第二話
目が覚めると、いつもと同じ天井が視界に入った。
「……朝、か」
母屋の南東の角に位置する色葉の部屋は、朝になると陽光が差し込んでくる。毎朝その光によって一日の始まりを迎えるのだが、今朝は少し目覚めが悪かった。朝が来たという実感がない。
肘を使って上半身を起こした。その時、ふと何かを感じて左手に視線を落としたが、やはりそこには何も無かった。
「夢でも見たのかな」
昨日、余計な事を思い出しすぎたのかもしれない。まだ嫌な感じが頭の片隅に居座っている。大きく伸びをしながら、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「……朝餉、食べようか」
とりあえず、胃の中に何かを入れよう。少しはましになるかもしれない。
色葉は寝床から起き上がり、食堂に行くために部屋を出た。
(誰……?)
食堂を覗くと、中で見知らぬ少年が一人席に座っていた。それを見た色葉は慌てて身を隠して、戸の陰からその少年をこっそりと窺った。
後ろ姿しか見えないが、年は十四、五辺りだろうか。そしてそれなりに長い黒髪。体格は比較的長身で、文官の着物に身を包んでいる。
「文官?」
いつもの癖で独り言を漏らしてしまった。しまったと口をつぐむが、もう遅い。少年もこちらに気付いたようなので、仕方なく食堂に足を踏み入れた。
「あの……文官の方がどうしてここに?」
挨拶もなしに尋ねる。
本来、文官を始めとする藤神家の役人は、特に用が無い限りこの時間帯に母屋にいる事はほとんどない。その上食堂となると、ありえないと言っても過言ではないほどだ。なのに、なぜこの少年は今ここにいるのだろうか。
警戒心をあらわにする色葉に、少年は相好を崩した。が、すぐにその表情を青くする。
「申し訳ありません! お呼びもせずに、私だけが食事を……!」
「え、何言って……」
色葉は言葉を切った。聞き覚えのある声。そして今の言葉。
「……もしかして、いつも俺を起こしてくれた……小姓?」
「はい! 憶えていて下さったんですね!」
千人隊長に任命された朝も起こしてくれた、あの小姓だ。それを聞いた色葉の顔に、心から安堵の色が浮かぶ。
丁度その時、背後で戸が開いた。
「あれ? お兄ちゃんもう起きてたんだ」
その言葉と共に白花は食堂に入る。そして色葉と小姓の姿を見比べて目を瞠った。苦笑いを浮かべて溜め息を吐く。
「……作戦、失敗しちゃった」
曰く。
この少年の名前は一ノ谷敦基。昔から藤神家の小姓として仕えており、年は思った通り十五になるそうだ。
なぜ彼がここにいるのかというと、今日からお付きの文官として働くため、挨拶をしようと早朝から食堂で待っていたらしい。その仕える相手というのが、色葉だったのだ。
「作戦って、何の話?」
朝餉の味噌汁を口に含みながら、隣に座っている白花に尋ねた。すると白花は苦い顔をして、敦基の顔を見ながら答えた。
「お兄ちゃんと敦基は知り合いでしょ? だからちょっと驚かそうと思って、それだけ」
言い終わると同時に白花は箸を置いた。ごちそうさまでした、と両手を合わせる。そんな彼女を横目に色葉はまた味噌汁をすすった。
「知り合いって言っても、俺は始めて会ったんだけど」
「そういえば、こうしてお姿を拝見するのは初めてですね。いつも壁越しでしたから」
「そうだったんだ……」
最後にもう一度味噌汁をあおり、色葉も箸を置いた。ちなみに味噌汁はこれで三杯目だ。
「……で、何で俺に付き人が?」
これが一番聞きたかった事だ。そもそも大した規模ではない藤神家には、付き人を雇える程の余裕は無い。元は小姓なので大丈夫なのかもしれないが、ならばなぜ彼が選ばれたのかも気になる。
そう疑問を口にすると、白花は幾分か真面目な顔になった。
「だってお兄ちゃん、最近大変そうだったし。文官さんの仕事は、やっぱり文官さんに任せようって事になったんだ。……お兄ちゃんだけ」
語尾になにやら不穏な響きが含まれていた気がしたが、気のせいだと自分に言い聞かせて心の底に押しやった。
「敦基はすごいよ! 文官採用試験に一番で合格したんだから!」
「だから俺に?」
「うん! これでお兄ちゃんもちゃんと仕事できるよね!」
これが白花の本音だろう。妹はいつからこんなに厳しくなってしまったのか。少し前まではあんなに気遣ってくれていたのに、今となってはもう昔の話だ。
「あの、私はそろそろ……」
微妙な空気を察したらしい敦基は、そそくさと席を立とうとした。待って、と白花が声をかける。
