第十話
「やめて。色葉は殺さない約束でしょ」
一瞬の間に、氷波は静かな声で一触即発だった場を制した。夜闇を裂く吹雪の中、長躯の老人を睨みつける彼女の目には、冷たさの中にもどこか懇願するような色が混ざっていた。だが、その視線を受けてもなお、赤松は眉一つ動かすことはなく、彼の実孫の喉元に突きつけた刀に力を込める。刃の食い込んだ薄い皮膚から、赤い雫が一筋の線となって垂れた。
「良いのか? ここでこやつを仕留めなければ、必ずや我々の脅威となろうぞ」
「私が説得してみせるから。お願い、話をさせて」
「ならば鍵はどうする。強い想いの籠もった甚大な魔力がなければ、塔への門は開かぬが」
「問題ない。これがある」
そして氷波は、小柄な子供の身体を自身の前に転がした。
それは、屋敷へとつながる道すがらに身を隠していたはずの夕だった。意識はないようだが、胸が微かに上下しているのが辛うじて見える。
「じゃが、藤神の血に匹敵するものかどうか」
「問題ないと言っているの。私が、私のこの眼が視たんだから」
そう言い切った氷波に、赤松は僅かばかり目を瞠り、嘆息しつつ刀を納めた。
「……まあ、今宵は新月。天に坐します二柱の加護が無い今ならば、多少の無理もきくじゃろう。わしは最後の準備に入る。終わるまでに説得できねば、お前もろとも見捨てるからな」
そして赤松とみすじは、それぞれ蛍と夕の傍に座し、何やら準備とやらを始めた。
俺はというと、状況の急変に理解が追いつかず、愛刀を握る手を重力に任せてただぶら下げながら、眼前の少女を見つめていただけだった。喉を伝う血が、とても冷たく感じられた。
対峙する二人の間に、重い沈黙が流れる。
先に口を開いたのは氷波だった。
「ごめん、なさい。その……私、色葉に隠してたことが……今まで言わなかったこと、言えなかったことが、たくさん、たくさんある」
そこには、赤松に相対していた時の気迫など一切感じられない、まるで茶碗を割ってしまった幼子のように小さくなっている一人の少女がいた。
その小さな姿を視界の真ん中に捉えながら、緊張に固まってしまった喉の奥から、絞り出すように声を出す。
「氷波、一つだけ確認させて。そこには、氷波自身の意思で立っているのか? 脅されたり、無理強いされたりしてる訳じゃないんだな?」
努めてゆっくりと言葉を紡ぐ。すると彼女は、躊躇いがちに小さく首を縦に動かした。
そうか。ならいい。氷波の意思で、俺と対する立場にいるのなら。
重い腕を上げ、再び刀を眼前に構える。
「お願い、私の話を聞いて」
ひどく悲しそうな顔が見える。大切な友が見せるその表情に、確かに胸が痛んだ。しかし、失われてしまった妹との日々を取り戻すという絶対的な自分の願いのためには、俺はもう後には引けないのだ。
視線が交差する。
「分かるよ。私も、私自身の願いのために、前に進むしかないから」
じっと俺を見つめる氷波の漆黒の眼は、まるで心の内を見透かしているようだった。
その瞬間、氷波は目尻を下げて口元を綻ばせた。
「そう、私には視えてるの。色葉の心が」
「なん、だって……?」
心が視える。それはまるで。
「色葉の、過去を視る眼と同じだね」
「同じ……俺と、氷波が……」
そんなはずはない。なぜなら氷波は、魔導師なんかではなく、只の人間なのだから。俺のこの眼は、相手の眼を通して、その人物が最も色濃く記憶している過去を覗き見る、ひとりでに動作する魔法のようなものだ。只人にそんな芸当ができるはずがない。こんな、呪いのような定めがあっていいはずが。
だがどうだ。氷波が姿を表すと同時に、雨は雪に変わり、足元の水溜まりは凍りついた。そして何より、氷波の小さな肢体から、気圧されるほど強大な魔力が発せられている。これらの状況全てが、彼女が魔導師であるということを明確に示しているではないか。
「ねえ色葉。もし私たちが、ずっとずっと大昔に、兄妹、それも双子だったって言ったら、信じる?」
唐突な氷波の言葉に、黙したまま首を左右に振る。
「そうだよね、信じられないよね。私も最初は信じられなかった。でも、私は見せてもらったの。この目で確かに見たの。国も身分も、何もかも無かった大昔に、私と色葉が一緒に暮らしてるのを、他の誰よりも近しい二つの命として存在しているのを、見た。そして、その絆が最も酷たらしい形で引き裂かれるのを、この目で、確かに」
悔しさ。悲しみ。恐れ。憎しみ。そのどれともつかない、そしてそれら全てを内包する感情が、彼女の震える声から伝わってくる。
「誰が、そんなこと」
「あの人だよ。色葉のお爺様」
