第三話
──二月
「っ……!」
きらりと光る剣先が右の頬を掠めた。わずかに体を捻ってそれをかわす。そして開いた相手の脇腹めがけて刀を突き出す。しかし相手は勢いのまま転がって避けた。
「ちっ……」
舌打ちしながらも流れるように振り返り、次の一撃をお見舞いする。跳ね起きた相手は、色葉の刀を自らのそれで弾いた。きぃんという金属音。火花が散り、衝撃によろめく。だがお互いにすぐに体勢を立て直し、相手の様子を探る──のは一瞬。隙を見つけるなり、色葉は驚異的な速さで「敵」の胸めがけて刀を──
「わっ、ちょちょっ!」
剣先が届く寸前、相手──三条水望はわめき声をあげた。
「あっ……!」
その声で気がついた色葉は、慌てて刀の軌道を逸らした。しかしまだ危機は去っていない。
──ぶつかるっ!
両足に力を入れ急制動をかける。が、少し遅かった。勢いを殺しきれず、肩から水望に激突した。二人の体が宙に浮く。瞬間、咄嗟に水望の体を抱き寄せ、地面の側に回り込んだ。
そして。
もうもうと砂埃を巻き上げながら、激しく地面に体を打ち付ける。あまりの衝撃に息が詰まった。自分の勢いと水望の体重が足し算されて、二人分の体重が腰にかかる。
「いっ……ぁ……!」
色葉の口から、痛みをこらえる声が漏れる。
盛大に舞った砂埃が、風に流れて消えようとした頃、水望は口を開いた。
「…………だ、大丈夫?」
体の下でうんうんと苦しそうに唸っている色葉に、水望は気遣わしげな視線を向ける。対する色葉は、肘を使って上半身を少し持ち上げた。くっと一声呻いて、彼女に同じような視線を向ける。
「……痛い……けど、大丈夫。三条は?」
「おかげさまで何とも…………って、うわあっ!」
言いながら自分と色葉を交互に見て、水望は頬をかあっと赤く染めた。と思うのも束の間、折角持ち上がった色葉の体を突き飛ばして、一瞬の内に立ち上がった。そして、すぐに顔色を青く変える。
「あぁっ! ごごご、ごめん!」
水望は真っ青な顔で謝りながら、色葉を抱き起こした。その手を支えにして、色葉はゆっくりと立ち上がる。苦虫を噛み潰したような顔をして、痛む腰に手を当てた。
「いや……ぶつかった俺も悪いけど、何もそこまでしなくてもいいんじゃ……」
「だからごめんって……。っていうか色葉、さっき絶対本気だったよね? ちょっと眼が怖かったもん」
「そ、そんな事ない」
すかさず苦笑いを浮かべて否定する。ほんの一瞬、彼女を「敵」と思ってしまった事は内緒だ。さすがに何というか、申し訳ない。
色葉の言葉を聞いた水望は、さも信じてなさそうにふーんと呟いた。そして、色葉の左手に視線を移す。
「そもそもさ、真剣で勝負しなくても、木刀か何かで良かったんじゃない? 稽古なんだからさ」
「それは、実際に使う刀の方が上達するし……それに、本当はもっと手加減するつもりだったんだけど……」
色葉は左手に握った鈍く光る刀身を見て、次いで目の前の水望を見た。彼女はその可憐な風貌に似合わず、えらく男前な雰囲気をかもし出す傾向にある。姉御肌とはこの事か。
「想像以上に三条が強くて、それどころじゃ無かったよ」
──しまった。
「ははーん、やっぱり本気だったんだ」
「う…………はい、そうです。ごめんなさい」
言葉を詰まらせてどう返そうかと考えてみたものの、咄嗟に思いつくはずも無く、色葉は諦めて頭を下げた。
彼女が予想以上に強かったのは事実だ。あの流れるような剣さばきは、長年のたゆまぬ努力の成果だろう。色葉でも、本気を出さないと危なかった。
それにしても、小さな嘘を吐いた後ろめたさからか、姉御肌に気おされたからか、口を滑らせてしまった。一生の不覚。まあ、大した嘘ではないので大丈夫。と自分に言い聞かせる。
