アイドル狂時代
アイドル狂時代
「だから、直感的というのは、人間の思考作用の中で、最も高度な働きかもしれないんだ。そういう観点から言うと、探偵小説の名探偵で、よく直感的だと、批判されることが多かった、チェスタトンのブラウン神父は、実は一番の推理家だったかもね」
素人探偵の氷室展と彼の友人である滝元和彦がいるのは、普段から2人が時間つぶしの場として使っている喫茶店である。そこは2人のアパートのほぼ真ん中に位置していて、駅からは適当な距離があるので、忙しく歩き回る人々の喧騒からは解放されている。店内はこじんまりとしていて、照明は暗く、客は、いつ来ても数人しかいない。そういう雰囲気が、氷室には気に入っていた。2人は、すでに2時間近く、傍目からは理解できない会話を続けていた。今日は、人類の進化と脳の働きについて、素人議論をしていた。現実的な滝元は、そろそろ飽きてきて、話題を変えることにした。氷室の話が一段落すると、あることを思い出した。
「そう言えば、親父が最近、中学校の同級生だった人からある相談を受けてね。同級生だった女性の夫が突然に失踪したらしいんだけど。興味ある?」と滝元は聞いてみたが、今までの付きあいから、氷室が、その手の話に目がないのは分かっていた。氷室は進化についての自説をもっと続けるつもりでいたが、急に目の色を変えた。
「どんな事件なの?」と身を乗り出してきた。滝元は食べかけのサンドイッチをいっきに口に放り込んだ。
「僕から聞くよりも、親父に直接聞いた方がいい。今日は休みで家にいるから、今から家に来るかい」
「久しぶりに滝元警部に会うとしよう」
滝元警部は、氷室の姿を見るなり、氷室に抱きついてきた。警部は、仕事時からは想像できない格好をしていた。氷室は警部のジャージ姿に笑みを浮かべながら、
「ご無沙汰してます。警部」
「お元気ですか、氷室君。和彦、家に来るなら来ると電話してくれればいいのに。氷室君に、恥ずかしい恰好を見られたじゃないか」
と言いながら、警部は、氷室をリビングルームに案内した。リビングは20畳以上もあると思われる広さで、窓からは街が一望できる開放的な部屋だった。世間話をした後で、事件について警部が話し始めた。
「もう何年も会っていなかった中学校時代の同級生から、2日前に電話がかかってきましてね。彼女の夫が4日前に出かけたきり、家に帰ってこないんだそうです。私は香奈に、ああ、同級生の名前ですが、男がたまに風来の旅に出るのは珍しいことじゃないと言ったんです。すると、香奈は、夫は今まで一度も黙って家を出たことはないし、普通のサラリーマンで、会社でも、家庭でも真面目な人でトラブルとは無縁だと言うんです。趣味も同僚とゴルフに行くか、競馬やパチンコを少しやる程度で、あとはアイドルの追っかけで、自分の小遣いを使っているだけだそうです」
氷室は、アイドルの追っかけと聞くと、急に親近感が湧いたのかテーブル越しに身を乗り出した。
「4日前というと、その人はJKD30のライブには言ったのかな?」
「何ですか、そのJKB30というのは?」
「JKでぃーです」
氷室は説明できるのが嬉しいのだろう、顔を綻ばせて、
「今、人気急上昇中の女子高生のアイドルグループです。主に秋葉原を中心に活動してますが、今年中には全国に活動の場を広げるようです。ダンスが上手いのは、もちろんですが、彼女達にはそれぞれ特技があって、プロ並みのバイオリンの腕を持つアイドルもいれば、5か国語の言語を操るアイドルもいるし……」
滝元父子が白い眼で氷室を眺めていることに気づくと、氷室は黙って、警部の話を聞くことにした。
「香奈の話によると、夫の宗一は小遣いの大半をアイドルのライブに行ったり、彼女らのグッズやCDを買ったりしていたと言います。私も彼の部屋を見せてもらいましたが、アイドルオタクというのはああいうもんですかね。壁にはポスターが何枚も貼られているし、ガラスケースには、たぶんそのアイドルのものと思われるフィギュアが整然と並べられていました。テーブルには最近買ったらしいCDが置いてあったんですが、ちょっと妙だったのは、同じタイトルのCDが何枚もあったんです。これをどう思いますか?」
まったく訳がわからないという表情の警部に対して、氷室は微笑んで、
「そのCDに何か特典でもあったのでしょう。CD不況の時代ですから、レコード会社はいろいろと特典をつけて、1人にたくさん買わせようとしますから」
「詳しく調べませんでしたが、そういうものがあったんですか」
「それで、家の中を調べて、何か手がかりになりそうなものはありませんでしたか?」
「残念ながら何もつかめませんでした。同級生からの頼みという手前、宗一さんは必ず見つけ出すと、威勢よく宣言したものの、いくつも仕事が山積みになってるし、私の管轄外なものですから、後回しにしてしまってました。まあ、私の印象では、何日かすれば、何事もなかったかのように、ひょっこりと家に帰ってくると思いますが。氷室君、ちょっと調べてくれませんか?」
「分かりました。今、ひまを持て余しているところなので調べてみることにしましょう」
滝元は『いつもひまなくせに』と思ったが、口には出さなかった。
滝元警部と別れてから、40分後には、氷室は駅前に林立する高層マンションの一角に来ていた。氷室の手には、警部に書いてもらった同級生の住むマンションまでの地図が握られている。地図を見ながら歩いていくと、まもなく『グリーンハイレジデンス』という名のマンション前までやってきた。2人が訪問することは、滝元警部から連絡がいっていた。玄関の自動ドアの先にあるインターフォンで723と番号を押すと、すぐに『どうぞ』という女性の声がして、手前のドアが開いた。その先にあるエレベーターに乗り、7階のボタンを押した。エレベーターを降り、723号室の前に来ると、同時くらいにドアが開いた。出てきたのは、30代後半から40代前半と思われる女性で、氷室達に微笑みながら『お入り下さい』と言ったが、夫の突然の失踪という出来事が、彼女の心に大きな空虚感となってのしかかっていることがうかがいしれた。氷室と滝元は玄関にあがり、真っ直ぐな廊下を抜けたところにある広さ10畳ほどのリビングに通された。そこには失踪者の中学生くらいの娘の姿もあった。
「散らかっていますが、どうぞ」
2人はソファーに腰をおろした。滝元警部の同級生は、キッチンに入っていき、トレイにコーヒーカップを載せて、2人の正面のソファーに座った。コーヒーを2人の前に運びながら、
「申し遅れました、私、神無月宗一の妻の香奈と申します。警部と一緒に夫を捜していただけるとお伺いしました。ぜひ見つけ出して下さい」
香奈の声はほとんど涙声になっていた。氷室は自分達の自己紹介をした。
「それで、さっそく本題に入らせていただきます。警部からも概要は聞いてますが、正確を期すために、香奈さんからもお聞きしたいと思います。宗一さんが家に帰って来なくなったのは、いつでしたか?」
香奈はエプロンの前に付いているポケットから、小型の手帳を取り出した。ページをめくると、