「いつ、そんなことを吹き込まれたんだ」
「あえて言うなら、最初から、かな。私達が四年前に再会した時には、もう」
にわかには信じられなかった。その話自体もそうだが、そんな前からそんな荒唐無稽なことを聞かされて、それでいて俺にはその一切を隠し通していた、その事実が信じられない。
「でも、いくつか証拠はあるんじゃないかな。隠し事をしていたことなら、私が魔導師だってこと知らなかったでしょ? それに何より、色葉は私の過去が視えない。縁の近しい者の過去は、本能の部分が視る事を拒んでいる。違う? つまり、私と色葉は──」
「だったら! 俺は水望の過去も視えない! それはどう説明するんだ!」
声を荒らげた途端、氷波の笑みがひどく悲しげなものに変わった。まるで、責め立てられていることを、受け入れるかのように。
違う、そうじゃない。俺は、彼女を責めようなんかこれっぽっちも思っていない。ただ、彼女の話す内容が、ひどく重たく、胸の奥にのしかかるような感じがして、整理がつけられずにいるだけだ。
「私はね、色葉。この無意味な繰り返しを止めたいの。私達の生命は私達だけのもの。それは確かなのに、同時にあの原初の生命が私達を通して廻っているのも事実。出会ったところで、その邂逅はあの二人のものではないのに、お互いの絆を求めて、何度も何度も、徒に運命を廻っている。こんな悲しい輪廻は、終わらせなければいけない。これが私の願い。そして今、その願いに続く道の上に、あなたが立ち塞がっている」
分からない、氷波が、何を言っているのか。
「うん。ごめん、本当にごめんなさい。私もうまく説明できない。でもね、あなたにその道を譲ってほしいと思っている、ということだけは、伝わっているんじゃないかな」
「それは、その訳の分からない先人の魂を慰めるために、俺に妹を、白花を諦めろと、そう言っているのか」
刀を握る手に、思わず力がこもる。
その時、不意に、氷波の視線が俺の後ろへと向けられた。
「色葉……!」
それと時を同じくして背後から聞こえた苦しげな声に、思わず振り返った。
「水望!? もう動けるのか!?」
道風に肩を支えられながら丘を登ってきた水望に、自分も手を貸そうと駆け寄る。水望はふらりとよろめきながらも、道風の手を離しすくっと俺の目を見つめてきた。
「平気。それよりも」
水望の視線が、俺の肩越しを射抜く。その真っ直ぐな目に頷きを返し、氷波に向き直る。
雪の冷たさが、より一層痛々しくなったように感じた。
「色葉は、前世の縁で繋がった私よりも、今を生きるその子を、今を生きるはずだったあの子を選ぶんだ……ううん、確かにそれが正しいのかもしれない。私達は、今に生きてるんだもんね」
「氷波、何を言って……!」
「いいの。でも、これだけは信じて。その昔、分たれてはいけない運命の双子が、永遠の別離を経験してしまったということを。そして、その兄妹の生命は、今もまだ大いなる血脈の中を廻っているということを」
氷波は、俺の目をじっと見つめながら、空気中の水分を凍りつかせて鋭く光る二本の氷の刀を作り上げた。
「最後にもう一度だけ。願いを諦めるという選択肢は、あなたの中にある?」
「その道に俺が立ち塞がっているということは、俺の方がその先に近いということだな」
「……ごめんね、私も譲れないの」
そう言って空中に浮遊する白銀の双刀を手に取り、深く息を吐いて表情を氷のように冷たくした。
その時。
「時間だ」
奥にいた老人が呟いたのが聞こえた。
刹那、白く眩い何かが視界を塗り潰した。咄嗟に腕をかざして目を瞑る。次の瞬間、手負いの獣のような少女の絶叫が耳朶を貫いた。人のものとは思えないほど激烈な咆哮と魔力が、そこにいる生物全ての身体を硬直させ、世界の時間を止める。やがて焼けた視界が元に戻り、ようやく状況を理解した。
全身から、血の気の引く音がした。
桜の大木に縛り付けられるようにして固定された人影がある。その身体の中心に、深々と赤松の刀が突き刺さっていた。その人影は、つい先ほどまで共にいた、蛍だった。
老人が胸を貫いている刀を抜いた途端、そこから吹き出した大量の鮮血が、暗闇の中にもぼんやりと浮かび上がるその白い肌を流れ落ち、桜の根に吸い込まれていく。あれだけの出血、すぐに息絶えてもおかしくないはずなのに、蛍は依然として喉から血が出るほどの絶叫を上げている。左胸に浮かぶ小さな魔法陣が、無理矢理彼女に生命力を注ぎ込んでいるようだ。
どうして、こんな。
その凄惨な光景に目を覆ってしまいそうになった、そのとき。
「…………ほた、る……?」