素直に謝った色葉に、水望は大げさに胸をそらした。
「ふふっ、よろしい」
これではどっちが目上か分からない。この状況を傍から見れば、十人中十人が水望の方が上だと勘違いするだろう。賭けてもいい。とはいえ実際のところ、年齢から見れば水望の方が上なのだが。
水望を召し使えてから一ヶ月。もう随分と彼女にも慣れた。まるで妹が二人に増えたようで、毎日がうるさくて仕方ない。騒々しさが倍になった。平穏な日常を返してほしいと常々思う。
けれどやっぱり本音を言うと、くだらなかった日々が、少しだけ色彩を帯びてきたような──
違う。
そんな事あるはずが無い。いくら魔導師といっても、水望はただの少女だ。俺の凍てついた五年間は、誰にも融かせない。絶対に融かす事はできない。
あの少女以外には──
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
突然、寒空の下響いたその声に、色葉の体は清浄な青白い光に包まれた。次いで、体中の痛みがすっと消えていく。初級治癒魔法の「ファーストエイド」だ。
呪文が聞こえてきた方に視線を向けると、やはりそこには、妹の白花が立っていた。
「ありがと、白花」
先ほどまでの思考を振り払い、いつもの微笑を浮かべた。妹に、白花に対してだけは、まだ自然な笑顔を向ける事ができる。色葉に続き、白花も無邪気な笑顔を見せた。
「えへへ、どういたしまして」
そんな二人が作り出す、何とも和やかな雰囲気の中、水望だけが唯一目を見開いて固まっていた。その様子に気付いた色葉は、小首を傾げて怪訝そうな表情をする。
「どうかした?」
「そ、その……それって……」
水望が言おうとしている事を察した色葉は、ふっと苦笑いを浮かべた──のか、ほんの僅かに口の両端を上げた。
「そっか。治癒魔法見たの、初めて?」
ふと水望は思った。いくら苦笑いって言ったって、もうちょっと笑おうよ。いくらなんでもそれはほぼ無表情だよね。ああでも、いつもはもっと空虚な感じだから、これはやっぱり笑顔に入るのかな──
いや、そんな事は置いておいて。
「か、簡単に言うけどさっ! 治癒魔法が使える魔導師なんて……!」
水望が驚くのも無理はない。そもそもの絶対数が少ない魔導師の中でも、治癒魔法が使える人間はかなり絞られる。魔導師の1%、つまり全人口の0.0002%いるかいないかほどの数だろう。五千人に一人が魔導師という世界で、それらの人々は五十万人に一人という、文字通り希少な人間なのだ。
「全属性魔法といい、治癒魔法といい……白花ちゃん、すごすぎ」
「えっへへー」
水望の感嘆の声に、白花は嬉々とした顔を浮かべながら、くねくねとした謎の動きを見せる。何かの踊りのつもりだろうか?違うか。違うな。
「でも、この展開って、前にも……」
言いながら、水望は色葉の顔を見た。視線を向けられた色葉は、小さくため息を吐いて腕を組む。嬉しそうな白花とは対照的に、色葉は呆れたような表情を広げた。
「……悪かったね。二度目の展開で」
「じゃあ、やっぱり色葉もっ?」
「当然」
無愛想にそう言い放った色葉は、くるりと背中を向け、放り投げていた刀を拾いに行った。その華奢な背中が、水望の目にはやけに大きく見えた。まったく、この兄妹には驚かされてばかりいる。
「…………そういえば、何か用があったんじゃないの?」
色葉の背を眺めながら、思い出したように水望が声をかけた。用でもなければ、白花がこの時間に顔を出す事はあまり無い。その間、彼女が何をやっているのかは知らないが。
視線を向けられた白花は、ぽんと手を叩いた。
「あ、そーそー。お兄ちゃんに話があるって、おじいちゃんが」
「おじい様が?」
刀を背中に収めた色葉が、振り向きざまに答える。白花は大きく頷いて「よく分かんないけど」と付け加えた。