「今から6日前の8月10日です。地元の警察には翌日の夕方ごろに電話しました。滝元くんには14日に個人的に連絡を取って、話をしました。
滝元は、親父が『滝元くん』と呼ばれたのにどこか滑稽さを感じた。
「旦那さんは、今までに、突然帰って来ないという行動をしたことはありましたか?」
香奈は首を大きく横に振った。
「一度だってありません。帰りが遅くなるとか、朝方帰ってきたことはありましたが、そういう時だって、必ず電話で遅くなると伝えてきてました。今回はそれもありません」
「8月10日は宗一さんは仕事でしたか?」
「はい、仕事でした」
「ちなみに、ご主人は何の仕事をされているのですか?」
「海外の飲料を国内に輸入する会社に勤めています」
失踪者の妻はやっと聞き取れるくらいの声で答えた。
「会社で何かトラブルがあったようなことは話していませんでしたか?」
「特に何も言ってませんでした。それにあの人は平和主義者で、もめ事などは嫌いですから」
そう言って、香奈はテーブルの端に置いてあった携帯電話を手にすると、それを開きボタン操作をして、携帯画面を2人の前に差し出した。そこには夫と思われる男性の写真が写っていた。男性は平均よりも幾分、肉付きがよく、年相応といった顔をしていた。
「念のため、会社の方は後で調べてみましょう。では、宗一さんは8月10日は仕事に行って、普通に帰ってきたのですね」
「いえ、仕事が終わってから、いつものライブに行ったみたいでした。これからライブだから、ちょっと遅くなるとメールをくれました」
香奈は携帯電話をもう一度手にして、夫が送ってきたメールを見せた。そのメールには、文章の末尾に笑顔マークの絵文字が添付されていて、送信者のその時の楽しそうな感情が伝わってきた。
「そのライブというのは、ひょっとすると、JKD30というアイドルグループじゃないですか?」
氷室はそうだろうという確信口調で聞いた。香奈は、ここにも夫と同類の人間がいたという表情で、
「そうです、夫はアイドルオタクで、最近はそのJKD30というグループに、すっかり夢中で、部屋の中はそのグループのグッズでいっぱいにしてます。あまりにもグッズにお小遣いを使うので、私がきつく言ったら、夫は機嫌を悪くしたようで、部屋のドアを閉め切りにして、誰も入らせないようにしてしまったんです。部屋に入りたがるペットの犬や猫も全く入れなくしてしまいました。そのおかげで、犬がドアを引っ掻いて傷だらけになってしまいました」
氷室は、同じアイドル好きとして、失踪者の心理はよく分かるという意味の笑顔を作った。
「そうしますと、ご主人はJKD30のライブに行ったきり、帰って来ないのですね。電話やメールなどはどうですか、やはりそれ以降ないですか?」
「ないですね」
と香奈は悲しげな表情で、自分の携帯電話を見つめながら答えた。
「ご主人は、部屋にこもって何をしていたんでしょう?」
滝元が聞いた。
「他のファンの方と同じようなことです。フィギュアを眺めたり、音楽を聴いたり。JKD30が新曲のレコード版を出したと言って、夫は最近レコード盤を買って聴いてたみたいです」
滝元はレコードというのに馴染みがなかったから、ただ、「そうですか」と答えた。失踪者の娘がリビングのドアの陰から、彼らの会話をこっそりと聞いているのが、滝元の位置から見て取れた。滝元が視線をそちらに向けると、娘は廊下に引っ込んだ。
「ちなみにご主人は、そのライブは別として、何か変わったことや悩んでいるような様子はありませんでしたか?」
「全然ありませんでした。もともと夫はあまりくよくよしないタイプなんです。もし、夫が自殺でもしたのではないかと考えているようでしたら、はっきりと、自殺はないと断言できます。つい先週も、家族で国内旅行に行く計画を立てたばかりなんです」
氷室は、なるほどと頷いた。それから、ゆっくりと立ち上がって、
「ちょっと、ご主人の部屋を見せて頂けますか」と言った。失踪者の妻も、立ち上がって、
「こちらです」と2人を廊下に案内した。香奈は、廊下を右側に進み、その突き当たりで止まった。
「自由に調べて頂いて結構です。私は向こうにいます」と言い残すと、後ろを付いてきていた娘を半ば強引に引っぱっていった。
「よし、調べるとしよう」
部屋に入った瞬間、2人は別世界に紛れ込んだ錯覚に陥った。ドアを開けると真っ先に目に飛び込んできたのは、JKD30のメンバーの等身大のフィギュアだった。それが左手の手のひらを部屋に向けて、2人を案内している。ドアの左壁には、ガラスケースが取り付けられていて、その中にも様々な恰好をしたフィギュアが所せましと陳列されている。窓側の棚には、CDやDVDがぎっしり収まっている。氷室が、ざっと見たところ、ジャンルはアニメソングやアイドルグループのものが多いが、その他にも、クラシックやジャズ、Jポップなどもあった。その横にはCDプレーヤーやレコード盤などのオーディオ機器があり、部屋の奥には机が置かれている。壁一面には、アイドル達のポスターで埋め尽くされている。
「これはすごい」
氷室は、等身大のフィギュアに体が触れないように注意しながら、歩いていく。
「これ全部、そのなんとかさーてぃーのものなのか?」滝元が部屋に入るのをためらいながら聞く。氷室は部屋中を舐めるように見ながら、
「JKDのものが多いけど、他のアイドルのものも、かなりあるね。おっ、これは限定100枚の超レアCDだ」
氷室はそのまま、部屋の住人の机の前までやってきた。机にはノート型のパソコンとA4サイズのノートが数冊、十数枚の写真、JKD30のCDが数枚と、それよりも大きなレコードが1枚あった。それらのCDは全て同じものだった。ノートをパラパラめくると、仕事関係のメモや覚え書きらしかった。写真は、家族と撮ったものや、1人で写っているもの、会社の同僚らしき人と映っているものがあり、どれも失踪者の表情は明るく、悩んでいるような様子は見られなかった。氷室はノートパソコンを開くと、電源を入れた。
「滝元君、すまないが、このパソコンのパスワードを聞いてきてくれないか」
「分かった」
滝元がパスワードを聞きにいっている間、氷室はもう一度、失踪者のノートを入念に調べていった。ノートには、失踪者の遺言書らしき記述は見当たらなかった。滝元が部屋に戻ってきた。手に持っていた紙切れを氷室に手渡した。パスワードを入力して、ドキュメントを開いた。そこにある文書を一つずつ開いていった。全て調べ終わると、
「遺書の類いはないようだ」と言ってパソコンを閉じた。氷室は椅子に座ったまま、机の脇にあるオーディオ機器が並んでいる台に体を向けた。CDプレーヤーの電源を入れて、机の上に重ねておいてあるJKD30のCDを手に取って、プレーヤーに挿入した。部屋中に女子高生の甲高い、お世辞にも上手いとは言えない声が響き渡った。どうやら、失踪者は、大音量で聴いていたようだ。氷室はボリュームを下げた。
「CDが聴きたいなら、家に帰ってから、いくらでも聴けるだろう」滝元が耳を塞ぐ仕草をしながら言った。氷室は、好きなアイドルの曲が聴けたからか、顔をにやにやしながら、
