第七話
「僕は、もう戻らない……っ!」
少女は両手を掲げ、立ち尽くす色葉を睨みつけた。紅い眼光が殺気を放つ。
降りしきる豪雨の中、少女の纏う光がその強さを増した。周囲のマナが怯えるように震え、彼女の魔力が渦を巻き始める。
「その力を使っちゃ駄目だ!」
恐らく彼女は『干渉』をするつもりだ。これ以上、こんな町中でこの力を使わせたくない。それに、彼女の魔力はいつ暴走してもおかしくない程にまで高まっているのだ。
(背に腹は代えられない、かな……)
色葉も意識を集中させようとした、その瞬間。
ーー馬鹿かお前!
色葉の動きが止まった。
「…………干渉に干渉で対抗してどーすんだ」
低く呟き、薄い笑みを浮かべる。次の瞬間、彼の姿が消えた。
「きゃ……!」
少女の声が漏れる。
「……悪いな。こうでもしねーと、お前を落ち着かせられねーんだよ」
そう言って、少女の背中に回した腕に力を込めた。
雨ですっかりと濡れてしまったその体は、完全に冷え切ってしまっていた。なおも降り続ける雨粒に、その僅かな温もりはどんどんと吸い取られていく。そんな彼女の体を、紅葉はきつく抱き締めた。
「や……やめ……」
「大丈夫だ。俺は敵なんかじゃない。むしろお前の仲間だ」
優しく語り掛けながら、少女の前髪をかき上げる。
「仲間ってか、同類って感じだな」
その顔に小さな笑みを浮かべた紅葉は、彼女の瞳の奥底を見透かすように覗き込んだ。二対の紅い瞳が、お互いの瞳の中で輝く。
その輝きを信じてくれたのか、少女は紅葉の腕の中に倒れ込んできた。恐怖から解放された事と寒さからか、その体は小刻みに震えていた。
「寒いよな。待ってろ」
地面に少女を座らせた紅葉は、右手を頭上に掲げた。瞬間、二人を取り囲む半球状の結界が完成し、叩き付けるような雨粒を完全に遮断した。そして、火属性と風属性のマナを操り、濡れ鼠だった彼女の服を乾かしてやる。ついでに自分の衣も乾かした。
「これでもう、寒くねーよな」
少女はこくんと頷いた。
「よし。お前、名前は?」
「……蛍……」
ぞんざいに尋ねた紅葉に、少女ーー蛍はか細い声で答えた。そのまま口を閉ざした蛍は、黙したまま顔を伏せる。
(それだけかよ……)
元々、彼女は落ち着いた性格なのかもしれない。そんな少女が、あれほどまでに敵意を剥き出しにするとは到底考えられなかった。そして、そんな彼女が持つ荘厳な魔力も、今となっては全く感じられない。
こうして見れば、ただの幼い少女だ。
そこでようやく、紅葉は彼女の体に刻まれた無数の傷に気が付いた。
「……ったく。
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
清浄な光が蛍の体を包み、破れた服の隙間から見えている傷口を塞いでいく。
「ありが、とう……」
感謝の言葉を発した蛍に、紅葉もしゃがんで視線を合わせた。だがいつの間にか、彼の顔からは優しい笑みは消えていた。
「で? 説明しろ。さっきは何があったんだ」
その途端、蛍は再び体を震わせた。
「……僕……僕……もう、もどらな……」
蛍の掠れた声は、唐突にそこで途切れた。がくりと首が倒れ、彼女の全身から力が抜ける。
「ちっ……」
