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氷れる花園  作者: 神山雪
10/12

8‐3



 その年の冬の入り口だった。彼女の父は朝からおらず、彼女は家で身の回りの仕事をしていた。部屋を片付け、溜まった衣類を洗う。そして、心臓が止まりそうな事実に気が付いた。

 自分の寝台の、枕の下にあるはずのそれが無いのだ。

 膝を付いて部屋を探し回る。机の下を。寝台の下を。引き出しの中を。そのうちに、父が帰ってきた。父はそんな娘を冷ややかに見下していたが、やがて、口を開いてあるものを見せた。

「お前が探しているのはこれなのではないか」

父が持っているものを見て、その時彼女は初めて大声を出して父に逆らった。

「返してください、父さん!」

 手を伸ばして、自分にとって唯一の清いものを奪い返そうとする。

彼は簡単に少女をかわし、頬を思い切り張り飛ばした。床に倒れた彼女の耳に、何かが破かれる音が届いた。

 彼女の父は無言だった。温度のない眼差しで彼女を見据えている。その無言が前触れだった。彼は娘の腕を強く掴み、娘を引きずって行った。その際に視界の端が、ぼろぼろになった鈴蘭の栞を捉えた。

 木造りの粗末な寝台と、解剖の時に彼女が怯えた木の椅子がある。水の入った木桶が幾つか用意されていた。寝台の上には、人を痛めつけるための道具が置いてある。暖炉の中で火がぼうぼうと燃えていた。這い上がってくる湿気と火の熱気が、ぐらりと歪んだ空間を作り出していた。

「座りなさい」

 彼女の顔とからだが凍りつく。額から、一筋の汗が滑り落ちた。小刻みに首を動かして、嫌です、と応えた。

 彼は長剣を抜いた。右手で彼女の長い髪を掴むと、剣で一息に刈り取った。

金の糸が、短い悲鳴とともに宙に舞った。

「座りなさい。二度も言わせるものではない」

 それでも少女は動かない。否、動けない。彼は蹲った彼女を暫く見下ろしていたが、刈り取った髪を掴み、投げ込むように荒々しく座らせる。

 少女を荒縄と木の板で椅子に拘束すると、彼女の父は娘の顎を掴み、強引に口を開かせた。そこから水を絶え間なく流し込んだ。父の指が、容赦なく娘の頬に食い込んでくる。抵抗できない彼女は、大量の水を飲みこむ。水で胃が膨張したところで、彼は娘の腹を強く蹴った。水は辿った道を戻ろうとするが、溢れ出す一歩手前で顎を掴んだ彼の手が娘の口と鼻を塞いだ。(せき)()められた水は口内に留まり、喉を塞ぎ、呼吸を遮る。

 酸素を求めた少女のからだが痙攣(けいれん)を始める。目が光を失いかけたところで、ようやく彼は手を放した。

「私が知らぬと思ったか」

 せき込み、浅い呼吸を繰り返す彼女の前髪を掴んで再び水を灌ぐ。それを全ての木桶の水がなくなるまで続けた。

「お前を惑わせた男の名前は何だ」

「……それを聞いて、父さんはどうするのですか」

「お前の知ることではない」

 殺す気だ、とセルジュは悟る。彼女には父が用意した男がいる。父が彼女に求めているのは、その男と交わって丈夫な跡継ぎを産むことだ。別の誰に心を裂かせる隙など、認めてはいないのだ。この父ならば、彼女の目の前でアルマを殺すことぐらい、ためらいなく行うだろう。

「いいません」

 カミーユは冷たく目を細める父に向かって、はっきりと拒絶した。

「わたしは……何故わたしは、みんなのように暮らせないのですか。もう、歩いているだけで死んだ牛の血を浴びさせられるのは嫌です。わたしを見ただけで逃げられるのも嫌です。わたしは、わたしは……。わたしは、日の当たる場所で生きたい。幸せになりたい。父さんは、わたしの幸せを望んではくれないのですか」

 言い募る少女のからだは、水で青白くなっていた。娘の濡れた頬にそっと、父が手を当ててくる。この記憶を見始めてから初めてだった。彼女の父が暴力以外でカミーユに触れてきたのは。

