4 専業主婦
田中改め、西永 珠希。30歳。
今日からピチピチの専業主婦です!
キラキラの結婚指輪が眩しいし、昨日からは同じ部屋で寝ました。
真 ん 中 に カ イ ン が 寝 て た け ど な!
いつもはそんなことないらしいんだけど、新しい家に落ち着かなかったらしい。
まあ、暫くはカインが真ん中でもいいんですけど!
別に昨日の夜はお気に入りの下着だったなんて、どうでもいいことなんですけど!
とりあえず、今朝も外見は変わらないが、中身だけはお気に入りの下着のまま、朝六時に起床した。
初めての愛妻弁当です、と。
著しく眠いけど、晴哉さんは離婚するまでは奥さんのお義母さん手製弁当だったらしく、そこは現妻としては、張り合いたいというか、専業主婦なんだし、それ位しかまだしてあげられることが分からないから、頑張りますよ。
まあ、メインが冷凍なのは許してほしい。
二度寝はしない質だけど、起きてすぐにテキパキは動けない。半分寝ぼけながら、冷凍食品を冷凍庫から取り出し、チンしていく。
弁当箱は、昨日買ってきたものだ。
ほうれん草のゴマあえだけは、手作りした。
と言っても、冷凍ほうれん草を解凍して作ったから、それが手作りだなんて、図々しいにも程があるかもしれないが、今はこれが私の精一杯。
母がいたときは、母に家事を任せきりだったから、思った以上にお弁当作りはハードだった。
七時に晴哉さんが起床。
「おはよう、珠希さん」
パジャマ姿の晴哉さんは、少し眠そうな顔で、何だか微笑ましい。
「おはよう、晴哉さん」
笑って返せば、晴哉さんは既に起きているカインの頭を撫でながら、椅子に腰掛ける。新しい我が家のキッチンはアイランドタイプという名前の対面キッチンだ。
流しのすぐ横にテーブルがあって、椅子が並べてあるから、用意がすぐにできるし、片付けも楽だ。
私は晴哉さんの前に、コーヒーと小さなパンを一つ置く。朝は食欲がないらしく、これだけらしい。
そしてカインのドッグフードも、カイン専用の食事場においてやると、カインは尻尾をバタバタ振りながら、ご飯を食べる。
犬を飼うのは始めてだけど、可愛いなぁ、と思う。
私、犬が苦手じゃなくてよかった。
ふふふ、と小さく笑ってから、私も自分の分のご飯を用意して、晴哉さんの対面に座る。
「いただきます」
「いただきます」
親といた時だって、そんなことしなかったのに、何となく二人声を揃えていた。お互いに目を合わせると、晴哉さんも少し照れくさかったのかはにかんでいた。
簡単な食事を済ませた後は、八時に晴哉さんは車で出勤していった。晴哉さんのお勤め先を聞いてみたら、この辺では大きな工場勤務だった。そこの品証課長だと聞いて、少なからず驚いた。35で課長職ってかなりのエリートさんじゃないですか。
一応、28までは会社勤めだったし、晴哉さんの会社は大きいので、私の勤めていた会社との取引もあった。だから、あの工場の課長職がどれだけ凄いかはわかる。
悔しいけれど、今のところ、晴哉さんに欠点らしい欠点は全くなくて、母親の審美眼の正しさに平伏するしかない。
もし、私が自分で結婚相手を探していたら、同じバツイチでも、風俗好きだとか、金遣いが荒い男としか結婚出来なかった自信がある。自信ていうか、見る目がないんだと思う。
第一、自分で選んでいたら、まず間違いなく、晴哉さんのような草食系のラマみたいな人、絶対選んでない。顔は悪くないけれど、申し訳ないが、私の好みでないからだ。
それでも3日一緒に暮らしても、嫌になったり、生理的嫌悪を抱かないのだから、今までの私、本当、何を基準に男を選んでいた?と自分で過去の自分に問い質したい。
「何だか、一緒にいて、楽なんだよなぁ」
ポツリと独り言を呟けば、「そうでしょ?」と言わんばかりに、カインが「ワンっ」と元気に吠えた。
洗濯を終えて、掃除をしたら、午前のカインの散歩だ。大体、1時間位してあげるといいらしい。晴哉さん曰く、カインは私が散歩をするようになってから、散歩回数が1日二回に増えて、とてもご機嫌らしい。