「これも捜査の一環なんだ」と独り言のようにつぶやくと、机に置いてあったJKD30の残りのCDもプレーヤーに入れて聴いていった。聴いている間、氷室はCDのジャケットや歌詞カードを調べていた。限定品のCDに至っては、ほとんどコレクターの眼差しだった。CDを全て聴き終えると、その横にあるレコード盤のスイッチを入れた。机から、失踪者が最近買ったレコードを手にとった。
「レコードなんてまだあるんだね」滝元は、レコードを生で見るのは、初めてだった。
「CDや音楽配信なんかのデジタルサウンドよりも、レコードの音が好きという人は少なからずいるからね。宗一って人も、レコードの良さに気付いたのかな」
氷室は慣れた手つきでレコードを盤に載せ、針をセットした。曲が流れだした。2人はレコードから流れる音楽に、しばらく耳を傾けていた。すると、廊下の方向から、失踪者の妻の声とドタバタと走り回るような音が聞こえてきた。その騒々しい音は、氷室達がいる部屋に近づいてきているようだった。それからドアを何かで引っ掻くような耳障りな音がして、ドアが開いた。開くと同時に、この家で飼われているチワワとプードルが勢いよく部屋の中に入ってきた。続いて、失踪者の妻も部屋に入ってきた。
「こら、待ちなさい」
小型犬の2匹は、飼い主の言うことには、お構いなしの様子で、椅子に座っている氷室の脇に来て、尻尾をふっている。氷室は、突然の来訪者に戸惑い、レコードのスイッチを切った。2匹の犬は、氷室の脇にいたかと思うと、今度は目にもとまらぬ速さで部屋から出ていった。失踪者の妻は、
「すいません」と言って、その後を追いかけていった。
「2匹とも、やんちゃ盛りのようだね」
滝元の言葉に、氷室は頷いてレコードを取り出した。その後も2人は部屋の中を調べたが、失踪に結びつくような手がかりは得られなかった。2人が部屋を出ると、2匹の犬は、何事もなかったかのように、リビングの床に長くなって昼寝をしていた。失踪者の妻はキッチンで夕飯の準備をしていた。
「これから外で調べてきます。宗一さんの写真を一枚お借りしたいのですが」
「ちょっと待ってて下さい」
失踪者の妻は収納ボックスから、アルバムを持ってきた。その中から、宗一と思われる男性が1人で写っている写真を氷室に手渡した。
「よろしくお願いします」
2
2人はマンションを出た。
「これからどうする?」
「JKDのライブに行こうと思うんだけど、その前に駅前にあるCDショップに寄ってみよう」
「これで今日の捜査は終わり?」滝元はまさかと思いながらも聞いてみた。
「もちろん捜査の一環としてさ」氷室は口笛を吹きながら駅に向かって歩いていく。間もなく、駅前の商店街にやってきた。昭和から続いている老舗の和菓子屋や、お茶屋もあれば、最近できたらしいインターネットカフェや100円ショップなどもある。氷室達が通りを歩いていると、小太りの中年男性が、通行人に何かチラシのようなものを配っていた。氷室が近づいていくと、中年男性が、
「JKD30のCDの割引き券だよ、どうぞ」
氷室が券を受け取ると、男は笑みを浮かべて、氷室をそのまま店の中に案内していった。店頭には、ワゴンが置かれていてCDのセール品が並べられている。氷室は店の中に入るなり、今週のベスト30コーナーに行き、JKD30のCDを手に取り、レジに持って行った。会計を済ませてから、
「ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
店員はキョトンとした表情をした。「何ですか?」
氷室は、失踪者の妻から借りてきた写真を店員に見せた。
「この人をご存じじゃないですか?」
店員は写真を顔の近くまで持っていくと、
「なあんだ、宗ちゃんじゃないか。彼がどうかしましたか?」
「ご存じなんですね」
氷室は、事の経緯を店員に話した。
「いきなり、いなくなっちゃうなんて信じられないね。つい、こないだも来て、楽しそうにライブの話をしていったのになぁ」
「宗一さんがここに来た時、何か変わったことや、気になったことはありませんでしたか?」
店員は頭を掻きながら、
「別に何も変わったなんてことなかったなぁ。ちょうど一週間前にやってきて、明日JKDのライブに行ってくるって嬉しそうに話してくれて。ただ…」
店員はそう言って、顔を曇らせた。
「ただね、その時、やたらと妙なことを聞いてきたんだよなぁ」
「何ですか?」
「俺も、一販売員に過ぎないから、詳しいことは知らないんだけど、CDの出す音の周波数ってどのくらいなのかって聞かれてね。うろ覚えで、だいたい20から上は2万ヘルツくらいだろうって答えたけど。俺がどうしてそんなことを知りたいんだって聞いたら、これからレコードを聴こうと思ってるって言ってね。レコードの方がCDよりも高い周波数帯を録音できるから、音がいいらしい。それで、ここでJKDのライブ音源を録音したレコードを早速買っていったよ」
店員は、JKDコーナーから1枚のレコードを持ってきた。氷室はそれを手に取り、ジャケットを調べた。タイトルは『夏の約束』。JKDのメンバーが海岸で水着姿になって、無邪気に、はしゃいでいる表紙だった。裏には曲名が順に記載されている。別段変わったところはなかった。発売日は8月1日となっている。一応レコードを出して調べてみたが、すぐに中に入れた。
「レコードプレーヤーもここで買っていったんですか?」
「プレーヤーはもう買ってあるって言ってたなぁ。たぶんネットかなんかで安く買ったみたいだよ」
「今はネットでなんでも買えますからね、でもどうしてCDやレコードはネットで買わなかったんでしょう?」
「ネットじゃぁ、握手券の特典がついてないからねえ。CDを買う奴の大半は、握手券目当てだからねえ」
氷室は、なるほどというように頷いた。
「レコードを聴こうと思っていると宗一さんは言っていたようですが、以前から、音にこだわりを持っていたようでしたか?」
店員はJKD30のレコードを大事そうに棚に戻した。
「全然そんな感じじゃなかったなあ。宗ちゃんは、アイドルに興味はあっても、音楽の話をしたことはないなあ」
氷室は店員の制服の左胸にある名札を見た。名札には大久保と書いてあった。
「大久保さんは、宗一さんが急にレコードに興味を持ったり、周波数について質問してきたりしたことに関して、何か考えがありますか?」
大久保は『うーん』と、うなってから、
「宗ちゃんが音楽に目覚めたとは思えないから、やっぱりコレクションの延長で集めてるだけなんじゃないかな」大久保は自信はないといった口調で言った。
そのほかに、2、3質問したが、失踪の解明につながるような事実は出てこなかった。氷室はまた、個人的に買い物に来ますと言って、店を出た。そのまま駅に向かって歩いていく。
「宗一って人が、レコードを聴くようになったのが、何かひっかかるのか?」
「今のところはなんとも言えないけどね。店員が言ってたように、ただの握手券目当てなのかもしれない。ただ、音にこだわるからといって、この時代にレコードに興味を持つというのが、ちょっとひっかかるかな」
「実際どうなの?レコードは音がいいものなの?
