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氷れる花園  作者: 神山雪
11/12

9


 瞳を開くと、視界の端に老司祭の姿が入ってきた。使い慣れはじめた寝台に、見慣れはじめた天井。聖堂の二階の、与えられた自分の部屋にいることにセルジュは気が付いた。医者らしき人物がいて、セルジュの脈をとっている。深刻な話らしく、司祭と医者は難しい顔を互いに突き合わせていた。

「司祭さま……」

 からだがだるくて、身を起こすのさえ億劫だった。首だけ動かすと、ラドルファスが難しい顔から一転して安堵した顔を作った。司祭は今日の朝、村はずれで倒れているのを見つけて運んできたのだと教えてくれた。

 診察を終えた医者が部屋から出て行った。階段を降りる音が途切れたころ、司祭は核心を突いてきた。

「森に行っているのですか」

 セルジュは口を堅く閉じて沈黙を貫いた。ラドルファスはそれを肯定と受け止めた。

「何故ですか。何の為に、わたしたちが血の結界を貼っていると思っているのですか」

「……死に神はいません。あそこにいるのは、誰にも理解されない、孤独な女の子がいるだけです」

 セルジュはゆるやかに首を振った。本当はこう言いたい。昔の人がおそれ、石を投げた女の子が今でも涙を流しているのだと。

 彼女の過去を垣間見て、あの祭りと司祭の話は、長い時間の中で歪められ、脚色されたものだと分かる。死に神に対する恐怖は、潜在意識として村人に残っているだけだと。……すべてを知っているのは、自分だけなのだということも。

 司祭が、セルジュの手を取る。自分の手を見て、大分水気がないなと他人事のように思う。

「ハルの母が死んだのだ」

 ハルは、刈りいれの時にセルジュを叱責したあの子どもだ。昨日のミサの時、何か言いたげにじっと見つめていた。――その母親が、死んだらしい。確かに昨日の顔は青白かったと思い出す。

その死に対して、セルジュは感想を抱かない自分の薄情さに気が付く。

「今日の朝、君を見つけてすぐにハルが血相を変えてやってきてな。最近アニータの顔が青白いと思っていたが、まさか、こんなことになろうとは……」

 セルジュは鈍い頭で思考を巡らせる。ラドルファスは自分を責めたいのだ。自分が森に入り、彼女と出会ったから、血の結界が破られ、村の人間が危険に晒されているのだと。それを抑制するから無意味に優しい口調になる。

 何も意味がないのに。あんなもの、彼女を苦しめる以上の役割を果たさないのに。

「わかりましたか。君にとって、その子はただの無害な子かもしれない。だが、われわれにとっては森の中に在る存在は、それだけで静かに命を奪う、恐怖の対象以外の何ものでもないのだ」

 僅かな笑いがセルジュの口から洩れた。司祭は気付いているのだろうか。彼は意識せず、われわれと君、とはっきりと分けたのだ。

村人とよそからきた少年と。

彼女は死に神ではない。セルジュがそう声を上げて叫んでも、絶対に彼らは認めないだろう。

「机に水と食事を置いていく。君はとにかく休んでいなさい。わたしはアニータの葬儀の準備をしてくる。……もう森に入ってはいけない」

 木の扉が閉じられ、ぎしぎしと音を立てながらラドルファスは一階へ降りて行った。

 腹は減っていなかった。一人きりになり、垣間見てしまったカミーユの過去を思い返す。

 震えながら解剖する指先。つかの間の幸せの顔。父の加虐に耐える姿。あの少年に背を向けられて感情が抜け落ちた顔。

 最後に願った言葉。

 彼女のからだを包み込む優しい光。

 泣き叫ぶ小さい背中。

 彼女の過去を見て、その生い立ちに驚きもしたし、助けたくても助けられないもどかしさも覚えた。唯一こころを許していた少年に対して妬心も抱いたが、それもすぐに空しさに変わってしまった。彼女を捨てた父が許せなかった。彼女に背を向けたあの少年も許せなかった。

 一体どれだけの時間を、一人で過ごしたのだろうか。

 鈴蘭の花は彼女に二度目の生を与え、傷を癒した。だが、こころの傷は癒せなかった。それどころか、より深く傷を(えぐ)ってしまったのではないか。彼女の願いは叶えられず、死再び息絶えることも許されず、誰とも関われないまま悠久の時だけが過ぎて行ったのだ。それは牢獄にも等しい時間だったのではないだろうか。

 ――夢には続きがあった。

 月の出た、闇の深い夜だった。長い長い時間の末に、少女の前に一人の少年が現れる。黒い髪と栗色の瞳。優し気ではなく頼りなさげな顔の――自分の顔だとセルジュは認識する。少女の瞳から、一筋の涙が流れる。誰かが現れたのが、ただただ嬉しくてうれしくて仕方がなかったのだろうか。

