第十話
空が微かに白んできた。
首を巡らせて東の方角に視線を向けると、彼方の水平線がきらきらと光っているのが見えた。もう間もなくあそこから太陽が顔を出すのだろう。
海は瑠璃色に輝き、波は白く散る。海鳥の鳴く声が、そんな海に朝の到来を知らせていた。
「……はぁ」
船首に腰掛けている色葉は、おもむろに息を吐いた。
何も無い海の上で、ただひたすらに淡路に向けて舟を動かし続けているのだ。さすがに疲れも溜まってくる。
色葉は再び進行方向に視線を戻した。いまだ目的の島は姿を現さない。
その時、突然背中に柔らかな感触が乗せられた。
「あげる」
その凛とした声音は、先程まで魔力切れで倒れていた蛍のものだった。少々驚いた色葉は、苦笑いを浮かべながら彼女を振り返る。
「おはよう。もう大丈夫なの?」
小さく頷く蛍に、色葉は笑った。
「そっか、よかった。それとありがとう、これ」
「別に。僕……二枚もいらないだけだから」
そう言うと、蛍は色葉に背を向けてまた寝てしまった。それきり動こうとしない蛍を見て、色葉はもう一度笑みを苦くする。まるで半年前までの自分を見ているようだ。
肩にかけられた布を手繰り寄せ、自らの体を包み込む。その大きな布は、まだほんのりと温かかった。
(俺も、こんなに温かかったのかな……)
首を振った色葉は、余計な思考を頭から追い出し、舟を動かす事にだけ集中する事にした。
日が完全に昇った。自身の影が目の前に伸びる。
頬を撫でる潮風に身を任せる事数刻、水平線の向こうにあるはずの淡路は一向に見えてこなかった。
もう一度布を胸の前に引き寄せ、色葉はその温もりを抱きしめる。
蛍と自分はどこか似通っている。強過ぎる魔力も、紅い瞳も、人を寄せ付けないあの態度も。今でこそ随分とましにはなったが、自分も半年前はあんな感じだった。
だが自分は、蛍のように温かかったのだろうか。こんなにも温もりがあったのだろうか。
不意に、背後から衣擦れの音が聞こえてきた。
「……あれ?」
寝ぼけたような水望の声が続く。
「おはよう、水望」
「んー、おはよう?」
どうやら状況が掴めていないようだ。上半身を起こし、きょろきょろと辺りを見渡している。
「今は淡路に向かっている最中だよ」
かいつまんで説明するとそうなると思う。そんな大部分を端折った色葉の説明だったが、水望はちゃんと理解してくれたようだ。納得したような表情を浮かべて頷く。
だが彼女は、すぐにその顔を曇らせた。
「色葉、何かあった?」
「……何かって?」
「その……また、辛そうな顔してるよ」
首を傾げながら言った水望に、色葉は微笑みかけた。
「大丈夫だよ、心配しないで」
瞬間、水望の表情が寂しそうなものへと変わった。かけていた布を羽織り直して、こちらへと歩いてくる。
「っ……」
水望は色葉のすぐ隣に腰を下ろすと、彼の両肩に手を置いた。そのままその華奢な体を抱き寄せ、自らの布にくるむ。身を硬くする色葉とは対照的に、水望は穏やかそうに目を閉じた。
「……あったかい」
すぐ耳元で水望の声が響く。普段の元気な声音は変わらないが、色葉にはそれがとても優しく聞こえた。
もう六月の下旬だ。季節がらもう寒い訳ではない。だが彼女は自分を「温かい」と、そう言ったのだ。何の脈絡もなく、突然に。それは何だか、自分の心の中を見透かされているようで。
「…………ありがとう」
しかし、なぜかそこまで悪い気はしなかった。もしかすると、相手が水望だからかもしれない。道風や陸ではなく、水望だから。
(水望だから……?)