舌打ちをした紅葉は、彼女の小さな体を軽々と持ち上げた。体力、魔力共に消耗が激しいのか、すでに気を失ってしまっている。もし魔力が切れかかっているのなら、早く安全な場所に移した方がいいだろう。
何はともあれ、こんな所にか弱い少女を置いておく訳にもいかない。紅葉は、とりあえず雨がしのげる場所に移動する事にした。手近にあった物陰に入り込む。
(それにしても軽いな、こいつ)
紅葉は自らの腕の中の少女に視線を落とした。
年は紅葉ーーもとい色葉と同じぐらいに見えるが、体格は華奢な色葉よりも確実に小さい。
元々魔導師は、自らの魔力に耐えるため、体力が常人より優れている傾向にある。事実、色葉や水望は、剣術において大の大人に引けを取らない実力を持っている。しかし体格の面では、色葉は水望よりも相当に小柄だ。魔力が強ければ強いほど、自身の身体は丈夫になると思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。むしろ成長が遅い気すらもする。
紅葉は蛍を抱えたまま、そんな物思いに耽っていた。
その時、豪雨の中を走ってくる一人の少女の姿が見えた。雨に濡れるのもいとわず、辺りを見回している。
(あいつは確か……氷波、だっけな)
ぐちゃぐちゃに掻き乱された記憶の中から、なんとか彼女の名を思い出す事ができた。沢山の人間の記憶が入り混じる中、いとも簡単に何でも思い出す事ができる元の自分には敬意を表したい。
「あっ、色葉!」
氷波は紅葉に気付くと、真っ直ぐこちらに向かって走ってきた。
「よう、久しぶりだな」
そんな彼女に手を上げると、その足が一瞬止まりかけた。しかしすぐに紅葉達がいる物陰に入り込む。
「紅葉……?」
息を切らせながら、氷波は小さく尋ねた。
「俺が誰かぐらい、眼で分かるだろ?」
「そう、だけど……」
視線を逸らした氷波は、紅葉が抱きかかえている少女に顔を向けた。
「こいつは蛍。さっきの干渉波の発生源だ。……お前も感じてたんだろ?」
「……なんで紅葉がいるの? 色葉は?」
「別にいいだろそんな事。で、どうなんだよ?」
紅葉の質問には答えないまま、氷波は小さく息を吐いた。そんな彼女の様子に、紅葉は仕方ないといった風に首を振った。
「分かったよ。それよりも、早くこいつを休ませねーと」
「なら、道風が宿を取ってくれてるから、そっちに向かいましょ」
「ったく。しゃーねーな」
そう言うと、紅葉は自分が羽織っていた衣を脱ぎ、腕の中の蛍に被せた。その途端、氷波の表情が緩む。妙な気配を感じた紅葉は、微笑を浮かべている氷波を睨んだ。
「……何だよ」
「意外と優しいんだ」
「ばっ、馬鹿! 優しくなんかねーよ!」
上ずってしまった自分の声がものすごく恥ずかしい。慌てて顔を背けた紅葉は、そのまま物陰から出た。そんな彼の服は、土砂降りの雨に一瞬でまだら模様を作り出していく。氷波も後に続いた。
再び雷鳴が聞こえた。
その時。
「ーーいたぞ!」
という叫びと共に、紅葉達の周囲に突風が巻き起こった。それは降りしきる雨粒を伴い、強烈な水竜巻を完成させようとする。突然の旋風に、水滴は瞬く間に紅葉達の周りを取り囲んだ。
「だあっ!」