小さな、しかしはっきりとした声が、耳に届いた。
氷波の足元で気を失っていた夕が、いつの間にか上体を起こして蛍を凝視している。幼さを残した目をいっぱいに開き、驚愕に肩を震わせていた。
「蛍……! 蛍!」
そう何度も少女の名を呼び、立ち上がることもままならないまま、泥の上を這うように桜の木へとにじり寄る。
「蛍!」
夕は、もう一度その名を叫んだ。叫びと共に泥に塗れた手を少女の方へ伸ばす。するとその瞬間、我を失ってただ咆哮を上げていただけの蛍が、はたとその手に気付き、苦しげに呻きながらも右腕をその方向へと微かに持ち上げた。だらりと垂れ下がった指先が、僅かに少年の手を捉える。爪が触れ合ったその時、夕は渾身の力を振り絞り、その手を掴んだ。
「散れっ!」
その言葉と共に、夕の魔力が蛍の身体を縛り付けていた縄を霧散させた。支えを失った少女の身体が崩れ落ちる。抱き止めようにも、もはや力が入らないのか勢いそのまま二人は地面に倒れ込んだ。
そんな彼らの元に駆け寄り、すぐさま治癒魔法の詠唱に入ろうとしたが、夕の手がそれを阻んだ。
「やめろ。お前の貴重な魔力を、こんなことに費やすな」
「だが! このままでは蛍が!」
手遅れになる。それはあまりに明白だ。今すぐにでも手を打たなければ、この少女は。
しかし夕の目を見た途端、その言葉を声に乗せることができなくなった。彼の、諦めと、哀しみと、怒りと、そして何よりも強い決意が籠もったその目に、胸が押し潰され、喉奥が重い蓋で塞がれる。
蛍の命が尽きてしまうことなど、彼は百も承知なのだ。
押し黙った俺から視線を外した夕は、蛍の手を取りその顔を覗き込んだ。微かな喘鳴のみを繰り返していた蛍も、そのひどく優しげな顔を認め、いくらか苦痛の様相を和らげた。
「ま、た……会え、た…………夕……」
ほとんど声とは呼べないほど微かな音が、蛍の口から漏れる。
「ああ。迎えにきたよ、蛍」
「もう、かえれる……? つらい、こと……ない?」
「君の魂は、空の高い場所へと還る。もうこんな苦しみに満ちた地上に縫い付けられる必要はない」
「ふふっ……そう、やって、難しい、ことば……みんなに、嫌われる、よ」
「こんな僕を好きになるような人間なんて、そもそも尋常じゃないから構わないよ。そんなおかしな奴、例えこの世に存在したとしても、一人いるかどうか」
自嘲気味の夕の言葉に、蛍の赤い瞳が、眩しげに細められた。
「じゃあ……その、唯一に……出会えて…………らっきぃ、だね」
「こら。その言葉は覚えちゃ駄目だって言っただろ」
「ぼく、夕のことば、忘れない……忘れたく、ない……夕の、教えてくれた、こと……夕の、声……夕の、顔……ぜんぶ、ここに、残る…………ぼくが消えても、ここ、に……」
呼吸がほとんど止まり、もはや喘鳴すら聞こえなくなった。
「ね……さい、ご、に…………」
目を閉じ、口を僅かに開けた蛍の意図に、夕はすぐさま気づいた。
「ああ。これで終わらせてやる。今までよく頑張ったな。あとは僕に任せて、もう、休め」
揺れる瞳を固く瞑った瞼で隠し、夕は無理やり口を笑顔の形に広げる。
そして、二人は唇を重ねた。
平衡を無視した魔力の流れが、蛍から夕へと注がれる。途端に、白い光が蛍の身体から漏れ出した。
生命活動に必要な最低限の魔力さえも、蛍は夕に託したのだ。魔力を完全に失ったことにより、生体組織の乖離が手足の末端から始まる。その光の粒子は、身体の呪縛から解き放たれ、ゆらゆらと空へ向かって飛んでいく。
それはまるで、蛍火のようであった。
魔力の流れが止まると同時に、唇を離した夕は蛍の耳元で何かを囁いた。それを聞いた蛍は、僅かに目を瞠り、今にも泣きそうな笑みを浮かべた。
ありがとう。
そう少女の口が動き、やがて彼女の身体は完全に消えた。
魔導師の最期とは、本当に呆気ないものだ。
この景色を、また見ることになるなんて。
己の無力さに唇を噛み締めていると、隣の夕がふらりと立ち上がった。
「次は、次こそは。人間らしく、愛されて、生きろ。僕はそう、願っている」
そう空を見上げて呟いた彼の顔は、ちょうど陰になって見えなかった。その頬を伝った光る雫は、きっと降りしきる雪が解けたものだろう。
「心配するな。次は、僕が必ずお前を助けると誓おう」
夕は、誰にともなく、言葉を続ける。
「……はっ、次なんてね。僕にはそんなもの、もうないのに」
何かを掴むように、空へと手を伸ばす。
「でも、願うだけなら許してよ。ねぇ、神様」
その指先に、消えたはずの白い粒子が触れたように見えた。
次の瞬間、彼の身体は、音も無く間合いに入った赤松の刀に貫かれた。