「人によって感じかたは様々のようだね。やっぱりCDなんかとは違うという人もいれば、変わらないという人もいるし、僕なんかはレコードのほうが好きだ。デジタルとどう違うのかと聞かれるとなかなか説明が難しいんだけど」
2人は駅前に着いた。
「今日の『捜査』はこれでおしまい?」滝元は腕時計に目をやった。17時15分前になるところだ。
「今日の『捜査』はここから始まるんだよ」
滝元は、氷室が冗談で言ったものだと思ったが、氷室の顔は真顔だった。
「まさか本気で言ってるんじゃないよね」
「この顔がふざけてるように見えるか?今から、JKD30のライブを観覧する」
氷室は、そう言うと券売機に向かい、切符を2つ買った。1枚を滝元に渡して、(無理やり握らせて)
「今からだと、『ファンタジー革命』にぎりぎり間に合うかな」
「ライブを観て、何か分かるの?」滝元は渡された切符を改札機に通しながら訊いた。
「それは僕にも分からない」そう言った氷室の表情はどこか嬉しそうだった。
2人は電車に乗り込んだ。
3
各駅電車で30分ほどで目的地の秋葉原に着いた。素人探偵コンビは電気街口から出た。秋葉原は今では、家電の街というイメージだけでなく、アニメやコスプレなどのサブカルチャーとしての顔も持つようになった。かつてとは隔世の感がある。2人が改札を出ると、すぐにメイド服姿の若い女性が近づいてきて、
「よかったら、寄ってみてくださーい」
と声をかけてきた。滝元はふつうなら、チラシ配りには見向きもしないのだが、なぜか自然と手が出て受け取ってしまった。氷室を見ると、すでにもう1人のメイドからチラシを受け取っていた。
「ここはけっこうよさそうだ。メイドカフェは当たり外れがあるからね。僕はいいところを何軒か知ってるから、今度行かないか?」
滝元はあまり気のりしなかったが、
「そのうちね」と答えた。
氷室はそのまま真っ直ぐに大通りまで歩いていった。横断歩道を渡ると、電気店とゲームセンターの間にある、狭い路地に進んでいった。そこは、駅前ほど人の往来はなかった。そこを20メートルほど歩いたところで、氷室は足を止めた。氷室が立ち止った左側には、5階建てのビルがあり、その3階付近に『JKD30劇場』と書かれた看板が存在感を放っている。
「ここだ」
すでにライブは始まっているのだろう、外にいてもアイドル達の歌声が、微かに漏れ聞こえてくる。2人はビルの中に入っていった。中に入ると、氷室はホールの一角にあるショップに直行した。そこでペンライトを2つ買うと、1つを滝元に手渡した。
『これは、やっぱり捜査じゃないな』滝元は心の中でつぶやいた。
氷室はホールの先に立っている係員にカードのようなものを見せた。係員はそれを確認すると、両開きのドアを開けた。その途端に室内のアイドルの可憐な歌声とファンの声援が押し寄せてきた。室内は滝元が想像していたよりも小さく、客も300人くらいしかいないようだ。舞台には、セーラー服姿のアイドルが、舞台上を目一杯使ってダンスをしているところだった。ダンスは、かなりアップテンポで、アイドル達の息づかいが、2人がいる最後尾まで届いてきそうなくらいだった。
「ファンタジー革命はもう終わっちゃったみたいだ」氷室はつぶやき声で滝元に耳打ちした。その後、7曲を熱唱してライブは終了した。終わっても、ファンの大部分は会場を立ち去らず、仲間どうしで、おしゃべりをしたり、ライブの余韻にひたったり、アイドルの名前を大声で呼んだりしている。
「それじゃ、聞き込みを始めようか」
氷室はそう言うと、会場の出口に向かい、出ていく客1人1人に、失踪者の写真を見せていった。失踪者を見たことがあると答えた者は3人いたが、彼らのいずれも顔を知っている程度で、個人的な付き合いはないと答えた。最後の1人が会場から立ち去って、会場は無人になった。2人も入口ホールに戻ってきた。
「成果はなしか」滝元はペンライトで手のひらを叩きながら言った。2人がまばらになったホールを出ようとすると、5人組の集団がビルの入り口から、室内に駆け込んでくるところだった。5人は、2人のいる劇場ドアの近くにやってきた。その中の1人がドアを開け劇場内を見渡すと、
「やっぱり間に合わなかった」と他の仲間に残念そうに伝えた。もう1人が、
「しようがない。あさってのライブを楽しみに待つとしよう」
5人は、すぐには帰ろうとせずに、グッズ売り場に行ったり、劇場内に入ったりしている。氷室はポケットから宗一の写真を取り出しながら、5人組に近づいていった。氷室が写真を見せると、髪がボサボサの、かん高い声をしている30代くらいの男が、
「宗一さんじゃないですか。彼がどうかしましたか?」
と、氷室と滝元を何者なんだという目つきで交互に見ながら言った。
「知り合いなんですね」
「僕らはJKD30のファンで、イベントなんかでは、いつも行動をともにしてます」
「そうですか」氷室と滝元は顔を見合わせた。
氷室は事情を簡潔に説明した。説明を聞くと、眼鏡をかけた、体重100キロオーバーと思われる太った男が、
「どうりで僕がメールを送っても返信がなかったわけだ」
「宗一さんは、6日前のライブが終わった後にいなくなったんですが、その時に、宗一さんに何か変わったことはありませんでしたか?例えば、悩んでいる様子とか、トラブルを抱えている様子とか」
5人は前回のライブの記憶をたどっていった。
「別にこれといってなかったと思うけど、そういえば、前々回のライブで、宗一さんは何の用事かしらないけど、途中で会場を出ていったんです。5分くらいで戻ってきたんですが、後でそのことを聞いてもなんでもないと言ってました。でも今までライブ中に会場を出るなんてしたことがなかったから、不審に思ったんです」色黒の小柄な男がそう言うと、ヘッドホンを首にぶら下げている男が、
「途中でライブを抜け出したってことで言うと、前回もライブが終わる15分くらい前に、急に思いついたように先に帰るって言って、会場を出ていったんだ」
「その時の宗一さんはどんな様子でした?」
「他のみんなは気づかなかったかもしれないけど、ここ1か月くらいのライブ中の宗一さんは、なんかちょっと変だったな。なんかライブに集中してないっていうか、周りを気にしていたっていうか。JKDのパフォーマンスよりも、客の方を気にしてる感じだった。それでちょっと前に、そのことで本人に聞いてみたんだ。客の中に好きな女でもいるのかって。そしたら彼は何も答えずに、ただ苦笑いしただけだった」
氷室の目が鋭くなった。
「周りを気にしてるようだったということですが、それはある一部分に限定されてましたか、それとも全体的でしたか?」
ヘッドホン男は、うーんと唸ってから、
「どっちもあったかな。会場の客席を端から端まで、チェックしてるようにも、思えたし、舞台のそでの方をじっと見てるようでもあったし」
「そでの方ですか。劇場内に何か、宗一さんが気になるようなことでもありましたか?」氷室は考え込むような表情でたずねた。
「全然そんなものはなかったよ」ヘッドホン男がそう言うと、スーツ姿のいかにも、やり手のサラリーマンといった感じの男が、
「皆は気がつかなかったかもしれないけど、劇場内に、JKDのメンバーのあいりんの飼っているプードルが歩き回ってたんだ。宗ちゃんはなんか、その犬を気にしてるように思えたんだけど、俺の気のせいかもしれない」