だがそれは、紅葉が炸裂させた魔力により粉砕された。地面に叩きつけられた水滴は飛沫を上げながら散る。振り向きざまに呪文を唱えた紅葉は、その飛沫を貫くような雷を背後の魔導師に放った。だがそれは、もう一人の魔導師によって防がれる。
「ちっ」
紅葉は蛍を氷波に預け、ほとんど間を置かずに抜刀した。
「そいつを頼んだぞ!」
「分かった!」
氷波の応答した声が背中に届く。彼女達の気配は、水が跳ねる音と共に遠ざかっていった。
「ここは俺が何とかするからな」
紅葉は眼前に立つ二人を睨んだ。その背後にも、何人かの黒い影が見える。彼ら全員の胸元には、紅い桜花が描かれていた。
「……なるほどな。そういう事か」
「何だお前は!」
先頭に立っていた男が叫んだ。しかし紅葉は答えず、手にした刀を彼らに向ける。
「答えろ! お前もあいつの仲間なのかっ?」
男の言うあいつとは、恐らく蛍の事を指しているのだろう。彼女とはまだ仲間なのかは分からない。だが、同じ『敵』を抱えている事は確かだ。ならば、答えは一つ。
紅葉の姿が消えた。
次の瞬間、白い雨の中に赤い飛沫が舞った。空気が凪ぎ、音が止む。
「……これが答えだ」
地を這うような声で呟き、男の胸を貫いていた刀を引き抜いた。どさりという、何かが地面に倒れ込む音が響く。流れ出した血が水溜りを赤く染めていく。その様子を無感動な目で見やった紅葉は、鋭い視線をその向こうの黒服達に向けた。
「まぁ、せいぜい楽しませてくれよな?」
邪悪な笑みを湛えた紅葉は、再び地面を蹴った。
最初に斃れた男を踏み越え、水溜りの中心に着地する。跳ねた水滴をなぎ払うかのように、紅葉は右手に握った刀を振るった。声も出せないまま黒服達は胸元を抉られる。
だが、相手も黙ってはいない。やはり組織の猛者達は、魔導師と剣士に分かれて反撃を始める。魔導師は後方に、近接武器を構えた剣士は瞬く間に紅葉を取り囲んだ。
〈火花よ散れ! スパーク!〉
敵の魔法が発動する。空中で炸裂した小さな雷は、地面に広がる水を伝って紅葉を襲った。
「くっ!」
ありったけの力で紅葉は後方に跳んだ。その容姿からは考えられないような距離を易々と、しかも宙返りを交えながら越えていく。長く伸びた前髪で瞳は陰になっているが、その口元にはしっかりと笑みが刻まれていた。
左手をつきながら着地した紅葉は、一瞬の内に自らを中心とした魔法陣を展開させた。
「……思い出した。あいつ、魔力切れ寸前なんだよな。だから……とっとと決めさせてもらおうか!」
紫紺の輝きが徐々に強さを増していく。自然界のマナを取り込んだ魔法陣は、紅葉の魔法の威力を大幅に増幅させる。
「何としてでも止めろ!」
そんな敵の指示が飛び、眼前の剣士が阻止しようと迫る。だが、紅葉はそれよりも早くに詠唱に入っていた。すでに半分以上の呪文を唱え終わっている。残るは発動させる魔法名のみ。
紅葉は勝利を確信し、笑みを浮かべた。
刹那。
薄氷が割れるような音が響き渡った。上級魔法の詠唱を強制終了させられた事で、展開していた魔法陣は脆くも砕け散った。
「ぐあっ……!」
強烈な反動が紅葉の全身を貫く。つぎ込んでいた魔力が大きい程、その反動は大きくなるのだ。しかしその痛みは、胸の激痛に比べれば無に等しかった。
(また、かよっ……!)