「我が娘よ。お前はなんと無垢で、純粋で――」

 暗鬱な色彩ばかりが際立っていたからか、セルジュは今まで気が付かなかった。この親子は髪の色も顔立ちも似ていて、それだけで彼らの血の証明になっていることに。ただ違うのは瞳の色。娘が土から生まれたばかりの若葉の色ならば、父は宵闇(よいやみ)の如く漆黒の色を持っている。

「なんと愚かな出来損ないなのだろう」

 優しく触れていた手が襲ってくる。彼はあらゆる道具を使って、娘のからだを痛みつけた。時間をかけて全ての爪を剥ぎ、その傷口を火で炙った。彼は人間のからだについて詳しい。だから、どうすれば殺さずに長く痛みを与えるかもよく知っていた。娘の意識が遠のきそうになると、彼は別の痛みを与えた。カミーユは下唇を噛んで必死で耐えた。彼女の頭にあるのは、あの優しい少年との思い出だけだ。

 顔をゆがめる娘と対照的に、彼女の父は徹底して無表情だ。ただ一人の肉親に対する情の欠片もなかった。

 目をそらすのは簡単だ。こんな光景見たくないと、セルジュはこころの底から思う。だけど、ここで目をそらしてしまったら、彼女を見て逃げ出した人たちと同じになってしまう。どうして今すぐ彼女を助けてあげられないのだろう。どうして、この場で彼女を抱きしめてあげられないのだろう。それだけがもどかしくてたまらない。

「お前が人の子か。お前は私から派生した時点で、人の子たる資格を失ったのだ」

 父が娘の右ひざを直接鉄(かな)(づち)で打ちつける。一回目で骨にひびが入り、二回目で血が吹き出し、三回目で骨が砕かれる音が響いた。

「われわれは人ではない。人にはなれぬ。われわれは人肉に集り、食らい尽くす蠅以下の存在。人の幸福など求めてはならぬ」

 彼が、火で熱した(こて)を娘の右手に押し付ける。セルジュに許されているのは触覚と聴覚だけで、少女の柔らかい肉が焼かれる臭いは漂わなかった。

甲高い悲鳴が、少女の喉から迸る。

 白い肌に赤い痕が残った。――処刑人をあらわす、音のない鈴と長剣の紋章。

 セルジュの中で激しい怒りが渦巻いて、からだ中の血が沸騰して逆流しそうになる。それを行っている彼女の父に対して。そして、それを止められない自分に対して。わかっている。セルジュが叫んでも、彼女の父に届かないことぐらい。これは過去の出来事で、それを垣間見ているだけ。

 それでも言わずにはいられなかった。やめろ。彼女が何をしたんだ。彼女は何も悪くない。

「それ以上傷つけないでくれ!」

 叫び、ぶつっと目の前が暗くなった。

 ……そして。

 あの恐ろしい光景は消え失せて、次の瞬間には冬空の下にいた。あの村の横に広がる森の中。先ほどの光景から時間が経っているらしい。それが一時間か、一日か、十日かはわからなかった。

彼女は、森の奥深くで倒れていた。傷だらけで、右ひざが潰れていた。血が抜けて冷やされたからだは()病者(びょうしゃ)の色に変わっている。地面についた血の固まり具合からして、この場にいてから相当の時間が経っている。こんなからだで、家からここまで来られる筈がない。思い当たるのは一人だけ。

 彼女の父は、彼女を森の奥深くに捨てたのだ。

 セルジュが駆け寄ろうとして、ひとつの影が遮った。

 遮ったのは、優しい亜麻色の少年だった。

「アルマ……」

 細く、擦れた声。焦がれた少年の姿を見て、何とか少女は笑顔を作ろうとする。その姿が、セルジュには痛々しくてならなかった。からだに残る全ての力を使って、少女は少年に近づこうとする。

「マリーという綺麗な女の子を探している」

 その動きが止まった。アルマの様子がおかしいからだ。

「暫くその子に会えてなかったから、ずっと探していた。だってあの村に行って聞いても、そんな子はいないってみんな言うんだ。でも、僕は知っている。僕だけが知っている。小さくていとおしくて、君にそっくりで。でも、君は、君は……」

 微弱な風が、少年のこころを読み取ったかのように木の葉を揺らす。

「君はマリーじゃない。君は、誰だ」

 少女の瞳が色を無くした。

 アルマは二つのものを交互に目を動かす。一つは、短くなった月光の髪。もう一つは、右手の甲の焼き印だった。

 それを理解し、彼女が何者なのかを知り、アルマは一歩、二歩と後ずさる。唇が紫色になっている。少年の顔に浮かんでいるのは、恐れと、害虫を見るかのような嫌悪に満ちた瞳だった。言葉よりも明確な拒絶だった。

 何も言わずに、彼は背を向け、振り返ることなく走り去っていった。彼の姿はすぐに見えなくなった。

 ――誰かを憎んでも結局わたしが惨めなだけだから。

 ――全部わたしが悪いの。

 そこでセルジュは、彼女の父の意図をようやく理解した。誰もが忌避する証を残し捨てた上で、お前のような与えられた役目も果たせない愚かな出来損ないの処刑人の子どもの居場所はこの世にないと言いたかったのだ。

 這うように、カミーユは森の奥へと進んでいった。木の根に足を取られ、その度に新しい傷をつくっていった。それでも歩を止めず、ただ、奥へ奥へ。

 ……たどり着いた場所は、時が凍ったのではないかと思ってしまうほど美しい空間が広がっていた。

 豊かに咲き乱れる鈴蘭に、透度の高い泉。廃墟の聖堂が、この場が神聖なものであると雄弁に語っていた。

 カミーユは鈴蘭の絨毯に、前のめりに倒れ伏した。唇に白い花弁が触れた。彼女は何も考えずに本物の音のない鈴を口内に入れ、舌で転がして嚥下させた。

 双眸が濡れている。父に虐げられても、たった一人の少年に背をむかれても決して溢れなかったものが、頬を伝って白い花を潤した。悲しみに満ちた涙だった。

 やがて、鉛色の空から白い綿が優しく降ってきた。その年初めての雪だった。眺めていくうちに、少女の瞳から生物の光が失せ、硝子の玉みたいに無機質になっていった。青ざめたくちびるが僅かに動いた。真っ白なせかいの中、あまりにも小さい声だったけれど、雪に吸い込まれること無くしっかりとセルジュの耳まで届いた。

 直後、目蓋(まぶた)が閉じられて、カミーユは静かに冷たくなった。

 心臓を止めた少女を憐れむように、鈴蘭の花々が震える。それぞれの花とこすれて発生した微弱な音たちが響きあった。花にも死を憐れむこころがあるのだとセルジュは考える。鈴蘭の花は少女の傷を覆い、鮮やかな緑色の葉と茎はゆるやかに伸びてからだに絡んでいった。

 その時だ。みずからを震わせて音を作っていた鈴蘭の花が淡い光を帯びだしたのは。

 光は少女のまわりに集まる。そして、ひとつずつ、長い時間をかけて青白くなった少女のからだに融け込んでいった。

 まったく現実的ではなかった。花がみずから発光するなんてありえない。セルジュは彼女の記憶の中ではなく、大昔の逸話や伝説の中にでもいるような気がしてしまう。

 だけど息が止まってしまうほど美しかった。

 瞼の裏でわずかに眼球が運動を始める。長い睫が震えて、瞳が開かれた。

 ――未練を残して死んだ娘は花守の妖精へと生まれ変わる。

 セルジュの頭に大昔の物語が思いだされる。誰もが知り、少年が少女に語ったうつくしい物語。鈴蘭の花は、幸福と癒し。そして復活の象徴。


 少女は二度目の生を与えられたのだ。


 *


 再び目覚めた彼女は、長い間無為に過ごした。からだの傷は全てふさがった。剥がれた爪は生え変わり、潰れた右ひざも歩くにも申し分がなくなった。だが、傷跡や痣はいくつか残ってしまっていた。そしてどれだけ時間が経っても、顎さきよりも長く髪が伸びることはなかった。泉に顔を映してみると、より青白く浮かんでいた。傷は癒せても、一度心臓を止めたときのままの姿から変わることはなかった。