それを聞くと、氷室の目が眼光鋭くなった。手がかりを嗅ぎつける時の変化だ。
「そのメンバーの飼ってる犬は、劇場内のどこに歩いていったんでしょうか?」
「うーん、どこにって言われても、劇場内は満員で足元が隅々まで見通せるわけじゃないから、そこまではわからないけど、舞台の左そでのすき間から出てきて、5分くらいしたら、またそこに戻っていったのは見たよ」
「それは、その時が初めてでしたか?」
「俺が気づいたのはその一回だけだね」
「犬が何かひっかかるのか?」滝元が聞くと、
「まあね、後で話すよ。ところで、宗一さんの音楽の趣味についてですが、彼の奥さんの話では、宗一さんは最近、レコードを聴くようになったと言ってましたが、これに関して皆さんはどう思いますか?」
しばらく間があってから、体重100キロオーバーの男が、菓子パンを食べながら、
「宗ちゃんが音質にこだわるなんて考えられないな。前に宗ちゃん家に遊びにいった時も、部屋には、古いCDラジカセくらいしかなかったし、彼はどっちかっていうと、グッズを収集するのを楽しんでいたから」男は言い終えると、菓子パンをぺろりとたいらげ、リュックからおにぎりを取り出して食べ始めた。他の4人もそうだというように、うなずいた。その中でボサボサ髪が思い出したように、
「でも不思議なのは、JKDのレコードを集めるようになったっていっても、なんのこだわりなのか、ここで収録されたものだけ集めてたようだったよ。他の場所で収録されたものには興味がないようだった」と言って、わけが分からないというように髪をさらにかき乱した。
「曲はどうでしたか?同じものでしたか?」
「曲はいろいろだったよ」
「それで思い出したけど」スーツ姿の男がかん高い声で言った。
「ここで6月にあったライブの曲をレコードにしたものが、限定50枚販売されたんだ。即売り切れになって、宗ちゃんは買えなかったんだけど、数日後、それがネットオークションに出てたんだ。俺も欲しかったから買おうとしたんだけど、買えなかった。後で聞いたら、宗ちゃんが10万で落札したそうだよ」
「なにかプレミアが付いてたりしたんですか?」
「歌ってる娘が、いつもと違う娘だったっていうくらいかな」
「なるほど、いろいろ参考になりました。僕達は捜査を続けます。宗一さんに関して何か分かりましたら、知らせてもらえると助かります」
氷室はポケットからメモ帳を取り出して、携帯の番号を書き、30代の男に手渡した。
「帰ろうか、滝元君」2人は劇場から出ていった。
電車に乗り込んだ素人探偵は、しばらくそれぞれの考えに耽っていた。滝元は今日1日の出来事を振り返った。失踪者の家に行って、部屋を調べたこと、CDショップで店員から話を聞いたこと、そしてさっきまでいた秋葉原のJKDのライブと失踪者の仲間の話。うーん、はっきり言って、これだけじゃ宗一という人がどこにいったのか分からないな。妻にもオタク仲間にも何も話してないし、ライブはただ楽しかっただけだし。たぶん、氷室も今日の収穫はゼロって思ってるんだろうな。滝元は電車の窓に映る氷室の顔をちらと見た。その顔には満足そうな表情が浮かんでいた。
「今日1日の捜査で何か失踪の手がかりは見つかった?」滝元は、いくら氷室でも、あれだけでは無理だろうと思いながら訊いた。氷室は電車の窓に映る顔越しに滝元に微笑んだ。
「その訊き方のトーンからすると、たぶん何もつかんでないだろうと思ってるな。確かにまだ謎の核心にはほど遠いがね。それでも、いくつか興味深い事実は知ることができた。聞きたいか?」
滝元は窓に映る氷室の顔に向かって頷いた。
「まず、失踪者の最近の音楽に関しての『趣味』の変化だね。失踪者はアイドルオタクとして、JKDの関連グッズの収集をしていた。もちろんそれにはCDなどの音楽関係のものも含まれているが、レコードには興味を示さなかった。それが、突然、最近になって、音質にこだわってるかのようにレコードを集めだした。それもなんのこだわりなのか、秋葉原で収録された音源に限定されていた。僕はここに失踪の手がかりがあるとみてるんだ」
「それで失踪とレコードはどうつながるの?」
「それが今のところは見当もつかない」
電車が駅に停車すると、乗客がどっと車内に押し寄せてきた。
「JKDのライブではどうだった?かなり楽しんでいたようだったけど」滝元はペンライトを氷室の前で振ってみせた。
「失踪の解明に役立つかどうかはわからないけど、いろいろな発見はあったよ」
滝元の振るペンライトの動きが止まった。
「うそだろ。君はライブに熱中してたはずじゃ」
満員の乗客を乗せて電車は動き出した。
「もちろんライブは楽しませてもらったよ。それと同時に僕の意識は手がかりを求めて劇場内のあちこちに向けられていたんだ。気づいたことが12個あるんだけど、例えば、さっき失踪者のオタク仲間が話してくれたJKDのメンバーの犬のことだけど」
「ああ、確か、メンバーのプードルが劇場内を歩いていたっていう」
「たぶん同じプードルが今日も左そでから出てきて、劇場内を歩き回っていたんだ。僕達がいたところは最後列の一段高い場所にあったから気づいたんだ。そのプードルはやっぱり5分くらいでまた舞台裏に戻っていった。それから劇場内に俳優の塚本優樹とグラビアアイドルのユイカがお忍びデートで来てた。彼らは顔に大きなマスクをして、いかにもって感じの変装をしてたから逆に僕の注意を引いた」
「そうか」滝元はユイカのファンだったのでちょっとショックを受けた。
「まあ、そんなに落ち込むなって、君がユイカのファンなのは待ち受け画像で知ってるんだ」
「別に何とも思っちゃいないよ、続けてくれ」
「それから最後から3番目の曲はバラード調でソロで歌うところがあっただろう。歌っていたのは通称アミちゃんって娘なんだけど、今日は体調が悪いのか、口パクだったんだ。あとはライブ中ずっとサングラスをかけたままの客がいたのと、僕らの4つ前にいた髪の長い女性が、実は女装した男だったことと、まだあるけど、そろそろ駅に着く時間だから、続きはその時話すよ。あさっての午後4時にJKD劇場に集合だ」
電車が駅に到着した。氷室は軽い足取りでホームを歩いていった。滝元は、自分も劇場内で発見したことが1つあったが話さないで正解だと思った。『まさか、唯一発見したことが、前にいたおっさんがヅラだったことだけなんて言えないもんな』
4
滝元が秋葉原の電気街口改札を通ったのは午後3時20分だった。それからダッシュでJKD劇場に向かった。劇場に着いてみると、すでに氷室が、数人のJKDファンと楽しげに立ち話をしていた。氷室が話していた連中は、おとといのグループではなかった。
「僕的には今度の総選挙では相原ちゃんが1位を取るとみてるんだけど、個人的には、あいりんに頑張ってほしい気もするし、ネットなんかの予想だと、川上メイって声も挙がってるんだよな、おう滝元君」氷室は、滝元が来たことに気づくと、話していた連中にまた今度と言って、劇場内に入るようにと手招きをした。2人が劇場内に入ると、そこにもすでに30人ほどのファンが、ライブが始まるのを待っている。氷室は会場に入る両開きの扉を開けた。中はひっそりとしていて、掃除のおばさんが、ほうきで床掃除をしていた。
「まだ始まらないよ」