ふと自分の考えに疑問を抱いたが、考えても一向に答えが出そうにない。考える事を諦めた色葉は、煌く海面に視線を移した。聞こえてくる息遣いが妙に心地いい。
水望は口を開いた。
「色葉はさ、いつも一人で抱え込んじゃうんだから。たまには私にも相談してよね。じゃないと私……」
言葉を続けようとした水望だったが、それは突如立ち上がった色葉によって遮られた。布がずり落ち、潮風が肌を撫でる。
「どうしたの?」
「見えてきた」
ぽつりと呟いた色葉の視線の先には、横に伸びた巨大な影があった。その島の左手には、青々とした緑に包まれた大きな山が、中央にはなだらかな白い砂浜が広がっている。
あれが、今まで自分達が目指してきた場所、淡路だ。
「やっと着いたんだ、私達」
長かったようで短かった旅路もようやく終わりを告げる。無論、自分達がすべき事はまだ終わっていないが、僅かな安心を感じたのもまた事実だ。
安堵や疲労が混ざった溜め息を吐いた色葉は、舟の速度をさらに上げた。漆黒の髪が風に遊ばれ、衣が翻る。
「じゃあ、さっさと終わらせようか」
水望の顔を見下ろし、満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
同じように立ち上がった水望も、徐々に大きくなっていく島を見据えながら頷く。そんな彼らの頭上を、一羽の海鳥が飛んでいった。その鳴き声は、遠くにまで響き渡った。
この時はまだ、この旅がすぐに終わると、誰もが信じて疑わなかった。
砂の感触が、草履を通して足の裏に伝わってくる。一歩足を踏み出せば僅かに沈み込むほど、この浜の砂は細かくきれいだった。
色葉達が辿り着いた砂浜には大した広さはなく、両端は岩壁に囲まれていた。そして前方には、鬱蒼とした森が広がっていた。砂地すれすれまで迫るその木々からは、どこか異様な雰囲気が感じられる。
波の音を背後に聞きながら、色葉は眼前の木々を見上げた。
「……大きいな」
それらを見た色葉は素直にそう思った。屋敷の近くにある森はもとより、何度か赴いた旧生島領の森ですらここまで大きな樹はなかった気がする。そんな巨木達が立ち並ぶ様は、中々に圧巻だった。
「舟の固定終わったよ〜!」
その時、背後から声が飛んできた。潮に流されないよう、船首部分にある出っ張りを麻縄で浜辺の樹に括り付けていたのだ。その作業をようやく終えた道風が、舟から軽々と飛び降りた。だが、そんな彼の顔は僅かに沈んでいた。
「……お腹すいたな〜。何か食べ物ある〜?」
上腹部を押さえながら、道風は空腹を訴えた。後半は料理を担当していた陸に向かっての言葉だ。彼の腕に縋ろうと近寄る。
「ない」
即答した陸は、絡み付こうとしてきたその腕をすぱんと払い除けた。
「あ、そっか」
それでやっと思い出したのか、道風は苦い表情を浮かべた。その理由が分かっていない色葉達は、お互いに顔を見合わせる。
「どういう事?」
「その…………食糧は全て、あの宿で無くなりました」
申し訳なさそうに言葉を紡ぐ陸に、色葉はようやくその理由を理解した。
そういえば、自分達はあの時、夕餉を食べようとしていたのだ。すでに支度は出来ていた、つまり食材は全て宿の奥で陸が管理していたはずだ。そんな中起きたあの爆発により、食糧を全部失ってしまったのだろう。
「うそ……」
深刻な表情を浮かべた水望が、呆然と呟いた。
「だ、大丈夫だって! ここの領主さんの所に行ったら何とか……ならないか」
慌てて氷波が励まそうとするが、とてもそうはならないと思い直した。いくら赤松が淡路領主と旧知の仲だったとしても、この島が普通の状況ではない限り満足な食事にはありつけないだろう。詳細は分からないが、今淡路は緊急事態に陥っているのだ。
「俺はまだ何とかなるけど。……ところで、蛍はさっきから何見てるの?」
色葉達の輪から少し離れた所で、蛍は海を凝視していた。色葉が声をかけてもぴくりとも反応しない。そんな彼女は、押し寄せる波に素足を晒しながらおもむろに右手を掲げた。
「蛍?」
「えいっ」
その時、海の中から数匹の魚が飛び出してきた。短い気合を発した蛍は、掲げた右手をそのまま後ろへと投げた。瞬間、その魚達が同じように蛍の背後へと飛んでいく。
