第一話
遥か昔から書き進められていた脚本が、ようやく始まりの時を迎えた。
終焉という名の、結末に向かって。
声がする。何を言っているのか、よく聞き取れない。頭がぼうっとして、思考がまとまらない。
今、視界に映っているのは、激しく踊り狂っている真っ赤な炎。聴覚が捉えているのは、ごうごうという木の燃える音。それ以外は、何も見えない、何も聞こえない。何も分からない。
「うっ……」
痛む額を押さえて考える。なぜこんな事になっているのだろう。思い出そうとしても、何かが邪魔をしてどうしても思い出せない。
その時、視界の隅に何かを捉えた。その方向に視線を向ける。
息を呑んだ。そこにあったのは人間の手。自分に伸ばされているようにも見えるそれらを追っていくと、人が二人倒れているのが分かった。
二人の男女に、見覚えはない。
「……だれ?」
問い掛けても返事は無かった。どうやら気を失っているようだ。死んではいない証拠に、肩が僅かに上下している。炎に照らされたその顔は、誰かに似ているような気がした。
「…………!」
何かの気配を感じ、無意識に顔を前へ向けた。
そして目を懲らすと、揺らめく炎の向こうに人影が見えた。顔は影になっていて見えない。だが、その立ち姿に形容しがたい何かを感じた。
もしかして。
立ち上がって近づこうとしたその時、突然眠らされたかのように、意識が闇に落ちた。炎がぐにゃりと曲がる。次いで体にかかる落下感。
「ならばお前の──」
混濁していく意識の中、そんな言葉が聞こえた気がした。
──1月
「……っ!」
窓から差し込む朝の光の中、少年は寝床から飛び起きた。顔を照らす朝日に目を細めながら、ゆっくりと廻りを見渡す。
狭い部屋の中に、調度品の一切無い棚や文机。光を反射させる床板の上には、読みかけの書物などか整理して置かれている。吹き抜けの小窓からは、朝の冷たい空気が流れ込んできている。そして枕のそばには、大きな日本刀が置いてあった。
普段と変わらない、自分の部屋だ。
息を吐いて、少年は再び仰向けになった。
少年の額には、うっすらと汗が滲んでいる。額だけではない。体中が冷や汗で少し湿っていた。彼は額のそれを手の甲で拭いながら、小さく深呼吸する。
夢を見たのだ。どんな夢だったかは忘れてしまったが、とても怖い夢を見た。
「……うくぅー……」
少年は寝床の上で、なんとも不思議なうなり声をあげた。
何か落ち着かない。まあ、落ち着かないのは、昨日までの数日間続いていた成人の儀のせいなのだが。屋敷中の雰囲気がざわついている。もちろん、今朝に限っては、目覚めの悪さも手伝ったのだろう。
寝床の上で眠気と戦いつつそんな事を思っていると、戸の向こうから声が聞こえた。
「おはようございます。色葉様」
小姓の声だ。色葉と呼ばれた少年は、おはようと身を起こしながら返した。その小姓は、屋敷の人間で唯一、──肉親を除いて──少年が気軽に話せる相手だ。他の人とは、まともに言葉を交わす事すら難しかった。というより、したくないという表現の方が正しい。
彼は毎朝、少年がなかなか起きてこないと、部屋まで呼びに来てくれる。一度、そんな必要は無いと言った事があるが、叱られてしまいますからと、笑いながら返された。誰にとは言わなかったが、その相手は簡単に予測がつく。
「朝餉の用意が出来ております。それと、殿よりお話があるとの事。お急ぎ下さい」
「分かった、すぐ行くよ」
そう小姓に返事し、少年は伸びをしながら寝床から起き上がった。子供特有の高く澄んだその声は、誰にでも分かるほど無気力そうだ。戸の向こうの小姓も、いつも通りの反応に苦笑いしている事だろう。
