラドルファスは深く、深く息を吐いた。もっと早くに明らかになり、もっと早くにあるべき人物にこの手紙が渡されるべきだった。
「司祭さま。あのよそもんはどこに行ったのですか」
そんなラドルファスに、ハルは秋の始まりにやってきて、冬の入口で消えた少年について聞いてきた。――手に持った手紙が渡るべきはずだった、常に瞳を伏せていた薄暗い少年。
あの少年について、消えても村人は誰も何も言ってこなかった。最初からいないものだと思っているのだ。
「僕はあのよそもんに酷いことを言ってしまったんです。傷ついたのも分かっていたから、ずっと謝りたかった。でも、母さんが話しちゃ駄目だって」
祭りの際、セルジュが青白い顔で引き籠っていたが、それはハルが関係しているのだろう。ハルが彼にとって、禁断の蓋をあけるようなことを言ったのも容易に想像できた。ハルがそれを悔いていることも、彼から言われなくても感じていた。
最初、彼の親戚から話が来た時、ラドルファスはどうにかしてあの少年のこころを開かせたいと思った。別の環境に身を置き、人と関わることで、少しでも彼が変わればいい。元々暗い少年だと聞いていたが、ネムの街でのあの出来事から、知り合いから疎まれていたのは変わりない。
だから、全ての事情を知った上でセルジュを引き取ることにしたのだ。
……既にこころが推し量れなくなった少年のことを思う。この手紙が来るのがもっと早く、彼に見せられていたら。あの選択をせずに今でもこの場にいただろうか。父親は無罪で、彼に罪を擦り付けた人間が裁かれた事実があり、手紙には深い謝罪がつづられていたとしても。
心配になったのか、ハルが泣きそうな顔を作っていた。ラドルファスはその少年の柔らかい頭を撫でた。
「大丈夫です。彼は君の事を責めたりはしません。彼はもうここには戻ってきませんが、自分の居場所を手に入れたのです」
その言葉に、ハルは何度も頷いた。……もう、考えても仕方がない。
「……だったらいいんですけど」
ラドルファスは彼が消えた後、彼がどうなったかを確かめる為に一人、死の覚悟をして誰にも話さず森に入った。
いのちは刈りとられなかった。そして、あれを見た。
頭に思い描いた想像を否定する。
あそこには確かに何かがいたのだ。死をもたらす恐怖の何かではなく、少なくとも彼にとって、柔らかな微笑みを与えてくれる幸福の証が。だからきっと、手紙を渡せていても、彼は彼にとっての幸福を選んだのだ。
そう願いたい。
目を閉じてそれを思い浮かべる。そこは降りしきる雪と鈴蘭に包まれた真っ白なせかいだった。
*
――走り続けてたどり着いたそこは何も変わらない。常に鈴蘭が咲き乱れるうつくしい異界のような場所だ。雪が鈴蘭のかたちを模しているのか。氷の花が咲いているのか。判別がつかなくなるほど白い。
その中心で、雪が降っているも関わらず、彼女は初めて出会った時のように静かに佇んでいた。
「カミーユ」
呼吸で暴れる心臓を宥め、大切な少女の名前を呼ぶ。
振り向いた彼女は、鈴蘭の花を蹴立ててセルジュに向かってきた。
「セルジュ!」
自分の胸に飛び込んできた彼女の細いからだを、彼は何も言わずに抱き返す。前みたいに力の限り閉じ込めてしまうのではなく、繊細な硝子細工を包み込むように、そっと。セルジュ、セルジュと、少女は何度も名前を呼んだ。しがみ付いた彼女の手と声は震えていた。
「ずっと一緒にいてくれる?」
希望と喜びと、僅かな不安を若草色の瞳に宿しながら、少女はセルジュに問うてくる。
答えなんて決まっていた。それを伝えるために来たのだ。
だからセルジュは彼女の右手をとって、秘密の残る甲を口づけた。
本当は布を外して直に唇を押し当てたかった。そんなものが残っていても、彼女がセルジュにとって大切な存在であることは変わらない。だけど、そうしたら彼女の瞳にあのしるしが映ってしまう。
顏を離すと、彼女の青白い頬がわずかに桃色に染まっていた。幸せそのものといった顔で、セルジュを見上げている。
「約束する。僕はもう二度と君から離れない。死んでも、骨になっても一緒にいよう」
自分は身もこころも彼女に奪われていた。だから、この顔が見たかった。この顔が欲しかった。若草色の瞳から幾筋もの星が流れた。セルジュはそれを拭わなかった。悲しみの涙ではなかったから。透明な光を宿しながら、一粒は鈴蘭の花畑に流れ落ち、一粒はセルジュの服の中に染み込んだ。
真珠なんか飾らなくても、彼女はそれだけで綺麗だ。ならば自分は彼女が枯れないように包み込む土になりたい。
額を突き合わせ、淡雪が隙間にようやく通れるぐらい近い距離の中、彼女の顔を持ち上げる。今日の朝生まれた感情が暴れ出す。
この隙間を埋めたい。……抱きしめるだけでは足りないのだ。
涙で濡れた少女の眼が見開かれた。少女の口から声が漏れそうになっていたけれど、音が出ない。出せない。――セルジュの唇が、塞いでいるから。
そっと合わせた少女の唇は仄かに色づいていて、セルジュの瞳には薄い氷の膜に覆われた花の蕾のように見えた。頬と同じように冷たくて、とても柔らかだった。熱を持ったセルジュの唇が、少女のそれを優しく温めていく。互いの息が交わり、蕾が綻びると、少年の舌がうごめいて、少女の奥に潜む花の蜜を吸い取った。ふわりとした花の香りが鼻孔をくすぐる。それは甘くて、僅かに毒味があって、凛と響いた鈴の音のようにどこまでも澄んだ味だった。唇を合わせたまま、少女は自分のすべてを少年に委ねた。
満々とした泉が鏡になり、一つになった影を映し出す。
そうしてセルジュは眠るように瞳を閉じた。
*
白い花咲き乱れる氷れる花園で。
一輪のうつくしい花を抱きしめたまま一人の少年が静かに時を止めていた。