「おじいちゃんから伝言。お兄ちゃんと敦基は、朝餉の後すぐに部屋に来るようにって」
「分かりました。ではお先に失礼します」
敦基は一礼して食堂を出て行った。足音が遠ざかっていく。
「じゃあ俺も……」
立ち上がろうとした色葉の服の裾を、白花は咄嗟に掴んだ。先程とは打って変わり何か言いたげな白花の表情に、色葉はその小さな手を握り返す。
「どうした?」
「……お兄ちゃん、昨日、夜中にどこ行ってたの?」
何の混じり気も無い純粋な心配に、白花の声が僅かに震える。そんな彼女の様子に、色葉は困ったような笑みを浮かべた。
「見つかってたんだ。さすがだね」
「……全然嬉しくない」
沈んだ表情で呟いた白花は、痛みをこらえるように目を閉じた。
「私、なんだか嫌な予感がする。私にもよく分からないんだけど、いつか……いつかお兄ちゃんと離れ離れになるんじゃないかって……不安で」
今にも泣きそうな妹の頭を、色葉は優しく撫でる。ゆっくりと目を開いた白花は、そんな兄の顔をそっと見上げた。
「もう私、お兄ちゃんと離れたくない。また一人になるのは、嫌だ……!」
その悲痛な叫びに、色葉は顔を伏せた。
自分は妹を一人にさせた事がある。それも二日三日ではない。一ヶ月だ。今、人生の中で最も消したい、一ヶ月間。
だが色葉は、そんな心中を白花に悟らせまいと優しい微笑を見せる。
「ありがとう、心配してくれて。でも、俺は大丈夫だから」
「大丈夫って……嘘ばっかり」
白花は兄の肩に顔をうずめ、込み上げてくる感情を必死に抑える。そんな妹の姿をやるせない気持ちで見つめながら、色葉は自身の心の葛藤と戦った。
妹を不安にさせているのは、紛れも無く自分だ。だが昨夜の行動を彼女に伝える事は、今はまだできない。
「ごめん。もう少しなんだ。もう少しだけ、待ってて」
「……分かった。お兄ちゃんが言うなら、私待つよ。でも……本当に気をつけて」
返事の代わりに、妹の頭をぽんと叩く。白花は顔を上げると、普段どおりの笑顔を見せた。
「ほら! 早くおじいちゃんの部屋に行って!」
「まったく。人使いが荒いんだから」
色葉も少女のような笑みを浮かべ、元気に振舞う白花に言葉を返す。最後に彼女の瞳を一瞥してきびすを返した。
その色葉の背中に、ありがとう、という白花の呟きが届いた。
「これで全員揃ったな」
赤松の部屋に、色葉、敦基、水望、道風、陸の五人が集まった。こうして一つの部屋に顔を合わせるのは何日ぶりだろう。少し懐かしくも思える。そんな中、部屋の主である赤松が口を開いた。
「早速じゃが、お前さん達に頼みがある」
色葉は僅かに眉根を寄せた。祖父から「頼み」などと言われる時は、大抵厄介事を押し付けられる時だ。その証拠に、祖父は食えない笑みを浮かべている。
「お前さん達に、ある場所へ調査をしに行って欲しいのじゃ」
そう言うと、赤松は鋭い視線を色葉に向けた。
「場所はお前さんが知っておろう?」
「……何の事ですか」
色葉はその視線に何かを感じた。つい先程、同じような視線を白花に向けられたのを思い出す。何かを問うような鋭い視線。だが祖父のそれは白花のものと少し違った。心配からではない、何か別の理由で問われている。
交錯した視線に、赤松は嘆息した。
「まあ良い。憶えておらんか、森の中にある小さな社じゃ」
「あっ、そこ僕知ってますよ〜?」
突然暢気な声を上げた道風は、部屋にいた全員の注目を集めた。その視線に多少困惑した様子を見せて、道風は居住まいを正す。
「きしゅ……ちょっと前に、偶然その前を通りました〜」
奇襲作戦と言おうとしたのだろうが、水望と陸が視界に入ったのか言葉を濁した。その理由を知る赤松も、何食わぬ顔で話を続ける。
「ふむ。ならば案内は不要じゃな。では敦基、頼んだぞ」
「承知しました」
敦基は完璧な所作で一礼し、その場に立ち上がった。
「では皆さん、行きましょう」
懐から料紙と筆を取り出した敦基は、振り返って四人に呼びかけた。そのまま部屋を後にした彼に続いて、色葉達も部屋を出ようとする。
「色葉、少し残りなさい」
「……何ですか?」
寸前に呼び止められた色葉は、前を行く道風に一声かけて振り返った。彼らの背中が見えなくなったのを確認して、赤松はさっきと同じ視線を投げかける。
「お前さん、近頃何を嗅ぎまわっとるんじゃ」
「何の話か分かりません」
「色葉」
赤松は低い呟きと共に、しらを切る少年に詰め寄った。色葉も真っ向から老人の気迫を受け止める。
沈黙が流れた。せめぎあう形の無い刃は、お互いの間で火花を散らす。
先に口を開いたのは色葉だった。