「分かってます、じゃまはしません」
氷室はそう言うと、会場内の左端に向かっていった。
「何か探してるのか?」
「特にこれといったあてがあるわけではないけど、何か見つかればと思ってね」
氷室はライブが始まる直前まで会場内のいたるところを調べていった。結局、収穫はなかった。会場はすでに客でいっぱいになっていた。
「ライブを楽しむとするか」
午後6時ぴったりに左右の袖からJKD30が現れた。と同時に会場は大きな歓声に包まれた。男性客が大半を占めるため、それは地鳴りのように響いた。ライブは軽快なダンスナンバーから始まった。決して広くない舞台で30人が均整のとれた動きで踊っている姿は圧巻だった。アップテンポの曲が数曲続いた後、恒例になっているらしい、トークタイムが始まった。滝元には正直、面白さが分からなかったが、氷室も含めて、ファンの連中は大爆笑の連続だった。その後、落ち着いたバラードナンバーが3曲続き、新曲が披露された。氷室はすっかりライブに夢中になっている。新曲が終わった後、メンバーの1人がJKDを卒業するという告白をした時に、氷室はその場から会場の左端の方向に、身をひそめるようにして歩いていった。滝元は、何か変わったことが起きていないか、会場内を見渡してみた。観客側には気になることはなかったが、舞台の左そでの狭いすき間に、2日前に氷室が話していたJKDのメンバーの飼っているプードルが客席側を向いているのが見えた。前回はよく見えなかったが、プードルはおしゃれな服を着せられている。氷室はそのプードルに視線を釘づけにしている。ファン達は、卒業すると発表したメンバーの1人に集中しているようで、舞台の隅にいる小さな生き物には気づいていない。
プードルは少しためらうような動きをした後に、急に何かに気づいたように、舞台から客席に降りる階段を下り始めた。滝元のいる位置からは、プードルの姿は見えなくなった。氷室は客席に来たプードルの動きを目で追っている。プードルはそのまま歩き続けて、氷室の横を通り過ぎて、会場最後列の方に向かった。氷室は体を傾けて視界に入るようにした。間近で見ると、耳をピンと立てていて可愛らしいと思った。プードルは最後列に来ると、その左端にいる40半ばくらいと思われる男の足元で動きを止めた。その男はつばの広い帽子を目深に被っているのと、サングラスをしているため、顔や表情がはっきりと見えず、さらに風邪でもひいているのか右手を丸めて、口元をおおっている。氷室はさらに後ろに5、6歩移動した。男は足元にいるプードルに気づいたらしく、サングラスごしに辺りをうかがってから、しゃがみ込み、プードルの体をなで始めた。プードルは嫌な素振りは見せずに、尻尾をふって喜んでいるように氷室には見えた。1分くらい男の近くにいた後、プードルはその場を離れ、また氷室の横を通り過ぎて、階段を上り舞台そでに消えていった。プードルが舞台そでに入っていった後に、最後列の男はライブ途中にもかかわらず、持っていた荷物を肩にかけて、出口扉の方に急ぎ足で向かっていった。男が扉から出ていくのを確認すると、氷室は他の客に怪しまれないようにそっと男のいた場所に移動した。何か発見できるという見込みはなかったが、床をよく観察してみると、何か白い粉状のものが落ちているのが見つかった。それはほんのわずかの量で、氷室はメモ帳を破り、屈んでその粉をすくい取った。その一部を指に付けて舐めてみた。氷室のこの行動は、迅速にさりげなく行われたため、隣にいた客にも氷室が何をしたのか分からなかった。すくい取った粉を小さい透明な袋に入れた。白い粉が、起爆剤になったかのように、氷室の脳は活発に働きだした。そして1つの答えを導き出した。その間はほんの数十秒に過ぎなかった。氷室は、彼の行動を気にしている滝元に大きく手を振って、手招きした。滝元が氷室のいる最後列にやって来ると、
「理由は後で話す。僕についてきてくれ」
そう言うと、氷室は急ぎ足で会場を抜け出し、グッズを販売している入口ホールにいた人に探るような視線を向けて、外に出た。
通りに出ると、氷室は辺りをうかがい、駅の方向に走り出した。大通りに出ると、また左右に視線を走らせて、何かを捜している。左を向いたときに、氷室は建物で身を隠した。顔を半分だけ出して何かをじっと見つめている。氷室が追っていたのは、最後列にいたサングラスの男だった。男は通りで信号待ちをしていたタクシーに乗ろうとしているところだった。男が乗り込むのを見届けると、氷室はその後ろを走ってきたタクシーを止めて、滝元に『急げ』と叫んで乗り込んだ。
「前を走っているタクシーを追ってください」
タクシーの運転手はルームミラーごしに怪訝そうな目つきで、氷室を見てから、車を発進させた。男が乗っているタクシーは靖国通りに入って、そのまま新宿方面に向かっていった。氷室はタクシーに乗ってから無言だったが、滝元が質問したそうに氷室の方に視線を向けると、黙ってバッグを開けて、手のひらサイズの黒いものを2つ取り出した。その1つを運転手に見えないように滝元に手渡した。それは拳銃だった。渡しながら、ささやき声で、
「もし、身の危険を感じるようなことになったら、使ってくれ」
滝元が何か言おうとすると、
「後で説明する」とだけ言うと、真剣な眼差しを前方のタクシーに向けた。
男の乗ったタクシーは四谷に入った。それから間もなく、ある雑居ビルの手前で止まった。男はドアが開いてから、辺りをうかがうように、ゆっくり降りた。周囲に人の気配がなくなるのを待ってから、ビルの階段を上っていった。男の姿が見えなくなるのを待ってから、2人はタクシーを降りた。
「僕の考えが正しければ、宗一さんはこのビルの中にいる可能性が高い」
「あの怪しげな男は何者なの?」
「宗一さんが見つかったら話すよ。問題はどうやって確認するかだ」
そう言いながら、氷室はビルの入り口に歩いていき、男に気づかれないように、注意しながら階段を登っていく。男は3階に登ってすぐのドアを開けて中に入っていった。
「向かいのビルの窓から、こっちの様子が見えないかな?」
「タクシーを降りた時、このビルを調べたけど、窓にはブラインドが下がってたからそれは無理だな」
2人が階段の踊り場で、どうやって中の様子を確認するか思案していると、下の方から階段を登ってくる足音が聞こえてきた。階段を登ってきたのは、ピザのデリバリーだった。その男は3階に来ると、さきほどのサングラスの男が入っていったドアの前で立ち止まり、バッグから伝票を取り出している。氷室は急いで、その配達人の近くに行き、
「もしかして、ここにピザを届けるんですか?」と聞くと、
「はい、そうですが」といきなり声をかけられて少し戸惑いぎみに答えた。
「実は…」氷室は事情を簡潔に話し、中の様子を確認するために自分にピザを届けさせてほしいと頼んだ。配達人はどうしようか悩んでいたが、氷室が財布から、あるだけの金を出して渡すと、
「ちょっと待ってて下さい」と言って、制服を脱いで氷室に渡した。制服を着ると、
「じゃあ行ってくる」と言って、インターフォンを押した。低い男の声がインターフォンごしに、
「どうぞ」と答えた。氷室は部屋に入っていった。
3分そこそこで氷室は部屋から出てきた。階段を下りながら、制服を脱ぎ、配達人に返した。外に出て、周囲に誰もいないのを確かめてから、