 彼はほぼ毎日、夜が深まると少女の前に現れ、時間を共にするようになる。彼は静かで、はしゃぎまわる少女の話を、咀嚼するようにじっと聞いている。

 少年が帰ったあと、カミーユはいつも少年が去っていった方向をいつまでも眺めている。両手で頬を包んで、はにかんだ顔を作っている。口元が緩やかに綻んで、指先も頬も、少し薄紅色になったように見えた。

 それまで少年と話した内容を反芻し、彼の顔を虚空に思い描く。

 そこで初めて彼女の感情が流れてくる。――また、来てくれるだろうか。そうしたらわたしは、どんな顔で、何を話そう。彼は、どんな話をわたしに聞かせてくれるのだろう。

彼女の胸の中で、黒髪の少年の存在がどんどん大きくなる。彼について考える時間が長くなる。

 だけどその顔はふとした瞬間に崩れてしまう。長いまつ毛が震えたかと思うと、若葉色の瞳が暗く揺れる。

 存在が大きくなればなるほど、少女のこころの中で不安も同時に膨らんでいった。自分だけが馬鹿みたいにはしゃいでいて、彼に嫌われてはいないだろうか。本当は鬱陶しく思っていて、無理に付き合わせてはいないだろうか。わたしの秘密を知ってしまったら。もう二度と、顔を見せてくれなかったら。でも、でも。

 もう二度と、背中を向けられたくない。もう二度と、蔑まれたくない。

「カミーユ……」

 夢はそこで終わりになった。掠れた声で呟く。彼女が、こんな風に自分を待っていたなんてセルジュは知らなかった。


 ――信じたいけど、わたしが何者か知ってしまったらあなたはきっと背中を向けてしまうわ。


 昨日の夜、彼女が言った言葉が思い出される。

「カミーユ……」

 再びつぶやくと、指先にからめとった彼女のすべてがよみがえる。氷の体温。細くて小さいからだの感触。鈴蘭の香り。服を握った手のひらは持てる限りの力だったのかもしれないけれど、どうしようもなく弱弱しかった。月光の髪。まつ毛が若葉色の瞳を隠す。むき出しの足の裏。薄絹の単衣はいつも同じものだった。……どうして自分は、気付くのが遅いのだろうか。

 りぃんと鈴の音が響く。あの白い花園から、月の欠片と氷で作ったような清冽な音が。

 ――彼女は今、泣いているのだ。

 部屋は冷えきっていた。窓の外は鰯色の空は暗くなっている。これから夜になる。空気が一つの気配を捉える。雪が……初雪が降るのだ。

 心臓が動けと訴え、寝台から身を起こす。少し動いただけなのに、脳がぶれた。吐き気が収まらないからだを叱咤して教会を後にした。喪服を着た村人が、ハルの母親を弔うべくその家に向かっていた。

「戻りなさい」

 森に入ろうとして、その直前で足が止まる。

 遮ったのは聞き慣れた司祭の声だ。

「今の君の顔は、アニータが死ぬ前と同じ色をしている。だから戻りなさい。死に神に会ってはいけない。……私は君が心配なのだ」

 知らないうちに、自分はハルの母親と同じように、死病に侵されているのだろうか。でもそんなのはどうでもいい。関係ない。

 セルジュは初めて、ラドルファスの顔を真正面から見据えた。年相応に皴を重ね、偽りなく正しく神に仕えてきた司祭の顔を。

「司祭さま」

 彼は優しかった。何も聞かずに引き取ってくれて、感謝もしている。

 だけど行かなくては。

 セルジュは全部覚えている。彼女を抱きしめた時の肩甲骨の細さも。指に絡まった金の糸も。安らかな寝顔も。あまりにも冷たすぎる体温も。

 ――彼女と共にいて騒いだ自分の心臓も。

「僕にはあそこで出会ったあの子が何者かなんて関係ありません。もし彼女が死に神だとしても、ためらいなくあの子の隣を選びます。あの子は僕にとっての、たった一つのものだから。だから……」

 司祭に言わせる間もなく踵を返して、セルジュは彼女の元へとひた走った。背中で老司祭が必死で声を上げているのを聞くが、意に介さなかった。早く彼女のもとにたどり着かなくては。そして伝えなくては。

 その想いだけが、セルジュの足を突き動かす。

 吐き気もだるさもどこかへ行ってしまった。地に這う野太い根を飛び越え、生存本能に従って際限なく伸びた枝を避け、風にのって舞い踊る初雪を無視しながら。

 ただ走り続けた。


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