「俺は、自分でやると決めた事をやってます。いくらおじい様とはいえ、とやかく言われる筋合いはありません」
相変わらず毅然とした無表情で言い切った色葉に、赤松は深い溜め息を漏らした。
「お前さんは本当に変わったのう」
首を振る。
「いや、昔に戻ってしまったのか」
「……皆が待ってますので」
色葉は小さく礼をして廊下に出た。
祖父は何を言っているのだろうか。自分は昔に戻ったんじゃない、昔から何も変わっていないだけだ。何も。
色葉は赤松に背を向けたまま、後ろ手で戸を閉めた。
一度自室に戻り、準備を整えて屋敷の門に向かった。
「水望は?」
すでに全員揃っているものと思っていた色葉は、彼女の姿が見えない事に気付いた。道風に問いかけるも肩をすくめられただけだった。
「ま〜、女の子は準備に時間がかかるしね〜」
「準備って……調査しに行くだけじゃないの?」
「私達は護衛も兼ねています」
陸は呟くように言って、敦基を見やった。
「も、申し訳ありません! 私が不甲斐ないばかりに……」
慌てて詫びる敦基に、色葉は微笑を浮かべる。
「不甲斐ないも何も、敦基は文官でしょ? それに俺付きの文官なんだから、主が配下を守るのは当たり前だよ」
「よっ、我らが主〜」
何の臆面もなく言ってのけた色葉に、道風が軽い合いの手を入れた。それを聞いて、敦基はさらに恐縮する。
「もったいなきお言葉です……っ!」
「そんなに固くならなくてもいいって」
慰めるかのように色葉は敦基の肩に手を置いた。その時道風は、そういえばと前置きして陸を見やった。
「陸もずっと敬語だよね〜」
「いえ、別に」
道風から視線を外しながら素っ気なく答える。色葉と同じようなその反応に、道風は小さく笑った。
「……でも、何でか色葉よりは優しく感じるんだよね〜……」
誰にも聞こえないような小声で呟く。
その時、玄関から足音が聞こえてきた。
「ごめーん!」
慌ただしく走ってくる水望に、色葉は遅いよと声をかける。四人の輪の中に入った水望は、上がった息を落ち着けるため深呼吸をした。そんな水望の様子に、色葉は首を傾げた。
「何やってたの?」
「……ち、ちょっとね」
「ふーん」
ちらりと水望の眼を見る。だが僅かに目を瞠って、すぐに敦基を振り返った。
「じゃあ行こうか」
門を開けた彼に声をかけ、肩越しに残る三人を一瞥した。
「お〜っ!」
唯一道風だけが元気に返事をする。脇の二人は知らぬ顔で淡々と歩き出した。その温度差に、道風はがっくりと肩を落とした。
「道風、案内頼むよ」
「りょうか〜い……」
苦笑いを浮かべながら、ぽんと背中を叩いた。それに押されるように道風も歩き出す。
色葉は前を行く四人を眺めやった。その顔からは、すでに微笑が消えている。
「……あそこに連れて行くのか……」
自分の言葉に首を振る。左手をそっと握りこみ、色葉は彼らの後に続いた。
「……あの……三条、さん」
森に入ってからしばらくして、陸は一歩前を歩く水望に声をかけた。
「水望でいいよ。で、なに?」
首を巡らせていつもと同じ元気な笑みを浮かべる彼女に、陸は困窮した様子で言葉を選んだ。
「その……あの時は、申し訳ありませんでした。……お怪我を、させてしまい……」
「陸。そんな顔してたら、兵士のみんなに怒られるよ」
水望は優しく微笑みかけ、陸を体ごと振り返る。後ろ向きで歩きながら腰に手を当てた。
「それに、その話は前にしたでしょ。あの時は私達、敵同士だったんだから。陸は何も間違ってないよ」
傷もちゃんと塞がったし、とお腹を押さえる。
「しかし……」
なおも口ごもる陸に、水望は額に青筋を浮かべた。
「あぁーっ、もう! 男ならはっきりする! 私が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんだよ!」
「──どうかされましたか?」
いつの間にか前を歩いていた色葉と敦基が、突如張り上げられた声に振り向いた。二人の視線──特に色葉のそれを受けて気恥ずかしくなったのか、水望は顔を真っ赤に染める。
「着いたよ」
色葉の声に誘われるように視線を向けると、そこには小さな社がぽつんと建っていた。なかなかに歴史を感じさせるそれは、調査をする程のものなのかと疑問を感じさせる。それは敦基や道風も同じようで、しきりに周囲を見回している。
「……準備はいい?」
そんな中、唯一落ち着いた様子の色葉が他の四人を促した。何の事か分からないまま、水望達は頷く。
「いくよ」
社の前に歩いていき、色葉は両手を掲げた。
瞬間、光の渦が全てを飲み込んだ。