小さく息を吐いた蛍は、振り返ってその軌跡を見届けた。何が起こったのか分からず、一瞬の沈黙が色葉達を包み込む。
「うわぁ〜! 蛍ちゃんすごいっ!」
沈黙を破るように喝采を上げた道風は、砂の上でぴちぴちと跳ねている魚達に駆け寄った。そのうちの一匹を拾い上げ、呆けたような顔の陸に見せ付ける。
「これで朝餉、作れるよね〜?」
「まぁ……作れない事もないが……」
陸は確認するような視線を色葉に向ける。それを受けた色葉は、苦笑いを浮かべながら頷いた。
「腹が減ってはなんとやら、かな?」
「分かりました。……まったく。作るといっても、焼くだけだぞ?」
「やったぁ〜!」
その時、道風だけではなく水望も両手を握り締めていた。その顔が輝いているところを見ると、どうやら彼女も相当お腹が空いていたらしい。
陸が指示を出し、その通りに水望達が準備を始める。舟から包丁を取ってきたり、薪代わりの小枝を拾いに行ったりなど、こういう時の団結力はさすがだと思う。蛍だけは何もせず再び海を見つめていたが、もう何匹か魚を獲るつもりなのだろう、と色葉は思った。
そんな賑やかな彼らから、一人離れていく人影があった。
「氷波? どこ行くの?」
暗い森に向かうその後ろ姿に色葉は声をかけた。すると彼女は振り返って、腰に佩いた刀を軽く持ち上げてみせた。
「魔物がいないか見てくるんだよ」
「だったら俺も行く」
一瞬だけ逡巡する素振りを見せ、氷波はありがとうと呟いた。微笑を返した色葉は、彼女の隣へと歩いていく。そしてそのまま、二人は木々の間へと姿を消した。
森の中は想像以上に薄暗かった。背の高い樹が陽光を隠し、まるで夕闇に包まれているかのような錯覚すら感じる。色葉と氷波は、木の根が張り巡らされている獣道を、周囲に気を配りながら歩いていた。
その時、木々の隙間から小高い山が垣間見えた。
「あの山を越えれば、多分洲本城かな」
淡路を統治している城、洲本城。色葉達は、その城から南に少し離れた場所に上陸したのだ。
「これからどうするの?」
「とりあえず、洲本城に行って詳しい状況を聞く。助けるって言っても、何をどう助けるのかが分からないしね」
書状に書かれていたのは『助けてくれ』という一文だけだった。少し不自然な気もするが、送り主が危急の状態だったならば容易に説明がつく。
「……その間、ずっとあの子も一緒なの?」
「あの子?」
「蛍ちゃんだよ」
深刻な表情を浮かべた氷波の口から、唐突に彼女の名が出てきた。首を傾げながらも色葉は頷く。
「もうここまで来たからね。俺達が巻き込んだんだから、俺達がちゃんと守ってあげないと」
半分こちらが巻き込まれたような気もするが、その辺りは置いておこう。
「それに、蛍が探してるものも少し気になるんだ」
ーー転移魔法が発動する直前。
『僕は……必ず探し出す』
脳裏に彼女の囁く声が蘇った。確証は何も無いが、彼女が探しているものは『世界の光』となんらかの関係があると、自らの直感がそう告げているのだ。
「という事はつまり……屋敷に帰っても、彼女と一緒にいるんだね」
「何か不都合でもあるかな」
色葉の問いかけに、氷波は左右に首を振った。顔を伏せ、微かな声で呟く。
「……それなら、絶対守ってあげてよ……?」
「当たり前だ。蛍だけじゃない、みんな、必ず俺が守ってやる」
もちろん氷波もだよ、と付け加えた色葉は、にこやかな笑みを彼女に見せた。ほんの僅かに頬を紅潮させた氷波は、照れ隠しなのか小さく微笑を浮かべて先を歩いていった。
「ちょっと、一人で行くと危なーー」
その時。
風を切る音が頭上を通過した。色葉は言葉を言い切らないまま、背中の鞘から刀を抜き取る。
「氷波!」
もちろん彼女もそれに気付いていた。色葉の高い叫び声が届くよりも先に振り返る。一つに括られた髪の毛が翻った。
『ギャァッ!』
短い断末魔と共に、それは無数の粒子となって消えていった。刀を振り上げた体勢で止まった氷波は、圧倒するように空を覆う枝葉を見上げた。
そこには、まるで血を溶かし込んだかのように紅い鳥がいた。木々の間を飛び交う数匹の鳥は、じっくりとこちらの挙動を窺っているようにも見える。そう、今自分達は、あの鳥の集団に襲われたのだ。それもただの鳥ではない。魔物だ。
(紅……?)
