第一話
澄み渡る青空。孤独に浮かぶ薄雲。吹き抜ける冷たい風が、肌を刺しては後方へと消えていく。新たな年を迎え、ようやくいくらか暖かくなってきたとはいえ、太陽も顔を出したばかりのこの時下では、春の陽気など今手にしている菊菜の種ほども感じられない。
男はひとしきり種を蒔き終えると、大きく息を吐いて麻袋を道端へと放り投げた。自らもその隣に腰を下ろす。こうも寒いと手が悴んで仕方ない。だが、陽も昇ればじきに過ごしやすくなるだろう。
その証拠に、遠くに見えるあの桜の木も、数週間もしないうちに春の色に彩られるそうだ。領主の屋敷に近いこの畑からは、丘の上に根を張る桜が良く見えるのだ。
男が春の訪れに思いを馳せていたその時、いまだ蕾の開かない桜の木の下で、小柄な人影がその顔を枝に向けていた。同じく桜を注視している姿を見て口元を綻ばせた男だったが、その正体を認めて、表情が引き締まるのを感じた。大きな刀を背負っているところを見ると、つい今しがた戦場から戻ってきたばかりなのかもしれない。幼い身ながら苦労も積もる。
この三年間内政に力を注いでいた藤神家において、唯一となった戦に身を投じる将。規模こそ大きくはないものの、各地の小競り合いを圧倒的に制するその様は、まさに武神の権化であると専らの噂であると同時に、近隣の諸大名を今もなお牽制し続けている。藤神家の誇る強さは、一兵卒に至るまでの鍛錬はもちろん、彼自身の才にあると言っても過言ではない。戦に出たことのない自分でさえそう聞き及んでる。
風が吹いた。ふと意識を視界に戻すと、いつの間にかその少年がこちらを見ていた。互いの顔など到底判別もできないこの距離で、男は確かに彼の視線を感じた。その視線に真っ直ぐに射抜かれている。慌てて頭を下げると、興味を失ったのか、彼は何も反応を示さないまま丘の向こう側へと下りていった。
敵意も何もない、それこそ視線が合っただけの邂逅。相手は武士でこちらは農民だが、善政を布く藤神の子であるから、あえて睨みつけられたわけではないだろう。だがそれでも感じた薄ら寒いものに、男は束の間呼吸を忘れた。
数十年と生きてきた自分が、齢も十そこそこの少年に畏怖の念を覚えるとは、それはそれは勇猛果敢で、精悍な顔立ちをしたお方であるのだろう、と男は思った。
「ただ今戻りました、赤松様」
そう一声かけて祖父の自室に入る。
「おお、ようやっと帰ってきたか。戦果は使いの者からすでに聞いておる、ご苦労じゃったな」
何か書き物をしていた祖父は、俺の姿を認めた途端その手を止めて、いかにも好々爺然とした様相で俺を見つめた。どうしていいか分からずに視線を泳がせていると、ごほんと咳払いを一つした祖父が名を呼んで手招きしていた。
「何ですか――わっ」
膝をついたまま祖父のもとへ寄ると、皺だらけの手の平が伸びてきて、髪をぐしゃぐしゃとかき回し始めた。頭を撫でる、というには少々荒っぽいその行為に、しかし俺はされるがままになっていた。
「おかえり、色葉」
「……ただいま、おじい様」
どこまでも優しいその声音に、俺は少し気恥ずかしくなって小さく答えた。
「湯浴みの準備ができておるから、体を洗って休むといいぞ。帰りが今という事は夜通し戦っておったのじゃろう? 疲れも溜まっておろうて」
何なら一緒に入るか、と笑う祖父に、結構ですと頭に置かれた手を押し返す。どうせ風呂に入るならと、祖父の攻撃で乱れた髪はそのままに髪留めを外す。肩にかかっている髪は、首の後ろで括らないとさすがに邪魔になるのだ。どうしても邪魔なら切ってしまえばよいのだろうが、俺自身あまり髪を切るのが得意ではないので、気づけばこうして髪留めの世話になっている。ちなみに髪の毛の量は多くない方なので、道風ほど苦労はしていない。
「そうしておると、お前さんもおなごのようじゃのう。ふぉっふぉ、頑是ない頑是ない」
「明日になればそれはそれは精悍な顔立ちの勇将になってますから、期待しててください」
不機嫌そうに口をへの字に曲げた色葉を見て、赤松は目尻の皺を深くした。
さて、祖父の言う通りさすがに疲れているし、体も汗やら土やらで汚れている。言葉通りひとまず湯浴みをしよう。そう思って立ち上がり、部屋を後にしようとした。
「ところで色葉や」
頭を下げて戸を閉めかけた瞬間、呼び止められた。
「あの桜はもうじき咲きそうか?」
その言葉を聞いた途端、胸の奥がじわりと熱くなった。
「……蕾はだいぶ膨らんできています。ご自身で確認されては」
それまでは祖父に対する孫の語調だったものが、その問いで険の含まれたものに変わった。一瞬だけ視線がかち合ったが、たまらなくなって俺は戸を閉めた。そのまま浴場へと足を向ける。
一人であの桜を見るのも、今年で四回目になるのか。
感慨とも寂寥ともつかないその感情に、俺は首に下げた瑪瑙を服の上から握り込んだ。胸の辺りで揺れるそれは、昔も今も唯一の心の支えになっている。唯一の、だ。
あの日聞いた感謝の言葉が、呪詛のように耳朶に響く。とうに消えたはずの残響ですら、この身をいつまでも蝕んで、この生を簡単に全うさせてくれない。辛くはない。苦しくもない。ただ、それがたった一つの心の拠り所になってしまっただけの話だ。それが正しいのかと問われれば、俺はまだその答えを知らなかった。
そうこうしているうちに、俺はいつの間にか浴場へと辿り着いていた。
昨年改築したばかりのここは、脱衣所とそこそこ広めの露天風呂を兼ね備えており、檜の良い香りに包まれている。湯は近くの川から引いている水を魔法で沸かしているだけなので、泉質による疲労回復などは望めそうにもないが、そればかりは気分の問題だ。温かい湯に浸かれば心も温まる気がして、寒い時期だった事も関係しているだろうが、戦から帰ってきたら必ず湯浴みをするようにしている。俺は案外こういうものが好きなのかもしれない。
準備中と書かれた木札を裏返して入浴中という文字を表にする。脱衣所に入り、汚れた衣を籠の中へ放り込む。色の濃い衣なのであまり目立ってはいないが、それでも赤黒い染みはべったりとこびりついているので、これでは洗濯するのも一苦労だろう。素肌に触れる冷たい空気に身を震わせ、俺は浴場へと通じる戸を押し開けた。
やはり俺は疲れていたのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。でなければ――
「えっ……?」
でなければ、先客の存在に気付けなかったはずがない。
立ち込める湯気が早朝の空気と混ざり合って視界を白く染めている。四方を檜の木板で囲まれているので、湯気以外に見えるのは仄かに白み始めた空だけだ。
しかし、俺は確かに艶やかな黒髪を見た。長くしなやかな黒髪。散々な言われようの俺の髪とは到底比べ物にならない、正真正銘女性の髪の毛。
全身から血の気が引いた。
「わあああっ!! ご、ごめんなさい! えっ、でも、準備中って! 入浴中じゃ、えっ!」
自分でも何を喚いているのか分からなかったが、それでもある程度正常な思考は働いていくれたようで、ほとんど無意識のうちに周囲の湯気を相手との間に集めて視界を奪った。よくよく考えればこれはとても危険な行為で、高圧下で一気に凝縮された湯気は瞬く間に熱を持ち、ともすれば火花を散らしてもおかしくはなかった。だが、この状況こそが何よりも危険だった。
ここは一度浴場を出るべきかと逡巡していると、相手が驚きを声音に含みつつ俺の名を呼んだ。
「色葉? 私は大丈夫だから、落ち着いて」
「いや、俺が大丈夫じゃな……って、その声は」
聞き慣れた声に、いくらか落ち着きを取り戻す。
「ごめんなさい、多分札をかけ忘れてた。でも、そこに私の服が置いてあったでしょ?」
「あー……ちょっと考え事してて、見てないや」
失態に空を仰ぐ。
「ううん、私が悪いから、すぐに出る」
「いやいや俺が……へっくし!」
「冷えるでしょ?」
盛大にくしゃみをしてしまった手前、何も言い返せない。正直寒い。早く湯に浸かりたい。
「…………絶対にそこを動かないでよ、氷波」
自分の欲に忠実になる事にした。
相手の存在を意識しさえすれば、おおよそどの辺りにいるのかは分かる。極力彼女から離れた場所で湯につま先を浸し、温度に慣れさせてから静かに全身を沈めていく。もちろん氷波に背を向けて。今までこんなにも疲れの取れない入浴があっただろうか。
その時、氷波の小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。
「ふふっ、やっぱり色葉は色葉のままだね。お互い、今更じゃない?」
「笑わないでよ……それもそうだけどさ、そう簡単に慣れるものじゃない、と思う。ほんと、道風が羨ましいよ」
ちらと後ろを顧みると、湯気の中に黒髪がぼんやり浮き上がっている。簪か何かで留めているのだろう、射干玉の髪が後頭部で丸められている。項に垂れる数本の髪が、彼女の作り物のように白い肌をより一層際立たせていた。湯に浸かっているせいか、その首筋は僅かに桜色をしている。柔らかな質感が、触れてもないのに伝わってくるようだ。
「昨日も東の戦線に出てたんだよね。今帰ってきたの?」
「うん。この頃近江で勢力の均衡が崩れかかってるみたいで、それの対処」
慌てて視線を前に戻し、答えてから顔に湯を打ち付ける。さざ波の向こうでは、十四になった今でも性別の判然としない顔が揺れていた。体格の方も、筋肉はある程度ついてきたが、背丈が思ったほど伸びておらず、二つ上の陸との差が開く一方だ。
「はぁー……」
「どうしたの、溜め息なんか吐いて」
「せめて身長だけでも伸びてくれないかなあ。でも、肉が付かないことには伸びないって聞くし、まずは食事からかな」
とりわけ小食な訳ではなく、むしろ他人より多めに食べてはいるのだが、一向に体格に反映される気がしない。別の何かに栄養を奪われているとしか思えなかった。
「それじゃあ、私が何か作ってあげようか? かまどもまだ空いてるだろうし、それに、私もおなか空いちゃった。そうだね、そうしよう!」
そう屈託なく笑った氷波は、俺の返答を待たずに立ち上がった。俺は慌てて眼を瞑る。ぺたぺたと遠ざかっていく足音は、すでに献立を考え始めているのか、軽やかに食材の名前を口ずさんでいた。
「期待してるねー」
そう言葉を投げて俺はようやく息を吐いた。肩の力を抜くと同時に、立ち込めていた湯気が瞬く間に離散する。風が流れ、無駄に火照った体を優しく撫でていく。
氷波は奔放だ。普段はともかく、こと俺と一緒にいる時は、どうしてか今のように自由に振る舞ってくれる。振り回される事もしばしばだが、それもまた可愛いところだ。
その時。
「ふっふ~ん。朝からお熱いねぇ、お二人さん」
頭上から声が降ってきた。視線を跳ね上げるとそこには、木板の縁に腰掛けている道風がいた。
「いつからそこに……っていうか、どうやってそんな高いところに? 落ちたら危な――」
「わあああぁぁ!!」
遅かったか。盛大に飛沫が上がり、彼の悲鳴がその中に吸い込まれていく。しばらくして浮き上がってきた道風は、肺に湯でも入ったらしく激しく咳き込んでいたが、笑いをこらえるのに必死なのか、俯いて肩を震わせていた。
「いやあ、ちょっと言えない任務が」
「出てこい道風ー! そこにいるのは分かっているんだぞ!」
木板の向こう側から怒気を孕んだ声が聞こえた。さては早朝鍛錬を逃げ出した誰かさんを探しているのだろう。
「任務、ねえ」
「あはは……」
頬を掻いた道風は、濡れて重くなった衣を引きずって湯から上がった。
「いろは~、服乾かしてよ~」
「嫌だ」
「けち」
「魔法はそんなことに使うものじゃないよ」
そう諭してやると、道風は駄々をこねる子供のように頬を膨らませた。その時。
「見つけたぞぉ!」
ちょうど道風がいた木板の上から、鬼の形相を顔面に張り付けた陸が姿を現した。どうして二人ともあそこから顔を出すのだろう。何かあるのなら早急に手を打たねば。陸の目が獲物の姿を捕らえた瞬間鋭く光る。
「今度という今度は逃がさん! おい待て、逃げるな!」
一目散に浴場の外に避難した道風を追い、陸は木板の上から飛び降りたかと思うと、眼前の岩に器用に着地した。
「あっ、色葉様おはようございます! 御前を失敬!」
ようやく俺の姿に気付いたのかそう一礼し、すぐさま立ち上がって道風の残した水跡を追った。挨拶を返す暇も無い。慌ただしい二人分の足音がみるみる遠ざかっていく。
今日は本当に騒がしい朝だ。深い息を何度か繰り返し、俺は静かに瞼を下ろした。
『魔法はそんなことに使うものじゃない』
先の自分の言葉が脳裏に蘇る。
では、魔法とは、いったい何に使うべきなのだろう。この身を削ってまで、いったい何に。守るべきものなど、とうになくなったというのに。
湯の湧く音だけが、この耳朶を包み込んでいた。
白米の炊ける芳しい香りが立つ厨房。あらかたの準備を終えた氷波は、ごうごうと炎の盛るかまどの前で出来上がりを今か今かと待っていた。思いもしなかった事態に混乱しつつ、気恥ずかしさを隠すために言い出したことだったが、実際やってみるとこれがなかなか楽しい。好評ならまたやってみようと密かに思う氷波であった。
間もなく出来上がりかと蓋に手を伸ばしたその時、厨房に誰かが入ってきたのが分かった。まさか色葉かと振り返った氷波は、その正体を認めて、期待との差に僅かに目を伏せた。
「おはよう、今日は早いね、水望」
「あれ……敦基じゃない? あ、おはよう氷波ちゃん」
歳のわりと近い文官の名を出した彼女は、眠そうな眼を擦って辺りを見回した。前々から文官としての責務以上の働きをしてくれている彼も、残念ながら今はここにはいない。
「この時間に良い匂いがしたから、てっきり敦基かなって思って」
「何か用事でもあるの?」
そう氷波が問いかけると、ほんの数瞬の沈黙の後、水望は首を左右に振った。
「うーん、やっぱりいいや。ごめんね、邪魔しちゃって」
「そっか。あ、それと……色葉、帰ってきてるから。多分まだ浴場にいるだろうけど」
厨房を後にしようとした水望に、声を忍ばせて言う。歯切れが悪くなってしまったのは仕方ない。
すると水望は、やはり想像どおりの反応を返した。
ただ黙したまま、儚い笑顔を彼女は浮かべたのだ。ともすれば痛ましい、静かな静かな笑顔を。
熱い炎の音ですら、この耳朶には届かなった。
これが、藤神家の一員を失ったあの時から、三年の時が過ぎた子供達の日常であった。