枕のそばに置いてある、大きな日本刀を手に取った。金属で出来た刃の重みが、左手にずっしりと感じられる。そのまま、腰に巻いた帯の背の部分に差し込んだ。彼の体にしては大きな刀なので、普通に佩こうと思っても、地面を擦ってしまうのだ。少年の身長ほどもあるこの刀は、何かしらの由緒があるらしいが、詳しい事は知らない。
「…………はぁ」
また一つ、大きなため息を吐いた。
今日もまた、同じ一日の始まりだ。朝起きて飯。勉強して飯。稽古して飯。そして寝る。そんな繰り返しの、退屈な毎日だ。もし、町人の子に生まれたならば、今頃、近所の子供と遊びにでも行っているのだろうか。市へお使いにでも行っているのだろうか。
もちろん、今まで育ててくれたおじい様には感謝している。でも、例えそれが大名家の長男の宿命だと分かっていても、どうしても不満が出てきてしまう。
まあ、三度の飯が毎日食べられるだけでも良しとしよう。これだけは、武家の特権だ。
「とりあえず着替えないと」
やはり冬だ。一月の朝は驚くほど寒い。いつまでも湿った服のままだと、風邪を引いてしまう。『子供は風の子』といっても、やはり限度というものはある。
「……はっくしょん!」
少年の名前は藤神色葉。ついこの間、十回目の誕生日を迎えて成人した。成人といっても、特に何かが変わる訳ではない。この国には、八歳を過ぎたら成人、という昔からの風習がある。これは、そんな習わしに則った結果だ。その中でも、十歳で大人になった彼はかなり遅い方に入る。基本的に、多くの子供は八歳になった途端に成人するからだ。早く成人した方が、なにかと都合が良いのだ。
彼は今、祖父の下で『一人前の当主』になる修行をさせられている。剣術に軍学、一般常識から礼儀作法まで、五歳の頃からみっちり祖父に鍛えられているので、『やっと半人前が見えてきたひよっこ』にはなったらしい。ちなみに、祖父は超一流だそうだ──自称だが。
少年の両親は五年前──つまり彼が五歳の時に亡くなった。五年前の彼の誕生日に屋敷で大火事があり、その時、炎に巻かれて死んだのだ。屋敷の主として、怪我人を救助している最中だったらしい。
そして彼には、その時以前の記憶が全く無かった。両親の顔も名前も憶えておらず、一緒に過ごした思い出も無い。事の真相は、全て彼の祖父が話したのだ。
だが、彼の祖父を始めとした屋敷の者は、それ以来その話をしなくなった。彼を気遣っているのか、それとも別の理由があるのか、彼には分からないままだ。
色葉は部屋を出た。そして食堂に向かって歩を進める。木で出来た床の冷たさが、素足の裏にひしと伝わってくる。
廊下はしんと静まり返っていた。穏やかで澄んだ風が頬をなぞり、朝日が柔らかく体を包む。それ以外は、全くと言っていいほどの無音だった。冴え冴えとした空気が、寝床で温まった体を芯まで冷やす。
「ふぁあ……寒い」
欠伸を噛み殺しながら、廊下を曲がる。
「……様が魔法を使えるって、本当か?」
その時、向こうからそんな声がした。『魔法』という言葉で、顔から一切の表情が消え去る。
ちょうど食堂の前辺りで、文官二人が話をしていた。少し距離があるので、まだ色葉の存在には気付いていない。だが他人より聴覚が鋭い色葉には、その会話が聞こえた。
「そうらしいぜ? 五年前の火事だって、色葉様が企てたって噂もあるくらいだからな」
「色葉様に限ってそんな事は……」
「いや、魔導師の考えてる事は、俺達には分かんねーんだって」
「そうなのかなぁ…………あっ……!」
奥にいた一人がようやく気づいた。目配せをしてもう一人に伝える。その男は振り向いて、明らかにしまったという顔をした。
色葉は何も聞こえなかったふりをして、そのまま通り過ぎようとした。
「こ、これ色葉様、おはようございます!」
すれ違う寸前、その二人が挨拶をしてきた。黙ったまま、少し引き攣ったような愛想笑いを浮かべて頭を下げる。