いつもいつも、自分は大事な所でこうなる。どれだけ自分に力があっても、最後に勝てなければ意味が無い。また、あの時のように。
ーーほんと、君は変わらないね。
「っ……?」
紅葉は目を見開いた。耳朶ではなく、脳裏に直接響くような声。その声について思考を巡らせかけようとした、その瞬間。
空気を裂く音が耳元に迫った。それが何なのか理解した途端、紅葉は刀を振り上げた。
金属音が耳のすぐそばで響いた。耳鳴りのような音が頭の中に反響する。視界の端には、敵の両刃の剣が映っていた。
「っ……」
男の息遣いが聞こえてくる。だが紅葉の聴覚は、先程の声によって占領されていた。
「……変われねぇ訳ねーだろ」
ぎりぎりと敵の剣を押し返す。その表情は髪に隠れてよく見えないが、立ち上る魔力は怒気で彩られていた。
「俺は……何が何でも変わらなきゃならねーんだよ!」
語尾が消えた。
余韻は風の中に消え、続いたのは男の剣が弾き飛ばされた音だった。それは遥か後方にまで宙を飛び、ぬかるんだ地面に突き刺さる。
黒服達が気付いた時にはすでに、紅葉の姿はそこには無かった。
「色葉〜っ!」
大通りをしばらく走ると、どこか間の抜けた声が聞こえてきた。その方向に視線を向けると、髪色がほんの少しだけ薄い少年が大きく手を振っているのが見えた。突然の雨に道を急ぐ人々を避け、その少年の元へ走る。
自分は予想以上に体力を消費していたようだ。彼の目の前まで走ると、途端にばったりと倒れ込んでしまった。
「……悪い、後は頼む」
少年の腕に抱きかかえられながら、紅葉は絞り出すようにして声を発した。
瞬間、紅い瞳が黒曜のそれに戻った。
「色葉っ、大丈夫?」
「……んっ……」
ようやく気が付いたかのように、色葉は呻き声を上げた。苦しそうに胸を押さえ、自らを抱いている道風を見やった。
「……ここ、宿?」
「うん。話は氷波ちゃんから聞いたよ。あの子は中で休んでる」
「よかった……無事なんだ」
色葉は息を吐いた。そして小さく安堵の笑みを浮かべ、道風の手を借りながら宿の中に入っていった。
「そろそろ止みますかね……雨」
「……うん」
曇天を見上げながら言った陸に、水望は顔を上げないまま答えた。彼女の視線は、荒れる海に釘付けになっている。いや、もはやその海すら見ていないだろう。
「水望さん?」
「え? 何?」
試しに肩を叩きながら声をかけると、案の定彼女は何も聞いていなかった。呆然としたような表情を陸に向ける。
「しっかりしてくださいよ」
「あはは、ごめんごめん」
乾いた笑みを浮かべ、水望は再び海を眺めた。
二人の間に流れる沈黙を、雨と波の音がかき消している。港からも町からも離れているため、人々の喧騒すら全く無い。嵐の音だけが、二人を包み込んでいた。
港に程近い大きな木下。突然の豪雨に遭遇した二人は、慌てて雨宿りするためにここへ潜り込んだのだ。ちなみに、残念ながら海は大時化で、淡路に向かう船は一艘も出ていないとの事だった。
「雨、止むといいな……」
ぼそりと呟いた水望に、陸はそうですね、と返した。
「早く淡路に行って、早く用事を済ませて……早く、帰りましょう。私は、やっぱり兵の訓練が性に合います」
「うん。それもそうだけど……私は、こんな旅するのも悪くないかな、なんてね」
「どうしてですか?」
そう尋ねると、水望は前髪を弄りながら答えた。
「旅してたら、ずっとみんなと一緒だからだよ。雨が止んだら、一緒に外で伸び伸びとできるしね」
「……みんなと、ですか」
「そうだよ。みんなと一緒」
言い切った水望は、陸に満面の笑みを向けた。屈託無く笑う水望は、普段どおり元気そのものだ。だが陸には、その笑みに隠れた感情が少しだけ見えた気がした。
「本当に、皆さんと一緒がいいんですか?」
「あ……当たり前でしょっ」
水望は勢いよく立ち上がった。
「氷波ちゃんも、私の大事な友達なんだから」
そう言って、彼女は突然雨の中に飛び出した。慌てて陸も後に続く。
「ちょっと、水望さんっ?」
「ほら! 色葉達が待ってるから!」
ちらりと陸を振り返り、水望はまた走り出した。その背中を追いかけながら、陸は内心で溜め息を吐いていた。
(誰も、氷波さんとは言ってないけどな。やっぱり水望さんは……)
雨が降っていて良かった。陸の脳裏に浮かんだ思いは、降り注ぐ雨粒によって流されていった。まだ、事を急いではいけない。
「待って下さいよ、水望さん!」
意味深な微笑を浮かべた陸は、水望の後を追いかけていった。
雨はまだ、止みそうにない。
祝、20万字!




