6 私の息子
「新婚生活はどうなの?」
お茶を啜りながら、母がそんなことを聞いてくる。
今日は平日。
お父さんは仕事だから、お母さんも暇なのだろう。わざわざ古巣である我が家に遊びに来た。
暫く見ない内に、随分化粧が濃くなった気がする。
それを指摘すると、「お金遣いまくってるのよ♪」なんてはしゃがれた。
まあね...お母さんの当てたお金だから何も言いませんけどね。
「あんまり無駄遣いしないほうがいいんじゃないの?」
とやんわり窘めたら、
「墓までお金は持ってけないんだから、あるだけ遣うわよ」
とはっきり宣言された。
そこまで言われたら、これ以上追及出来ない。第一、私のお金じゃないし。
「うまくいってるみたいね」
母が嬉しそうに目を細める。
「悔しいけれど、うまくいってる」
私も正直に自分の気持ちを告げた。
「恋愛したわけじゃないけれど、晴哉さんといると、お父さんお母さんと住んでるときと変わらないんだ」
血のつながらない他人なのに、それがとても不思議だった。
たまに戸惑うこともあるが、慣れてしまえばそれが晴哉さんなんだと思えてしまう。
「ただいま」と言われて、「おかえり」と返す。
「おはよう」から始まって、「おやすみ」で終わる。
当たり前のことを、当たり前に繰り返せる。
それがとても居心地がいい。
「お母さんも、晴哉くんを見て、ピンときたの。あぁ、この人が珠希の旦那さんになったらいいのにって」
「は? 何それ?」
娘の結婚相手を直感で選ばないでほしい。
「話してみて、晴哉くんがどんな人か知ったら、もうこれは、絶対逃せないと思って!」
「だから家付きで娘を差し出した、と?」
「だってウカウカしてたら、あんないい男、他の誰かにすぐかっさらわれるじゃない?」
母の言葉を否定できない。
犬を溺愛し、バツイチではあるけれど、それを補えるほどの愛情深い優しい人だ。
何故、初めての結婚が寂しいものだったのか、信じられないくらいだが、それでも晴哉さんは寂しかったのだ。
私の両親と何度かこの家で夕飯を食べた。その時の晴哉さんは、こちらが驚くくらい楽しそうで、和気藹々と父と酒を酌み交わしていた。
「こういう風にお義父さんと晩酌してみたかったんです」
そんな風に告げる言葉に嘘はなく。
何でこんなに情深い人が、そんなことさえ満足に経験出来なかったのか、不思議で仕方なかった。
「恋愛は本人同士だけど、結婚は親もどうしたって入ってくるからね。それでうまくいかないことなんてザラよ」
「う、お母さんがそう言うと生々しい」
既に両方の祖父母を見送った両親にも、何かしら親との歴史があったのだろう。
私にとっては優しいお祖父ちゃんお祖母ちゃんだったけど、それだけではないこともあったのかもしれない。
母はくすくすと笑うだけだった。
ふと、今までテーブルそばでうつらうつらしていたカインがいきなり起き上がり、玄関に向かって走っていく。
「カイン?」
カインが唸る。そして直ぐにそれは警戒を含んだ鳴き声に変わる。
珍しい。来客があっても吠えないのに。
その声と同じタイミングでチャイムが鳴る。
インターホン越しに「はい」と返事をすると、モニターに両親と似たような世代の夫婦が立っていた。
『上條と言います。晴哉のことで来ました』
無愛想な声でそれだけ言われる。
晴哉さんのこと?
母と顔を見合わせて首を傾げながら、玄関に向かい、ドアをあけると、老夫婦が厳しい顔で立っていた。
老紳士の方が私に言う。
「あんたが晴哉の新しいかみさんか?」
「はぁ...」
晴哉さんの親戚だろうか?