「何だそれ」
またしても苦笑いを浮かべる色葉に、白花はえへと笑いながら、ぽりぽりと頭を掻いた。白花らしいといえばらしい反応だ。
すっと表情を引き締めた色葉は、ぱっぱと服に付いた汚れを払った。今日は珍しく薄い色合いの服なので、小さな汚れでもかなり目立つ。
「んー、じゃ、そういう事らしいから」
行ってくる、と手を振りながら廊下に上がり、色葉は建物の中へと消えていった。廊下を曲がる寸前、彼はちらと水望の顔を見て、さっきのなんちゃって苦笑いよりもしっかりとした笑みを見せた。ほんの一、二秒だが、お互いの視線が交錯する。
そして色葉は、そのまま廊下を曲がっていった。足音が遠ざかっていく。
庭には、水望と白花だけが残された。数秒ほど沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは白花だった。
「……水望ちゃん、顔赤いよ?」
「そ、そんな事無いっ」
必死に否定する水望だが、白花は全く取り合わない。それどころか、無邪気な──といいつつ邪気だらけだが──満面の笑顔を水望に向けた。
「へぇー、そーなんだー。まぁ、お兄ちゃんも結構かわ……かっこいいからねー」
少し本音が見えた気もしたが、それどころではない水望はやはりそれどころではない。腕をつついてくる白花から離れ、赤く染まった頬を隠すように彼女に背を向けた。
「もうっ! だから違うってば!」
そう半ば叫ぶように言って、水望も建物の中へ消えた。
庭を静寂が包みこむ。先程までの暖かい雰囲気は、冬の冷たい風に流されていった。しんと張り詰めた空気は、まるで鋭い氷の刃のようにも感じられる。
最終的に一人残された白花は、顔からその無邪気な笑みを消した。普段の色葉が見せるような空虚な無表情が、それに取って代わる。
再び風が吹いた。
「……水望さん。あなたならきっと、お兄ちゃんを──」
救ってくれるよね。
「──失礼します」
一声かけてから戸を開け、祖父の部屋の中に入る。途端、鼻腔を甘い香りがくすぐった。
「うわ……何ですか、この匂い」
「いい香りじゃろう?はるばる海の向こうから取り寄せた香じゃ」
眉根を寄せて鼻の辺りを押さえている色葉に向かって、赤松は手にしている扇子を扇いだ。ひたすら匂い付きの風を送られる中、無言の応酬がしばらく繰り広げられる。しかし、もちろん色葉に勝ち目は無い。心から楽しそうに笑う祖父を睨みつけながら、しぶしぶ鼻から手を離した。
「はぁ…………うわー、すごくいい香りですねー」
「棒読みなのは許してやらん事も無いぞ?」
まったく、何を言っているのだこの祖父は。というより、いったい自分達は何をやっているのだろう。意味が分からない上に面倒くさい。そもそも、こんな金銭的余裕があるなら、もっと軍備に力を入れてはどうかと思う色葉であった。
それはさておき。
「……で、話って何ですか? まさかこの香の事だけでは無いですよね?」
そろそろ本気で面倒くさくなってきた色葉が、祖父の目の前に座って尋ねる。すると、赤松はその顔から飄々とした笑みを消した。ぱちんと扇を閉じる。
「──ようやく聞きおったか、千人隊長よ」
赤松は、その纏う雰囲気を一変させた。陽気な老人から、数々の戦場を潜り抜けてきた、歴戦の将のそれへと。形容しがたい重圧のようなものが、部屋を包み込んだ。
瞑目した赤松は、重々しく告げる。
「我らはこれより、領地の回復を目指す」
「領地の、回復……?」
「……そういえば、色葉は覚えていないのじゃったな」
そう言うと、祖父は──藤神家の最高権力者は、静かに話し始めた。色葉が生まれてすぐの頃の、藤神家について。