特に何事もなくやり過ごす事ができた。色葉は廊下を進み、文官達は廊下を曲がっていった。
「……声がでかいんだよ、お前は……」
しかし、通り過ぎてしばらくすると、背後でそんな声がした。彼は声をひそめているつもりなのだろうが、残念な事にしっかりと聞こえている。
人間はいつもああだ。表面上は恭しく振舞っていても、心の中では、全く違った事を考えている。
──どうせ、人間とはそんなものだ。
色葉は幼いながらも、そんな事を思うようになっていた。
「でも、やっぱ気持ち悪いよな」
「そうだな。……魔導師なんて、いなくなればいいのに」
そう吐き捨てて、文官達は廊下の奥に消えていった。
「…………」
色葉は、誰もいなくなった廊下で立ち止まった。握り締めた手の平に力がこもる。きれいに切り揃えられた爪が、薄く白い皮膚に食い込んだ。
これが、普通の人間との違いだ。人の運命をもねじ曲げる違い。魔法が使えるかどうかという事が、人間と魔導師の違いなのだ。たったそれだけで、俺達は差別される。
じわじわと広がる痛みの中、顔を伏せながら独り言を漏らす。
「……そんな事、分かってる」
いなくなれるものなら、とうの昔にそうしている。魔導師への差別は、今に始まった事ではない。もっと幼い頃はこんな境遇に疑問を感じていたが、今は何も感じない。──十年も生きていれば、心を殺す事だってできるのだ。
「…………やめよっ」
ぶんぶんと頭を振る。こんな顔をしていては、おじい様に失礼だ。気持ちを切り替えよう。
頬を軽く叩いた色葉は、気を取り直して再び歩き始めた。
「あ、お兄ちゃん! おはよー」
食堂に入ると、すでに妹の白花と祖父の赤松が席に座っていた。色葉を呼んでおきながら、祖父はすでに朝餉を食べ始めている。今日の朝餉は、白米と味噌汁、そして焼き魚──おそらく鰯だ──という、ずいぶんと質素な献立だった。昨日までは無駄に豪勢な料理だったので、より一層貧相に見える。
もぐもぐと口を動かしている祖父には目もくれず、いつも通り妹に微笑を返した。
「おはよう、白花」
色葉より一つ下の妹は、元気な笑みを顔一面に広げた。
色葉と白花はそれはそれは仲が良く、『あの姉妹は一心同体』などとよく言われたものだ。いやちょっと待て、俺は男なのだが。
時々、水面に映った自分の顔を見る時がある。そしてその度にげんなりさせられる。男らしい、凛々しい容姿なら良かったものの、現実はそんな理想とはかけ離れた、見事なまでの女顔だ。華奢な体格も相まって、よく少女と間違われる。世の不条理を感じる一瞬だ。
話を戻そう。
家の長に何も言わないのはさすがにまずいので、一応祖父にも挨拶する。
「……おじい様もおはようございます」
「うむ。おはよう」
その祖父は、やはりいつも通りの涼しい顔で、冷水を口に含んだ。
一通りの挨拶を済ませ、背中の日本刀を床に置いてから白花の隣の席に座った。目の前に置かれていた箸を手に取り、まず、ほくほくと湯気を立てている白米にそれを伸ばそうとした。
「色葉、大事な話がある。よく聞きなさい」
祖父が食事の手を止め、そう切り出した。大事な話らしいので、白米を諦め居住まいを正す。未練がましくその湯気を眺めている色葉を、どこか楽しそうな視線で見つめながら、祖父は話し始めた。
「今日から、千人隊長じゃ」
白米から鰯に目移りしていると、祖父は突然、そんな意味不明な事を言い出した。主語がない、主語が。
「誰がです?」
「お前が」
素直に鰯に向かって聞き返した色葉に、祖父はこれまた素直に返答する。お前とはいったい誰だろうと思い、一瞬思考を巡らせかけた。だが、そんな必要は全く無く、すぐに気付いてしまった。
「……………………は?」
たっぷり五呼吸分の沈黙の後、色葉は呆けたような声を上げた。