でもそんな話を聞いたこともなく、戸惑いながら頷くと、老紳士はジロジロ私を見てから言う。
「晴哉は上條家の婿だ。
別れて返しなさい」
「は?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
呆然としていると、老紳士はイライラしながら私に言い募る。
「まさか離婚して3ヶ月で再婚してるとは。
あんた、晴哉と不倫してたんだろう?
こっちは、弁護士雇って、訴えてもいいんだ。
図々しくも人の家の婿を泥棒したことに、目をつぶってやるんだから、早く別れなさい」
何、このボケ老人?
一生懸命頭を働かせて、婿という言葉から可能性を確認してみる。
「前の奥さんのご両親ですか?」
「娘が勝手に離婚なんぞしおったが、あれは間違いだ。晴哉ほど、見た目も学歴も年収も申し分ない男はなかなかおらんというのに!」
いやいや、原因はあなたたちの娘さんでしょう。
「あなたも不倫だったならおあいこでしょう?
なかったことにしてくださいな」
今まで黙っていた細君まで、老紳士と似たようなことを言ってくる。
おあいこって、何言ってるの、この人たち。
晴哉さんの、元義父母だと分かっていても、胸にこみ上げてくるムカムカに堪えられなくなってくる。
なんだこれ?
なんだこいつら?
「私たち、不倫してませんから。
それに、娘さん、お腹に別の男性のお子さんがいらっしゃるんですよね?」
声が上擦らないように精一杯がんばってそう言えば、老紳士は一笑する。
「あんな学歴もない若造、上條の婿に相応しくない」
うわ、どれだけの家ですか。
上條なんて知らないんですけど、どれだけ凄いんですか?
それにさっきから、学歴やら年収やらって、晴哉さんのいいところ、一つも出てこない。
なにこれ?
これ、本当に家族だったの?
「わざわざこうして出向いてやったんだ。
この離婚届に早く記入しなさい」
そう言われ、玄関口で離婚届を突きつけられた瞬間、その離婚届をすっ、と奪う手が見えた。
白い、もう若くないその手は私の背後から伸びて、そしてビリビリとそれを破く。
白い手から、薄っぺらい紙片が舞い落ちる。
「人の家にずかずか上がりこんで、礼儀知らずが偉そうに」
それは今まで聞いたことのない母の声だった。
「なんだ、あんたは?」
老紳士が訝しげに母を睨むが、母の視線の方が強い。まるで汚れたものでもみるみたいに、彼らを見つめると言い放つ。
「晴哉は離婚しません。
もう二度と、上條さんの婿にもならないでしょう」
「っな! なんだ貴様!」
「貴様なんて汚い言葉を平気で使う方の家柄のどこに、晴哉が相応しいんでしょうか?
今後一切、この家にも、晴哉にも近づかないでください」
母の声は一切の震えもなく、怒りもなく、ただ、淡々と老夫婦たちを威圧していた。
その迫力がどこから来るのか、娘の私にさえ分からない。
「晴哉晴哉と! 晴哉は上條の......!」
「晴哉はここにいる珠希の夫です。
そして今は私の息子でもあるんです。
帰りなさい。
これ以上、生き恥を晒したくなければ」
すっ、と指が玄関の向こう側を指す。
完全に老夫婦は飲まれた。母の言葉に。
だけど直ぐに老紳士はムキになって、何かを叫ぼうとした瞬間、携帯の着信音が鳴り響く。
私や母のではない。
細君の方だった。
上條の細君はその音に一瞬、戸惑うが、電話を取るように促したのは老紳士ではなかった。
「あなたの娘さんからですよ」
母が冷たい声で言った。
何で分かるの?!と思った。細君もそう思ったらしいが鞄から取り出して相手を確認して、やはり娘だと分かったらしい。
「ハナエ、どうしたの?」
電話が離れているのに、『なんてことしてるの!!』という、女の声がした。
『晴哉から連絡がきた』『離婚したのに!』
『これ以上、晴哉の新しい家にいったら、訴えるって!』
それらの言葉が立て続けに漏れ聞こえる。
細君が「でも」とか、「ハナエ」と呼び掛けても、相手は激怒するばかりだ。
逆鱗に触れたのだろう。
その電話の声を聞きながら、良かった、少しは元妻はマシな人で。なんて、不謹慎にも思ってしまった。
電話はまだ終わらなくて、母は顔が青ざめていく老夫婦を見下ろしながら、
「出て行きなさい」
ともう一度、言った。
老夫婦は、まだ何か言いたげだったが、そのまま、出て行く。
私は唖然としながら、母を見た。
母はにこりとして、自分の携帯を取り出す。
「さっき、名前名乗った時にピンときたから、晴哉くんに電話したのよ」
「あ、じゃあ、晴哉さんから元奥さんに?」
「たっぷり脅したんじゃないの?
