5 我慢
「で、何でいきなり苗字が変わったわけ?」
結婚して、1ヶ月たったころ、数少ない友人にメールを送った。
結婚しました、と。
そうしたら、近場に住んでいた親友から速攻で返信が来た。
そして、速攻でランチの予約を取り付けられて、今に至る。
「彼氏が出来たとも聞いてないんですけど?」
そう言った親友の有香はこの上なく不機嫌な顔だ。その横では彼女に瓜二つの2歳になったばかりの娘の睦月ちゃんが、「まんま、まんま」とはしゃいでいる。
食い意地は有香に似たんだな、と思いつつ、この二ヶ月のことを話すと、あっさり、
「さすがおかあさんだね」
と唸られた。
「初婚の根性悪選ぶなら、バツイチでも金持ってて性格いい男の方がいいわよねぇ。しかも、子無しだから養育費むしり取られる心配もないし」
「でも、恋愛とか全くない状態から始まったから、変かも......」
「いいんじゃないの? お見合いして直ぐ結婚する人もいるんだし。変な性癖とかなけりゃ」
性癖と、きましたか。
有香はかわいい顔して明け透けだ。
ニヤニヤしながら、
「そっちの方も大丈夫なんでしょ?」
なんて聞いてくる。
私は飲んでいたコーヒーをむせながら、
「睦月ちゃんもいるのに!」
と窘めたが、
「あたしの娘よ」
と開き直られた。
睦月ちゃんの将来が著しく心配だ。
「まあ、なんとか.......」
おおっぴらにいうのも恥ずかしくてそう言えば、有香は「じゃあ、いいんじゃない」なんて返した。
「あっちもこっちもバッチリなんて、本の中だけよ。現実なんて、我が家なんかここ二年、ご無沙汰よ!」
明け透け過ぎます、有香さん.......
「まあ、二人目欲しいし、旦那に精力剤でも飲ませるか、寝込み襲うかしようとは思ってるけど」
ひぃ。怖い。
怖すぎる。
何だか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、遠くをみていると、有香が聞いてくる。
「一緒にいて、我慢してることは?」
「は?」
「例えば犬飼ってるんでしょ?
犬だけで自分見てくれないとかないの?」
カインは可愛い。
散歩しているせいか、私も痩せてきたし、最近は犬のしつけ方も、晴哉さんに聞いて勉強している。
晴哉さんにとってカインは家族だし、私にとっても家族になりつつある。たまに一緒に寝るし。
晴哉さんに関して我慢することってあんまりない。
別に夜の生活とかそんなにがっついてないし。枯れてはないけど、そればっかりが人生じゃない気もするし。
苛つくこともあるけれど、一緒にいればそんなことは当たり前で。仲直りだって直ぐに出来る。
黙っている私を見ながら、有香はニヤニヤしている。
「流石、珠希のおかーさん。よくそんな好物件
見つけてきたね」
「どういう意味?」
「我慢出来ない人は、最初から我慢できないことがあるの。それがないなら、大丈夫よ」
妙に自信のある言葉に、「そういうもの?」と問いかけてしまう。
結婚って、我慢だっていう人もいるじゃない?
有香はにっこり笑うと、
「出来る我慢と出来ない我慢があるのよ」
と言った。
「一月過ごして、直ぐに我慢できないことが思い浮かばないなら、相性いいのよ」
「そ、そうかなあ?」
「そうよ。ということで」
有香は鞄をごそごそ漁ると、
「結婚祝。今まで出してたぶん、きっちり回収しなさい」
とご祝儀までくれた。
夜、帰宅した晴哉さんと食後にソファーでまったり寛いでいた際、有香の話と、貰ったご祝儀のことを言った。
晴哉さんは
「それじゃ、今週末はお返しを買いに行こうか」
と、提案してくれた。
「半返しだろうから、このご祝儀から出すよ」
「そのお金は珠希さんのお小遣いとして、何か買いたい時に使って。お返し代は家計から出そう」
「でも......」
「一緒に選ばせて」
穏やかな笑顔で晴哉さんは意外に強引だ。
と言っても、それは私が困ることで強引なことは一つもなくて、むしろめたくたに甘やかされているのが分かる強引だ。
「晴哉さん、私に甘すぎ!