祖父は楽しそうな笑みを浮かべ、困惑した表情の色葉を眺めている。目を見開いたまま固まっている色葉に向かって、さらに言葉を続けた。
「聞こえとらんのか。今日からお前は千人隊長じゃ」
箸の落ちる音が食堂に響いた。
千人隊長とは、その名の通り千人の兵を任される──実際はその倍以上の兵を指揮するのだが──正真正銘の将軍職だ。いうら長子とはいえ、成人そうそうの幼子がなれる代物ではない。ついにぼけが始まったのだろうか。そう口にすると、祖父は一転、不機嫌そうな顔になった。
「わしを誰だと思っておる」
「おじい様」
「じゃなくて」
「藤神赤松」
「でもなくて」
「国一番の酔っ払い」
もうそれ以外に適当な呼び名が見当たらない。小首を傾げた色葉に、祖父は大仰にため息を吐いた。
「……もうよい。この家の当主じゃろうが! そのわしの命じゃ。聞かんか」
祖父が言い終わると同時に、静寂が部屋を包んだ。
中庭から、何かの鳥のさえずりが聞こえた。よく耳を澄ませば、何匹かいるのが分かる。なんと風流な事か。
「はぁ」
祖父の、そのあまりにも適当な指示に、色葉は気の抜けたような、なんとも言えない返事を返した。祖父は真剣な眼差しで彼を睨み付ける。
「何じゃ、その腑抜けた返事は」
「はっ!」
「うむ。それでよい。さあ、早く食べなさい。……それと色葉、わしは一度も酔った事はないぞ」
そう誇らしげに言って、祖父は白米を口に運んだ。後半は全くもってどうでもいい話だ。
そそくさと食事を再開する祖父を尻目に、妹の白花が腕にまとわり付いてきた。その眼はきらきらと輝いている。
「すごいじゃん! お兄ちゃん!」
意気揚々としている妹の姿にいつもなら好感を抱くのだが、今回ばかりはほんの少しの苛立ちを覚えた。兄としての威厳を保つため、毅然とした態度をとる。
「……何」
「これでお兄ちゃんも仲間入りだね! 武士の!」
「……一応、俺の生まれは武士だけど」
「それでさ、『我は、藤神家第十代が長子藤神色葉なり! 死にたい奴からかかって来い!』とか言っちゃったりさ!」
「死んでもそんな事は言わない……!」
「もっと喜ぼうよ! ね?」
「……素直に喜べない」
「ねぇお兄ちゃん、聞いてる?」
「聞いてない!」
などという、会話にすらならない応酬が繰り返された。白花は諦めたように苦笑いを浮かべ、いただきますと朝餉を食べ始めた。これも仲のいい兄妹ならではの光景だ。色葉も苦笑いを浮かべる。
そろそろ我慢の限界だ。ようやく白米に手を伸ばす。至福の瞬間がやっときた──はずだっだが、それを口に入れた途端、色葉は眉間にしわを寄せた。
「…………冷めてる」
妹は──白花はいつでも元気がいい。いや、有り体に言えばうるさいのだ。まあ、四歳の時に両親を失うという辛い経験がありながら、このように育ったのは良かったと思う。いや、そのように祖父が育ててくれたのだろうか。それとも、単に憶えていなかったのだろうか。いずれにせよ、やはり祖父は凄い人、というのは確かだ。
「……ご馳走様でした」
朝餉を終え、少し気分を落ち着かせるために、色葉は食堂の外へ出た。突然の決定に、喜びよりも驚きの方が大きい。それも当然だ。昨日ようやく成人したばかりの色葉に、すぐに受け入れろという方が無理な話だ。色葉はそのまま、屋敷の裏庭へと足を向けた。
随分あっさりと決まったが、これは、色葉が今後この藤神家を背負うための、重要な第一歩なのだ。
少年の背中には、今まさに重いせきにんがのしかかろうとしていた。だがそれは、この家を継ぐという事だけではない。その責任とは。
もしかすると、すでにこの時から、終焉の旋律は奏でられていたのかもしれない。もし、誰か一人でもそれに気づいていれば、あんな結末は変えられたはずなのに。