あの親、やけに年収やらって、うるさかったから、きっとドケチよ」
母の言葉に思わず吹き出してしまう。
確かにがめつそうだった。
「珠希、離婚してすぐだろうが、何だろうが、あんたが正妻。晴哉くんの唯一の奥さんなんだから、堂々としてなさい」
「う....うん」
バシン、と痛いくらい強く背中を叩かれて、少しむせた。
夜、晴哉さんは帰宅するなり、私を抱きしめた。その行動にかなり驚いてしまう。
「お、おかえりなさい」
「ただいま。今日はごめん。怖かったろう?」
「いや、お母さん、いたし」
いなかったら、ちょっと怖かったかもしれない。
だっていきなり離婚届だして、離婚しろって、頭おかしいんじゃないか、と思った。
それを晴哉さんに告げると、「あの人たちは自分のことを第一に考えるから」と苦々しい顔で言われた。
「で、でも以前はお義父さん、お義母さんだったんだよね?」
そう問えば、晴哉さんは何とも言えない顔になる。
晴哉さんの学歴や年収ばかり言っていた人たち。
晴哉さんは、きっと元奥さんが好きだったから、結婚したし、婿入りもしたのだろう。
でも、この人は人一倍、寂しがりで、人一倍、家族という形を欲していた。
そんな人があの人たちと作った家族って、どんなだったのか、考えるのもしんどかった。
人生って、うまくいかないな。
欲しいものは、ごくごくありふれたもののはずだったのに。
好きだけじゃ、幸せになれないなんて。
「お母さん、晴哉さんのこと、婿じゃなくて、息子って言ってたよ」
そう言うと、晴哉さんはくしゃりと顔を歪めて、更に強く私を抱きしめた。
そして肩口に顔を押しつけながら、
「ごめん、弱音吐かせて」
と呟いた。
そんな晴哉さんは始めてで、そして同時に強く愛しさがこみあげる。
「どうして、どうして...。
あんな奴らばかり元気に生きてるんだ?」
それは最大級の、呪いにも似た言葉で、確かに誰かに聞かせられるようなものじゃなかった。
それでも、そこまで、だったのか。
と、その言葉に至るまでの過程に胸が締め付けられそうになる。
きっと、幾度も人ではない扱いも受けたのだろう。
子供の産まれないプレッシャーも、沢山感じたのかもしれない。
愛しあって結婚した筈の二人が、歪んでしまうまで、どうしようもなくなるまで、どんな沢山の心無い言葉が、彼を傷つけたんだろう。
幾つになったって、
心無い言葉には、傷つくのに。
「私がいるよ」
気がついたら、ギュッと晴哉さんを抱きしめていた。
やっぱり目からは涙がポロポロこぼれていた。涙腺、弱すぎだ、私。
泣きながら、震える声で、晴哉さんに伝える。
「私たち家族が、いっぱい晴哉さんのこと、愛してあげるよ」
恋愛して結婚は出来なかったけど、家族として愛してあげるから、
だから、
一緒に幸せになろう?