氷波をかばうようにして立った色葉は、その自然界には存在しないだろう極彩色を見て眉を寄せた。あれぐらいの魔物はそう珍しいものではない。言ってしまえば雑魚の集まりだ。だが、そんな彼らの体色は明らかにおかしかった。それでも氷波が襲われた以上、黙って手をこまねいている訳にはいかない。
(……やるしかないっ!)
脳裏に響き渡る警鐘を息と共に飲み込み、色葉はその場で跳び上がった。近くの樹の幹を蹴って枝に掴まる。勢いもそのまま足を振り上げ、また別の枝に飛び乗った。
あまりにも人間離れしたその動きに、氷波ははっと息を呑んだ。
「気をつけて!」
色葉は目を瞠った。眼前に躍り出た一羽の鳥の周りに、突然魔法陣が展開されたのだ。色葉の俊敏な動きを脅威ととったのだろう、他の鳥も一斉に近づいてくる。その速さは尋常ではなかった。
「くっ……!」
足をかけている枝を思い切り蹴飛ばし、色葉は両手に持った刀を振り上げた。と同時に、鳥の周りの魔法陣が赤く輝き、完全な球を描く火の玉が出現した。
その差は紙一重。僅かな差で、色葉が遅かった。
「はぁっ!」
手の平に魔物を叩き切る感触が伝わってくる。意外と硬く、腕が痺れる。その紅い体が細やかな光となっていく様を、色葉はしっかりと見届けた。
だが次の瞬間。
「っーー!」
肩を灼熱の炎が襲った。寸前で身をよじり直撃は免れたものの、左肩を火の玉が掠めたのだ。不思議と熱さは感じず、ただ言いようも無い痛みだけが身体を駆け巡る。氷波の叫び声が聞こえた気がしたが、掻き乱される意識の中ではそれも意味をなさなかった。
背中に何かがぶつかった。いや、背中から地面に落ちたのだ。落下感が消えている。湿った若草のおかげで、火がそれ以上燃え広がる事はなかった。
息を詰まらせながら、色葉は氷波の姿を探した。
「色葉!」
悲痛な声の方向に視線を向けると、切羽詰った顔で駆けて来る氷波がいた。そしてその背後の、紅い影。
来るな。そう叫びたいのに声が出ない。投げ出してしまった刀を視界の隅に認めたが、どうしてもそれには届かない。
また、守れないのか。
色葉の眼に、いつか見た少女の後ろ姿が映った。
その時。
〈神の息吹よ、見えざる剣となりて、彼の者達を切り刻め、ディバインウィンド〉
凛とした静かな詠唱が届いた。瞬間、森の中を詠唱とは対極的な凄まじい突風が駆け抜けた。枝葉がしなり、大きな音を立てる。どっしりとした巨木が、その幹を震わせている。
色葉は体の上に覆いかぶさってきた氷波を抱きとめ、飛ばされないようその両腕に力を込めた。その背中が、離れてしまわないように。
その突風はしばらく吹いていた。
だが時間が経つにつれ、徐々に風が止み始める。葉の音が小さくなっていき、森の静けさが戻ってくる。必死にしがみついてくる氷波の向こうに目をやったが、あの紅い鳥達の姿はどこにも見当たらなかった。
「大丈夫……?」
白い髪が視界に入った。感情のこもっていないような声音だが、それが心からの言葉だと色葉は分かっている。小さな笑みを浮かべながら頷いた。
何の惜しげもなく上級魔法を使った蛍だったが、その顔に疲労の色は全く見えなかった。さすがは蛍だ。
「魚、焼けたよ」
そういえば、今は朝餉の支度の途中だった。浜辺で待っている水望達の顔が眼に浮かぶ。そろそろお腹も空いてきた。
差し伸べられた白い手に、色葉は手を伸ばそうとした。
その刹那。
何の前触れも無く意識が闇に落ちた。