「やっぱり僕の考えは当たっていたようだ。宗一さんはあそこにいた」
「本当か」
氷室がピザ屋の恰好で部屋に入ると、中に4人の男がいた。その中にサングラスの男の姿もあった。入ってすぐの部屋には、失踪者の姿が見当たらなかったので、氷室はトイレを借りたいといって、奥にあるもう一つの部屋をこっそりと覗いてみた。そこに失踪者が、手足を縛られた状態で監禁されているのを発見した。
「どうやって助ける?ここは警察にまかせた方がいいんじゃないか」
「もちろん、そうしようと思う」
2人がビルの入り口で話していると、今度は階段を下りてくる複数の足音が聞こえてきた。ビルから出てきたのは、氷室が部屋の中で見た4人の男のうちの2人と失踪者だった。3人はビルの前に止められている軽トラックに乗ろうとしている。失踪者の手足は自由にされていたが、前と後ろに2人の男達が、はさみこむ形で歩いている。3人がトラックに乗り込むのを見はからって、氷室は幌が付いている荷台に飛び乗った。滝元も続けて乗った。滝元が乗ると、すぐにトラックは発進した。荷台にいる2人にはトラックがどこを走っているか分からなかったが、およそ7分ほどで停止した。2人が荷台で身を潜めていると、ドアの開く音がして、3人は車を降りたようだ。氷室が幌のすき間から、こっそり外を覗くと、3人は老朽化したビルの中に入っていくところだった。後ろの男がビルに入るのを確認すると、氷室は荷台から降りて、ビルの入り口に向かった。3人は階段を上って二階にやってきた。そこはだだっ広い空間で、人のいる気配はなく、すでに使われていないようだ。2人の男は、失踪者を部屋の隅の壁に立たせた。
「あんたも運が悪かったな、俺もやりたくてやるわけじゃねえからな。ボスの命令には従わなきゃならねえ。おい、お前はそこを見張ってろ」
もう1人の男は言われた通り、部屋の出入り口に立った。失踪者の近くにいる男がポケットからロープ状のものを取り出した。それを失踪者の首に巻きつけようとしている。失踪者は殺されようとしているのだ。それを見ると、氷室の体は無意識に部屋の中に飛び込んでいった。
「ちょっと待て」
突然の侵入者に2人の男は、ちょっとの間、その場を動けずにいた。
「なんだ、てめえは」入口にいた男が上着の内ポケットに手を入れ、サバイバルナイフを取り出した。
「宗一さんを解放しろ」
「こいつの仲間か?ちょうどいい、2人まとめて始末してやる」もう1人の男もナイフのようなものを手にした。氷室はすかさずバッグから拳銃を出した。それを見ると男達はたじろいだ。
「ぶっそうなもん持ってるじゃねえか、こいつは返してやるよ」ロープを持っていた男は、もう1人の男に合図して、部屋から走って出ていった。ビルの正面に来ると、2人は立ち止った。そこに拳銃を手にした滝元がいた。2人はトラックとは反対の方向に走っていこうとした。滝元は足元を狙って拳銃の引き金を引いた。拳銃から銃弾が飛び出す、はずだったが、代わりに飛び出したのはBB弾だった。
「うそー」
「おどかしやがって、おもちゃじゃねえか」2人の男は引き返してきた。
(やばい展開だな)
氷室が外に出てきた。隣には失踪者の姿もある。男達は二手に分かれて走ってくる。
「滝元君こっちだ」氷室はビルの横の路地に向かって走っていく。滝元も後に続いた。
路地はおよそ50メートルで高い壁が立ちふさがり、行き止まりになった。
「やつらがやって来る」
男達は行き止まりに気づくと、走るのをやめ、ゆっくりと歩いてくる。
「銃を撃ちまくれ!」
『銃』から放たれたBB弾は2人の男達に次々と命中したが、ひるむ様子もなく、男達は氷室達との距離を縮めていく。
「そろそろ観念しな」
男達がナイフを構えて氷室に襲いかかろうとした。その瞬間、
「やめろー」と言う大声がした。それに続いて数台のサイレンの音が近づいてきた。声の主は滝元警部だった。警部は本物の拳銃を構えて向かってくる。
「ちっ、これが狙いだったのか」
この後の展開は実にあっけないものだった。滝元警部の後ろから、何人もの警察官が駆けつけて、男達に近づいた。男達は抵抗しようともせずに素直に警察の指示に従い、連行されていった。サイレンの音が消えると、滝元父子と氷室と失踪者だけが残った。
「間一髪でしたね。氷室君の携帯のGPSのおかげです」
「本当はビルの中で捕まえてもらおうと思ってたんですがね、まあ結果オーライってことで」
「全然、オーライじゃない、こっちは危うく殺されるところだった。まさか銃からBB弾が出てくるなんてひどい」
「まあ、説明不足だったってことは謝るよ。でも僕が本物の拳銃なんて持ってるはずないだろ」
数分の言い争いがあった後、失踪者が、
「とにかくありがとうございました。それにしても私が監禁されていたことをどのようにして知ったんですか?」
「私もぜひ聞きたいですね」滝元警部も興味深々の様子で言った。
「いつもの喫茶店に行きましょうか、そこでお話しします」
5
監禁されていた失踪者は、衰弱が激しかったため、滝元警部の判断で、病院に入院させることになった。喫茶店のいつもの席には、氷室と滝元父子だけが座っている。サンドイッチで軽い腹ごしらえをした後に、氷室が口を開いた。
「順を追って話していきましょう。僕らが宗一さんの家に行って妻の香奈さんから、宗一さんは失踪する少し前に、家族で旅行に行く計画を立てていたことを聞きました。また会社でもオタク仲間との間にもトラブルを抱えていた様子がなかったこと、宗一さんの性格、さらに彼の私物に遺書らしきものがなかったことから、僕は、宗一さんは自殺したのではないと考えました。何か事件に巻き込まれたに違いない。彼の所在がはっきりしなくなったのは、ライブに行くと香奈さんにメールをして以降でした。だからJKDのライブに何かある可能性が高いと判断し、調べることにしました」
氷室は一息ついて、アイスティーを飲んだ。それからメニュー表を見て、店員を呼び、トロピカルパフェなるものをオーダーした。
「その結果、いくつかの発見がありましたが、その中で、特にJKDのメンバーの飼っているプードルが会場内を歩きまわっていたこと、それを前々回のライブで宗一さんが気にしていたこと、またそれまでのライブで、宗一さんがライブの途中で会場を抜け出すのが何回かあったこと、会場内にサングラスの怪しげな男がいたことが気にかかりました。でも一昨日の段階では、宗一さんの身に何が起きたのか見当もついていませんでした。それが今日のライブで、サングラスの男が立っていた床に、微量の白い粉が落ちていたのを見つけたことで、事件の全容がはっきりしてきました」
氷室はすくい取った粉が入っている小さな袋をバッグから取り出した。
「これは麻薬ですね警部」
滝元警部は袋を受け取り、中を開けた。
「たぶん、そうでしょう」
氷室は満足そうな表情を浮かべた。
「この白い粉は、サングラスの男がいた場所近くに落ちてました。それでは、いつからあったのか。答えはすぐに分かりました。僕達がライブ会場に少し早く着いて、場内を調べていると、スタッフが入念に床掃除をしていました。ですから白い粉はその後に落ちたことになります。つまりライブが始まってからです。誰が落としたのか?その男だろう。その男には、プードルが近づいていった。そして男はプードルの腹をなでるような仕草をした。プードルは可愛い服を着ていた」