 彼女にはすることも無く、したいことも無かった。たまに自分の骨が砕かれる音や、拒絶した少年の顔を思い出しては目を強くつぶった。右手の焼き印は残ってしまい、それが彼女を落ち込ませた。 寒くなると聖堂で雨風を凌いだ。幸い、聖堂には麻と絹の布と裁縫道具が残されていた。大昔に誰かが住んでいたのかもしれない。彼女はそれを使って右手の甲を覆った。

 一度だけ、再び目覚めてどれだけ経っているのかと気になったので、彼女は思い切って村に近づいてみた。時間という概念が彼女の中で輪郭を失っていたからだ。

 建物が見え、村と森の境目に辿り着いた時、耐え難い吐き気におそわれた。

 村からは、強い牛の血の匂いがした。

 遠くから見ても分かった。広場で、牛の屠殺が行われていた。

 全身に浴びせられた牛の血の匂い。その生温かいぬめりが、幻になって少女のからだにまとわりつく。

 カミーユの近くを一組の母子が木桶と刷毛を持って歩いていた。彼女は慌てて身を隠した。母子が話していたのは、女が持っている木桶の役割についてだった。

「どうして家の柱に牛の血を塗るの?」

「死に神の娘から身を守るためよ」

 女が語りだす。この村にも処刑人一家の父娘がはずれの方に暮らしていた。父と娘は折り合いが悪く、娘は恋人と駆け落ちしようとした。父はそれが許せず、娘を痛めつけた挙句に森の中に捨てた。その家には跡継ぎがいなくなったが、父は別の地方の処刑人一家の次男を、自分の養子として迎え入れた。

 その翌年の冬の入り口、父と養子が相次いで亡くなった。同じ頃、彼女と恋仲だった少年も静かに息を引き取った。共通しているのは死の原因が不明なこと。そして、捨てられた娘と関係が深かったこと。それが皮きりで、不作になり、村人の不慮の死が相次いだ。

 ――だから、彼らが死んだのは呪いだ。死に神の娘が、報復するために本物の死に神になり、無差別に命を刈りとっていくのだと。

 死に神の娘は今でも森に住んでいる。彼女が嫌うものは牛の血だ。こうすれば、おそれて村に近づかない。われわれは安全だと。

 カミーユは木の影からじっと聞いていた。父と婚約者と、あの少年の死を知り、また自分が再び目覚めて時間が経っていることを知ったが、それは気にならなかった。

 あまりの話に、少女のからだが力を失って膝から崩れ落ちる。

 だがすぐに、ここにいては駄目だと、懸命に足を動かして彼女は来た道をひた走る。戻れるのは、あの白い花園しかなかった。足が(もつ)れて、何度も転んでは立ち上がった。走るうちに雲が全てを覆い始め、たどり着いた時には淡雪が降っていた。その年初めての雪だった。

 聖堂の祭壇の下で、目を閉じ耳を塞いで縮こまる。時折吹く風が、廃墟をがたがたと不安定に揺らした。

「みんなわたしが嫌い。父さんもわたしが嫌い。あの人もわたしが嫌い。……寒い。寒い寒い寒い寒い」

 崩れ落ちそうな神の像が冷酷に見下ろす中、少女は枯れるほど声を上げて泣き続けた。その声も、誰かの耳に届きはしなかった。石造りの壁は少女の声を跳ね返し、より大きな音を作り上げた。


 それ以来、少女は春から秋にかけては鈴蘭咲き乱れる氷れる花園で過ごし、その白い花を泉に浮かべることを覚えた。村には二度と近寄らなかった。こころが空しくなると、泉の中に身を浸して鈴蘭の花と共に空を眺めた。花は時折流れて、隣の小川と合流して村へ辿って行った。

 冬になると聖堂の中で身を丸めて過ごした。雪の気配を感じ取ると、強く瞼を閉じた。

 何も食べなくても、聖堂に落ちていたぼろぼろのナイフで喉を突き刺しても、彼女が再び息絶えることはなかった。どれだけ傷ついても、熱病に浮かされても、鈴蘭の花が傷を覆って彼女を癒した。

 たまに彼女は静かに涙を流した。彼女が泣くと、鈴蘭の花が自発的に揺れて、あの凛とした音を作った。彼女を癒し、新しいいのちを与えたもの以外、彼女を慰めるものはなかった。

 ……時間が流れに流れた。永遠にも似た悠久の時間の中、幾万もの月が巡った。


 そして――

 


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