十年程前は、今よりずっと広大な領地を治めていたこと。強い軍事力で、周辺へさらなる領地拡大を目指していたこと。それでいて善政をしき、領民から慕われていたこと。
──そして、五年前のある日、その有能な当主が亡くなったこと。
長きに渡り藤神家を見てきた将の言葉は、当時の記憶が無い色葉にも、容易に理解する事ができた。
「……当主が死亡するという混乱の中、家臣団の中から二つの大きな家の離反があった。それが、生島家と山村家じゃ。最初はそれだけじゃったが、徐々にさらなる離反者が両家の側に回り、やがて主家である藤神家をも上回る戦力を得たのじゃ」
赤松はそこで言葉を切り、眼前の孫の顔を見る。残念ながら、赤松自身にもその表情からは何も読み取る事はできない。だが、何を考えているかぐらいは分かった。
「そう、お前の五歳の誕生日じゃ。あの事件で、藤神家は一気に弱体化した。このままでは、藤神家自体の存続も危うくなるじゃろう」
「……父上と、母上が死んだから……この家は……」
「そうじゃ。……思い出させてしまったか?」
「いえ」
何の感情も見出せない表情のまま、色葉は床に視線を落とした。赤松はそんな彼に投げかける言葉を捜そうとして、やめた。色葉の顔に悲痛な面持ちが広がっていたからだ。言葉の代わりに、その小さな肩に手を置く。
五年前の、記憶に無い辛い経験を思い浮かべながら、色葉は口を開いた。
「……だから、父上の代わりに、領地の回復を目指すのですね」
「そうじゃ。手始めに明日、生島家と開戦する。これは、相当厳しい戦になるじゃろう」
俯いたままの色葉に、赤松は言葉を続ける。
「じゃが、わしは何の心配もしとらん」
「え……?」
祖父の優しげな声に、色葉は顔を上げた。祖父であり、当主でもある老人と視線がかち合う。その普段からは考えられないような真剣な瞳から、色葉は祖父の強い意志を感じた。
「よいか色葉、わしは誰よりも、お前さんに期待しておるんじゃ」
ゆっくりと言い聞かせるように、赤松は色葉の肩をさすった。少し骨ばったそれは、普通ならば華奢な印象を持たせるだけなのだが、その体に秘められた強さを赤松は知っている。
「お前さんは天才──文字通り、天からの才能を持っておる。その強さは、ともすればわしをも超えるかもしれん」
「そんな……俺、強くなんか……」
ふるふると首を横に振る色葉に、赤松はさらに語気を強めた。
「いいや、お前さんは強い。わしが保障する」
「…………」
色葉の心の中にあるのは、やはり過去の様々な出来事だろう。その存在が、彼を恐ろしいほどまでに強く、そして同時に、これほどまでに弱気にさせているのだ。これは色葉自身の事なので、いくら祖父とはいえどうする事もできない。だが今は、何としても色葉に戦ってもらわなくてはならないのだ。
「自信を持つんじゃ。自身を持って、藤神家のため……いや、お前さんの両親のためにも、戦ってはくれんか?」
「……父上と、母上のために……」
そう言って、色葉は考える。
これまで、沢山の過ちを繰り返してきた。自分がもっと強ければ、避けられたはずの過ちを何度も何度も。それでも祖父は、自分を頼りにしてくれる。そんな祖父のためにも、そして顔も名前も思い出せない両親のためにも、俺は──
そして、意を決した色葉は顔を上げた。
「……分かりました。俺、戦います。父上と母上のためにも、おじい様のためにも」
「そうか」
一言呟いた祖父は、優しげに笑い、色葉の体を抱き寄せた。十歳という若さながら、他人に対して心を閉ざしてしまった体を。その中に秘められた、限りの無い強さを。
そして色葉の耳元に口を持っていき、小さく囁いた。
「期待しておるぞ、色葉」
祖父の言葉に、色葉はしっかりと頷いた。
その瞬間、赤松が悲しげな顔をした事を、色葉は知る由も無かった。