晴哉さんの知らないところで、私、無駄遣いしてるかもよ?」
「珠希さんはしないよ。家計1ヶ月も預けていれば分かる」
断言されたら、何も返す言葉はありません。
家計預かっていると言っても、入ってくるお金が予想以上に多いのだ。今まで親からお小遣いを恵んで貰っていた身としては、ありすぎるお金にビクビクしながら、買い物したりした。
食費はいくらぐらいがいいのかとか、お母さんにこっそり電話したのは内緒だ。
「で、でも、保険とか入らせて貰ってるし」
そうなのだ。
齢30にして初めて医療保険にも加入した。
勿論、晴哉さんの口座から自動引き落としだ。晴哉さんの主契約に便乗した形だけど、帝王切開なんかも出るらしいので、と言われて加入した。
というか、子供ができること前提なのが、びっくりだ。
まあ、できる覚えはあるけれど、前の奥さんとはできなかったんだし、私ともできないとは考えないのだろうか?
むにゃむにゃ考えていたら、
「何、どうしたの?」
と聞かれてしまった。
流石に、今回の結婚でも子供できないとは思わないのかなんて、聞けるわけがないので、
「晴哉さん、何か我慢していることあります?」
と、昼間の有香との話を話題に出す。
「我慢?」
「私のいびきがうるさいとか、トイレが臭いとか、何でも」
晴哉さんはうーんと唸ってから、ふと気づいたように目を見開いた。
「一つ、あるかな」
「ええっ!?」
自分で聞いておいてなんだが、凄く意外だった。
何て言うか、日々泰然としていたから、我慢とかしている風には見えなかったのだが、どうやら晴哉さんに我慢を強いていたらしい。
今更ながらにドキドキする。
どうかそれが出来る我慢でありますように、と願うくらいには、二人の生活は居心地が良くなっていた。
だって、波長が合うのだ。
テレビを見てて、笑う場面、怒る場面、思いついて話しかける場面、それで話が食い違ったことはない。
最初は私に合わせてくれているのかと思ったが、そんなわけではなく、考え方とか、話すタイミングが似ているのだろう。
男の人と付き合うとき、そんなこと気にしたことがなかったから、実際晴哉さんと結婚してみて、そう言った目に見えない部分の相性の大切さってのを、身を持って実感していた。
「な、何、我慢しているの?」
恐る恐る顔をあげて、晴哉さんに問いかけると、晴哉さんは晴哉さん独特の、やんわりした微笑を浮かべてから、ちゅ、と私にキスしてきた。
「!!」
そういうことはベッドの中でだけだったから、かなり動揺してアワアワしてたら、晴哉さんに抱きしめられて、ぼやかれる。
「俺って、性欲そんなにないと思ってたし、多分これから衰える一方だと思うんだ」
い、いきなり何の話?!
「だけど、付き合い始めだからかな?
珠希さんと無性にイチャイチャしたくなるんです」
「い、イチャイチャ、ですか」
「うん。だけど、こういうのって落ち着いてくると減ると思うから、今、ガツガツするのって、後で減ったときに何か思われちゃうかな、とか考えて、我慢してる」
そ、そういう我慢ですか。
思いも寄らないものだった。
草食系だと思いこんでいたから、そっちは回数少ないことが当たり前だと思っていたのだけど、そんなこともないんですね。
そういや、付き合い始めって、結構猿みたいにガツガツするよな、なんて実体験で思い出す。
「が、我慢しなくていいよ?」
上目遣いで晴哉さんを見上げれば、晴哉さんは困った困ったとぼやく。
「俺、そんなに若くないのになぁ」
なんて言われた次の瞬間、膝裏に腕を差し込まれて、よっ、とお姫様だっこされた。
「う、うひゃあ!!」
まさか、この歳でお姫様だっこ!
最近、カインの散歩で少しは痩せたけど、それでもお世辞にも軽い方じゃない。
案の定、晴哉さん、少しよろめいた。
「お、お、降ろして!」
「ん? 頑張らせて」
にっこり微笑まれて、そのまま寝室に連れてかれる。階段とかひいって声上げるほど怖かった。
.....
............
結論。
結構、色々我慢させていたみたいだけど、私と晴哉さんはもっと仲良くなった。