氷室がここまで話すと、聞いていた父子も気づいたようだ。
「もしかしたら、そのサングラスの男は、犬を使って麻薬を運ばせていたのか?」
「そう考えて間違いないだろう。僕の立っていた位置からでは、男がプードルの服に触っているくらいしか見えなかったが、おそらく袋に入っている麻薬を服の中に入れていたんだろう。今思い返せば、舞台そでに戻っていく時のプードルの服は、何か一回り膨らんでたように思う」
滝元警部の部下に監禁の疑いで逮捕された2人の男は、黙秘を貫いていた。警部は男達のアジトを捜索すれば、麻薬密売の証拠が出てくると、にらんだ。警部は携帯電話を手にして、部下に男達がいたビルに家宅捜索するよう命じた。
「そうしますと、そのプードルの服に入れられた麻薬は、飼い主が依頼したものというわけですか?」
氷室は警部の質問に、悲しい表情で答えた。
「残念ですが、そうです」
滝元は宗一の仲間が言っていたことを思い出した。プードルはJKDの通称『あいりん』というメンバーが飼っている犬だったな。あいりんっていうと、いつも右端から2番目にいる娘で、フリートークではボケ担当で客を大いに笑わせてたな。あんな娘が麻薬に手を染めるものだろうか。滝元は、ふと疑問が湧いた。
「それにしても、そのプードルはどうやってあの大勢の客から、サングラスの男を見つけられるんだろう?」
「それが、この事件での一番の謎だった。あのプードルは何をたよりに男のいる場所に歩いていったのか?ところで突然だけど、人間の五感を言ってみてくれないか」
「ゴカン?」
氷室はパフェを頬張りながら、
「人間がものを認識する機能だよ」
「ああ、五感か。ええと、見る、聞く、においを嗅ぐ、触る、舌で味わう」滝元は自信なさげに答えた。
「そうだね。学問的な用語で言うと、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。これは人間だけでなく、生き物全てに言えることで、もちろん犬にも当てはまる。そうすると、あのプードルもこれらの五感の中のどれかにたよって、男のいる場所まで行ったわけだ」
「そうだろうね」滝元は、氷室の食いっぷりを眺めながら言った。
「では、どれにたよったのか。味覚と触覚はすぐに除外できるのは分かるだろう。すると残るのは視覚と聴覚と嗅覚だ。プードルは舞台そでから出てきて、5段くらいの階段を下りてきた。舞台は確かに見晴らしはいいが、犬には客席を見渡すことはできないだろう。階段を下りてからはさらに客の足しか見えないから、視覚ではないとみていいだろう。嗅覚はどうか。犬の嗅覚は人間よりもはるかに優れてはいるが、僕が移動して、プードルの動きを目で追っていた時、においをたよりに歩いているようには見えなかった。犬がにおいをたよりに歩いていると、すぐに分かるものね。だから嗅覚でもない。となると聴覚、言い換えると音をたよりに歩いていたんだ」
「音っていうと、JKDの曲に反応したんですか?」警部は気づかないうちに灰になった煙草を灰皿に入れた。
「僕も一昨日のライブ直後にはそう思いました。何か彼女達の曲に秘密があるのかもしれないと。宗一さんも、ライブに度々現れるプードルと怪しい男に気づいていました。またそのプードルが何らかの音に反応しているらしいことにも気づいていた。それが彼の最近のCD大量購入や今まで聴いたこともないレコードを聴くようになった行動に現れていたんです。彼は男がプードルを使って麻薬を運ばせているのをつきとめた。それでライブの途中で出ていった男の後を追っていったんでしょう。それが男達に捕まり監禁されてしまったというわけです」
「JKDの曲に反応したんじゃないの?」
氷室はパフェをたいらげ、またメニュー表を取ろうとしたが、2人の冷たい視線を感じたので、水の入ったコップを取った。
「一昨日のライブで、プードルが舞台そでから出てきた時には『片思い』っていうバラード調の曲だった。それが今日出てきた時には、メンバーの1人が卒業を発表していた最中だった。それを聞いて会場は一瞬しーんと静まり返った後、どよめきが起きた。その間もプードルは音をたよりに歩いていた。だから曲に反応ていたのではないと思う」
「やっぱり音じゃなかったんじゃない?」
「僕が今説明したように、五感のうち、音に反応したのは間違いない。耳をピンと立てて歩いていたしね。しかし会場がしーんと無音になった時にも歩いていた。となると、その音は僕達が聞こえない音だったに違いないんだ」
「聞こえない音?」滝元父子は声をそろえて言った。
「そう、人間には聞こえないが、犬には聞こえる音です。何かピンときませんか?」
滝元父子は、しばらく考えていた。やがて警部が、
「もしかして、犬笛ですか」と大声で言ったので、周りの客が迷惑そうな目で3人を見てきた。
「たぶん、そうでしょう。実際に男が犬笛を吹いている姿は見ていませんが、男はプードルが会場内を歩いている間、終始、口を手で覆っていました。それは犬笛を吹いているのを他人に見られないようにするためでしょう。彼らの所持品を調べれば、どこかにあるでしょう」
「犬笛か。よく宗一って人は、それに気がついたな」
「偶然に気づいたんじゃないかな。彼もプードルが何かの音に反応しているのは気づいていた。それで君のように、JKDの曲に秘密があると考えて、秋葉原で収録されたCDを片っ端から聴いていった。でも何もつかめなかった。それで、ついでにレコードを聴いてみた。するとなぜか飼っているペットの犬が部屋に勢いよく飛び込んでくる。レコードを聴き終えると、犬はまた何事もなかったように部屋を出ていく。レコードについて調べると、レコードはCDよりも高い周波数帯の音を記録できることが分かった。CDは人間の可聴領域の上限までしか記録できないから、レコードは人間には聞こえない音も録音していることを知った。それでレコードには人間には聞こえないが、犬には聞こえる犬笛が記録されているかもしれないと思い至って、会場で犬笛が使われていると考えたのだろう。僕の推理はこんなところです」
氷室の話が終わると同時に、警部は上着を腕にかけて、立ち上がった。
「これから確かめに行ってきます。氷室さん、甘いものの食べ過ぎは体によくないですよ」
宗一が警部に話した内容は、氷室の推理した通りだった。またライブ会場にいたサングラスの男のハンドバッグから犬笛が入っているのが見つかった。逮捕直後は黙秘していたが、氷室の話を聞かせると観念したらしく、その通りだと認めた。男達がいたビルは、もぬけの殻だったが、彼らの仲間が忘れていったのか、いくつかのノートが見つかった。そこには何人かの著名な芸能人の名前が載っていて、おそらく麻薬を密売している顧客ノートと思われた。警部は意外な副産物を手にして喜んだ。と同時に芸能界という華やかな世界の連中が、こんなものの手を借りなければならない熾烈な競争にさらされていることに何とも言えないものを感じた。それはあのアイドルも同じか。警部はプードルの飼い主について、どうするか悩んでいた。そして一服した後、つぶやいた。
「ライブを観てから決めるか」
最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました