第十二話
黒とも白ともつかない灰色。その不確定的な色彩は不安を呼び、周囲に恐怖を抱かせる。
人々はそれを、鬼と呼ぶのだ。
――もうすぐ会えるね、僕。
耳にではなく、頭の中に直接響くその声に、色葉は背中に氷塊を入れられたかのような錯覚に襲われた。すかさず刀の柄に手を当て、漆黒の闇が降る周囲を見回す。
しんと静まり返った村内。人の気配どころか、虫や動物の気配さえ感じられない。そんな鬱とした村内には、冬の冴え冴えとした空気が重苦しく充満していた。
かさりと自らの足が枯草を踏む。心の臓がうるさく鼓動を刻む。
静寂と緊張が極限まで高まったその瞬間、空気が動くのを感じて体を反転抜刀した。刹那に響く金属音と闇夜に煌めく銀の輝き。明かりなどないはずなのに、その輝きはやけにはっきりと視界に映った。
「僕を止めるなんて、さすがだねっ」
その時、先ほどとは別の声が聞こえてきた。同じように嬉々とした声音だが、どこか闇を含んだあの声とは違い、まさに純粋無垢な子供然とした声だ。そして、目深にかぶった頭蓋を覆う布。
この子供の名は。
「夕……っ!」
「憶えててくれたんだ、嬉しい!」
「忘れる訳が、ないだろっ!」
声を荒げつつ夕の刀を弾き飛ばす。幸い相手の力はそれほど強くなく、腕の力だけで仰け反らせる事に成功した。すかさず後ろに跳んで距離を取る。そして、利いてきた夜目で小柄な夕を注視した。
夕が持っている刀は、ともすれば短剣とも思えるような長さで、色葉の刀の半分程度しかないようにも見える。間合いを短くする事で、手数の多さと素早さを底上げしたのだろう。その刀を真横に寝かせる構え方は、攻撃よりも守備に徹した構えだ。
素早い剣戟と守備的な構え。それは、色葉が最も苦手とする相手だった。
「君たちは、このまま伊勢に行くみたいだね」
おもむろに口を開いた夕を、隠された眼を見透かすようにして睨みつける。だがそんな色葉の睥睨をものともせず夕は言葉を続けた。
「これでようやく、君は真実へと辿り着けるんだ」
「真実……?」
「そう、君が欲している真実。君が失ってしまった真実。そして、そんな君が何よりも忌避している真実だよ」
何の真実なのかは、聞かずとも理解する事ができた。
「……どうりであんな回想をしたわけか」
「何か言ったかい?」
「お前には関係ない。それより、お前はなんでそんな事を知っているんだ。俺に……俺達に何を隠してるんだ」
その瞬間、それまで完璧だった夕の構えが僅かにぶれた。口元に覗く笑みがほんの少し翳りを見せる。
「僕が知ってる理由? 簡単だよ。僕は一度間違えたんだ」
だから、と言葉を続ける。
「君には、今度こそ乗り越えてもらわないと。……あの人のためにも」
「あの人のため?」
呟くようにして発せられた夕の声を、色葉は半ば無意識に反芻した。
「あっはは! ごめんごめん喋り過ぎたよ。今日はこんな事を言いに来たんじゃなかった」
夕は構えを解き、口の中で何やら呪文を唱えて――
「待ってるよ、君と一緒に」
「っ……!?」
突然背後から囁かれ、色葉は振り向きざまに刀を一閃した。が、手応えは無い。すでに夜陰に紛れてしまったのだろう、夕の姿はどこにも見つける事ができなかった。相変わらず逃げ足が速い。
長い息を吐きながら、色葉は刀を鞘に収める。額を伝う冷や汗を拭い、苛立ちに顔を歪めた。
(俺と一緒に俺を待つ? 欲していながら忌避する真実? いったいどういう意味なんだ)
あの子供の発した意味深な言葉は、伊勢に行けば全て分かるようになるのだろうか。
「……伊勢にはいったい何が……」
その時、視界の端を小さな白いものが掠めた。夜闇にぼんやりと浮かび上がるそれらは、ゆらゆらと音もなく降り続く。昼はまだ雨だったのに。そんなにも冷え込んできたのかと単の襟を手繰り寄せる。こんなに冷え込んでいたのなら、何か袿でも羽織ってくればよかった。
(早くおじい様のところに行って貸してもらおう)
さすがに少し、いやかなり寒い。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
色葉は再び祖父を探しに、先程までより歩調を速めて、しんしんと降る雪の中を歩き始めた。
大きな日本刀を背負った少年を見送る子供は、僅かに覗く口元に無邪気な笑みを乗せた。
「……これは、僕の最初で最後のチャンスなんだからね……頼むよ、鬼の子」
「ねえ夕。ちゃんす、って何?」
「機会っていう意味だよ。あと急に声を掛けないで、びっくりしちゃうから」
あばら家の壁に背中を預けた夕は、顔を隠すようにして目元の布を引き下げた。そして両腕を組み、視線を地面に向ける。
「ああ、ごめん。夕の事だからてっきり気づいてると思ってた」
「無茶言わないでよ。ただでさえ君は存在が希薄なんだからさ、眼には視えても目には見えない。声が聞こえてるのも僕とあの鬼の子ぐらいのものだよ、きっとね」
何もない空間に向かって話しかける夕の姿は、さぞかし滑稽に見えるだろう。しかし『彼』は確かにそこに存在するのだから、何も不自然な事ではない。闇に紛れてはいるが、漆黒の闇とはまた違う、半端な存在。言うなれば、黒と白の狭間にいる灰色だろうか。
「うーん。やっぱり身体がないと不便だなぁ」
「その言葉だけ聞くと、つくづく気味が悪いよ。事実だから仕方ないけど」
腕を解き、よっと勢いをつけて夕は壁から背を離した。
「さぁて、僕らもみすじと合流しなきゃ。行くよ――」
続く名前を呼ぶ声は、風と共に冷たい雪の中に消えていった。
「っ、くしゅん!」
盛大なくしゃみが橙色に染まった部屋に響いた。
「ほれ、言わんこっちゃない。もしや風邪でもひいたのではあるまいな」
「うぅ……大丈夫、だとは思います……誰かに噂でもされてるのかな」
色葉はぱちぱちと火の爆ぜる囲炉裏に手をかざし、冷え切った体を無理矢理に温める。肩に掛けられた袿が熱を保ってくれるおかげで、先程までの寒さが嘘のように感じられた。ただ、思い出したように震える身体だけが、それが本当であった事を教えてくれている。
「まったく。わしが見つけておらんかったら、どうなっていた事か……」
案の定、気配を察してくれた祖父が自分を見つけ、この家屋へと招き入れてくれた。いくら魔力切れの直後で思考がまとまっていなかったとはいえ、単一枚で寒空の下を歩いていた自分を見て、祖父はいつもの朗らかな笑みを鬼の形相に変えたものだ。
色葉は乾いた苦笑いを浮かべて、ごめんなさい、と頭を下げる。しかめ面のままの赤松は、仕方がないとでも言いたげに、一つ深い溜め息を吐いた。
「で、用向きはなんじゃ?」
手にした扇を広げ、反対の手の平をぱんと叩く。その瞬間、色葉は一切の表情を消し、囲炉裏にかざしていた手を握り込んだ。両膝の上にそれらを乗せ、祖父の眼を見上げるようにして見つめる。
意を決して、色葉は口を開いた。
「真実を……五年前の真実を、教えてください」
刀を構えた夕の姿が脳裏に蘇る。
求めていながらも忌避している真実。矛盾したその言葉は、恐ろしいほど正鵠を得ているように思えた。失われた記憶を取り戻したいと感情が言い、取り戻して何になると理性が返す。少しでも情報が欲しいと理性が言い、そんな情報は要らないと感情が返す。
要は怖いのだ。無知でいるほうが楽で、安心できて、傷つかずに済む。ただそれだけの理由で、真実から目を逸らし続けている。恐怖から逃げ続けている。
だがそれもこれで終わりだ。
「あの日の事か」
静かな問いかけに色葉は頷く。赤松は扇を閉じ、瞑目した。
お互いが無言のまま、囲炉裏の炎だけが焚き木を呑み込んで音を立てる。揺らめく橙色の光が、二人の影をぼんやりと壁に映し出す。壁の向こう側では、今も冷たい雪が降っているのだろう。そういえば隙間風が無い。ここはそれだけしっかりした構造の建物のようだ。
そんな事をうつらうつらと考えながら、色葉は赤松と目を合わせ続けた。
長い沈黙を破ったのは、赤松の方だった。
「……それは、お前さん自身で、確かめるべきではないのか?」
「確かめる、とは」
「失われた記憶は、すなわち元々存在していたもの。お前さんが記憶を取り戻す事で、その真実は確かめられるじゃろう。それに……」
そこで言葉を切り、赤松は逡巡する素振りを見せる。刹那、首を振ってふと表情を和らげた。
「とにかく今は伊勢に赴こうではないか。お前さんが知りたい事も、かの地で全て分かるやもしれん。そう焦るな」
「……納得はできませんが、承知しました」
こうなってしまえば、祖父が口を割ってくれない事は、すでに何度も経験済みだ。祖父の言葉どおり、伊勢の地で全てが分かる事を期待して、今は待つしかないだろう。
「では、俺はそろそろ寝ます」
「うむ。気を付けて帰るんじゃぞ。ああ、袿はくれてやるから、くれぐれも体を冷やさんようにな」
この時、色葉は祖父の言動に微かな違和感を覚えた。いつもなら「もう夜も遅い。ここで寝ていけ」とでも言ってくれそうなものだが。
(まだ何か用事でもあるのかな)
そう思う事にして、色葉は袿を羽織ったまま立ち上がった。祖父に向かって一礼すると、それまで鳴りを潜めていた眠気に突如として襲われた。欠伸を噛み殺しながら戸を開く。外へ出る直前に微笑んでくれた祖父には、しっかりと微笑み返せただろうか。それすらも覚束ないまま、色葉はもと来た道を戻り始めた。
「……これで良かったのか?」
戸が閉まり、外気を完全に遮断したと同時に、赤松は背後へと声を投げた。
「ああ。よくやったな、上出来だ」
「わしは何もしとらんがな」
返ってきた女性の低い声に、赤松は表情を変えないまま応える。だがそれに対する返事はないまま、女の小さな笑い声だけが聞こえてきた。
「もうすぐあの光が消える。その時こそ、我らの悲願が果たされるのだ」
「そう、じゃな……これでようやく」
赤松は拳を握り締めた。
魔導師の解放が、成る。
「んぅ……」
頬を撫でるそよ風に、色葉の意識は闇の中から覚醒した。うっすらと目を開けると、朝の穏やかな光が、開け放たれた戸から差し込んでいるのが分かった。布団代わりにしていた袿を床に置き、単の胸元を閉めながらきらきらと輝いている外へと向かう。
「うっ、眩し」
外に一歩足を踏み出した瞬間、眼を射るような光が色葉の視界を奪った。反射的に手をかざし、しばらくその明るさに目を慣れさせる。
たっぷり五呼吸分ほど待っただろうか。手はかざしたまま再びゆっくりと瞼を開く。
その瞬間、自らの口から自然と溜め息のようなものが漏れた。
目の前にある路も、田畑も、民家も、山も、その全てが真っ白な雪化粧を身に纏っていた。まさに一面の銀世界。さきほどの光は、この純白の雪が朝陽を反射させたものだったのだ。
一歩前に踏み出すと、柔らかな雪に草履が沈み込んだ。相当の積雪があるのだろう。これはまずいと、入口の棚に掛けられていた足袋――この雪に耐えられるかは分からない――を拝借し、素足を覆った。たったそれだけで寒さが幾分か凌げる。
改めて外の世界に視線を向け、その美しさに息を呑んだ。
色葉が住まう山城は、確かに雪が降る事は降るが、これほどまでに美しく降り積もるだろうか。そう思わせるほど、ここでの雪は素晴らしく見えた。
音という音が全て深雪に吸い込まれ、耳が痛くなるほどの、しかし心地よい沈黙が降り注ぐ。自分の呼吸する音と、ゆったりとした鼓動だけが全てだ。
色葉達が寝ていた小屋は、どうやらこの村で最も高いところにあるらしく、山に向かう路には一つも建物が見受けられなかった。やはり高所から眺める景色は良い。
「いろはー!」
その時、背後から声がした。名前を呼ばれた方向を振り返る。しかし、そこには今しがたまで寝ていた小屋があるだけで、誰もいない。
「上だよ、上!」
「上……?」
言われたとおりに視線を上に向ける。すると、色葉と同じ足袋を履いた足が見えた。そして輝くような笑顔が視界に入る。
「おはよう、色葉」
「ああ、おはよう。……って、危ないよ氷波っ」
にこやかな笑みを浮かべている氷波に微笑み返しかけたが、その状況を理解して声を上げた。
なんと氷波は屋根に腰かけていたのだ。
「大丈夫、落ちやしないって。それにもし落ちても雪だし」
「それはそうだけどさ……」
頬を掻き、口をへの字に曲げながらも、色葉は壁に立て掛けられていた梯子を登った。
「白花ちゃんは?」
屋根に手をかけるとほぼ同時に氷波が尋ねてくる。
「まだ中で寝てるよ。よいしょっと」
「色葉、おじさんくさい」
「うるさいな」
無意識なのだから仕方がない。色葉は黒曜石のように黒い瞳をうっそりと細め、言葉とは裏腹に表情を和らげた。傾斜に雪が積もった屋根の上を注意深く移動し、氷波のすぐ隣へと腰を落ち着ける。
屋根の上からの景色は、また違った姿を色葉に見せてくれた。まさに絶景だ。
「ここは空気が澄んでて気持ちいいね、寒いけど」
「そりゃあ、色葉のその恰好じゃ寒いでしょ、私も寒いけど」
「あ、そうだ」
すると色葉は、何かを思いついたように手を叩き、口の中で小さく何かを唱えた。
「これで少しはましかな」
ちらと氷波を窺うと、不思議そうな顔で両手に視線を落としている。
「あったかい……これ、魔法?」
「うん。これぐらいなら魔力消費も少ないし、今の俺でも無理せずできるんだ」
そう言って、色葉は微笑を浮かべた。
身体と大気の間に作った薄い空気の層で、外気を妨げ体温は逃さない。いわば自然の衣だ。火に直接当たるような温かさではなく、まるで春の陽気のような、じんわりとした温かさ。そんな温もりが、二人の体を包み込む。
「でも」
氷波が口を開いた刹那、色葉の左手に何かが重ねられた。
「私は、こっちの温もりのほうが好きだな」
「それはまあ、人肌なら春の陽気と違って冬でも温まれるしね」
「……分かってないなぁ、色葉は」
小首を傾げる色葉に、何でもないと首を振る氷波。彼女は久しぶりに色葉の髪がさらりと流れるところを見た気がした。相変わらず整ってはいないが、きれいな髪だと氷波は思う。
その時。
「おにーちゃーん? どこー?」
下方から白花の声が聞こえてきた。今ようやく目を覚ましたのだろう。寝ぼけ眼を擦りながら色葉を探している姿を、ありありと脳裏に思い浮かべる事ができる。
「そろそろ出立の時間だ、行くよ」
「待って」
氷波の手が色葉の衣の裾を捕まえる。危うくつんのめって落ちそうになったが、何とか雪と一緒に屋根の縁を掴み、すんでのところで落下を免れた。
「何。どうし、た……」
一瞬非難するような目を向けた色葉だが、すぐに息を呑んでその目を瞠った。
氷波は泣いていた。
黒い瞳を潤ませ、赤い鼻をすすっている。一筋の透明な筋が朝陽を受けて白く光る。色葉の衣を握るその手は、小刻みに震えていた。
「…………ごめん、なんでもない」
「なんでもない顔してない。言いたい事があるなら言って」
俯き加減の氷波の顔を、色葉は下から見上げるようにして見た。すぐに視線を逸らされるが、それでも色葉は目を見つめ続ける。
すると。
「ふふっ」
「えっ?」
突如漏れた笑い声に、色葉は驚きの声を上げた。
「ほんと、なんでこんな時に限って色葉ってば恰好よく見えるんだろうね。いつもはただ可愛いいや今度こそなんでもない」
「ひ、氷波っ? なな何をっ! そんな事はないっ」
氷波の声は囁くほどの大きさしかなかったが、顔を近づけていた事と鋭敏な聴力のせいで、色葉の耳にははっきりと聞こえてしまった。まるで火が付いたかのように顔を真っ赤にする。その姿を見て、氷波はひとしきり笑った。
「ほーら、もう行くんでしょ。私もすぐ行くから先に支度してて」
「わ、分かった」
そう言って色葉は梯子を下りていく。しばらくして、建物の中から兄妹の話し声が聞こえてきた。お兄ちゃん顔赤いよ。しもやけだ。なら私が治す! 本当に仲睦まじい事この上ない。
「……それにしても、感情がよく表に出てくるようになったね、色葉は」
俯いた氷波は、誰にともなく呟いた。
そういえば、もう一年の時が経つのだ。色葉が千人隊長を任されてから、水望が屋敷を訪れてから、道風と陸が藤神家に降ってから、そして氷波が戻ってから。
長いようで短い一年だったように氷波は思う。
(でもその一年で、鍵は全部そろった)
蛍も仲間に加わった事で、後は来たるその時を待つのみとなった。固く閉ざされた運命の扉は、そろった鍵で簡単に開く事ができる。そして何より、その時は近い。
「私は……どっちを選べばいいの」
抗えない運命。心に宿る気持ち。その両方を選ぶ事は当然ながら不可能だ。それでも。
氷波は涙を拭った。
「そんなの、決まってる」
おーい、と顔を出した色葉に向かって、今行くよと手を挙げる。
私が選ぶのは、もちろん――
木の枝葉に積もった白い雪が、重い音を立てて落ちた。