今までどうしていたのだろう、と思ったら、離婚してからはペットシッターなんてものを雇っていたそうだ。
私付きの家だったから、これからはペットシッターも不要だろうが、私の存在意義が、ことごとくペットに関わることばかりってのは、ちょっと切ない。
まあ、大した料理も作れないし、家事が凄い得意でもないから、これくらいで「いてもらって助かった」って思って貰えるなら、安いものだよなぁ、と思わなくもない。
久しぶりに外をがっつり散歩したら、うっすらと汗をかいていて、お昼の納豆ご飯が凄い美味しかった。
テレビを見ながら、納豆ご飯を食べていたら、ランチ特集なんてのをやっていて、晴哉さんが休みになったら、カインを連れてドッグランのついたレストランに行くのもいいな、なんて思ってしまう。
お昼を過ぎたら、洗濯物を取り込んで、夕飯の買い物に行く。カインの午後の散歩も兼ねたから、かなり時間がかかって、帰ってきたら4時を過ぎていた。
お風呂を洗って、スイッチ予約しておいて、夕飯の準備。
今日は頑張ってカレイの煮付けと、野菜炒め、ほうれん草の味噌汁だ。一汁一菜なんだけど、晴哉さんはこれで満足してくれるだろうか?と思いながら、くつくつ煮ていたら、電話が鳴った。
「はい、西永です」
慣れないなあ、と思いつつ、そう名乗ると、
『あ、珠希?』
と元気な声。
「あ、お母さん」
『どう、新婚生活は?』
「まだ3日目だし」
しかも、きちんと主婦業したのは今日が初めてだ。
『晴哉さん、いい人でしょ?』
得意気な母の声に、否定できないのが悔しい。
「まだどんな人か分からないし」
『でも、珠希のこと、大事にしてくれるでしょ?』
「う.......」
珠希さん、って呼んでくれる晴哉さんの声に、たった3日で馴染んでいる自分がいるから、強く返せない。
珠希、って呼びつけでもいいのに、凄く丁寧にさん付けされている。しかもそれがよそよそしいわけじゃなくて、優しいから、困る。
惚れっぽいわけでもないのに、その優しさに絆されそうで。
『幸せになりなさいよ』
いきなり、母親がそんなことを言ってきた。
「はあ? いきなり言われても......」
『お母さん、神様なんて信じてなかったけど、今回だけは感謝した』
「まあ、宝くじ当たったもんね」
そのお金を娘に分けるどころか、家ごと売り飛ばすとは思いませんでしたが。
電話の向こうで母親がケラケラと笑っている。
ガヤガヤと何だかうるさいので外なのだろう。
「今、どこ?」
『羽田。これから飛行機乗ってお父さんと沖縄行ってくるから』
「はあ?!」
ちょ、父よ。会社はどうした?
『お土産はちんすこうね~』
言うだけ言って、ガチャリと電話が切れた。
私は電話を見つめながら、
「本当、何でもアリだな...」
と我が母のことながら、感心してしまう。
ふと、焦げ臭い匂い。
「ぎゃあ、煮付け?!」
私は叫びながら、カレイの煮付けに戻った。
その日、晴哉さんが帰ってきたのは8時過ぎだった。遅いときはもっと遅いらしく、今日は比較的早い方らしい。
「定時は、そんなにないかも。ごめんね」
着替えながら、晴哉さんにそう謝られた。
昨日より、敬語がなくなっているのは、慣れたからだろうか。
まあ、一緒に寝てる(カイン付き)し。
少しは親密にもなるよなぁ。
その砕け方が嫌じゃなくて、寧ろ嬉しく感じるのは、私、もうどっかしらこの人に惹かれてるんだろうなぁ、と自覚せざる得ない。
「ごめんなさい、カレイの煮付け、少し焦げて」
「そう? 美味しいよ」
二人で食べる食事は、思ったより楽しい。
「会社で扶養申請出したら、驚かれたよ」
「そりゃ、そうでしょうねぇ」
少なくとも二ヶ月前に離婚で、色々届けの変更もしたのだろうし、まさか舌の根が乾かない内に再婚だなんて、思いもしないだろう。
「カインと結婚したのかなんて言われた」
「ははは!」
確かにカインは女の子だし、晴哉さんの可愛がりようならそう思われることもあるだろう。
「今日はどうだった?」
「ん? 普通に家事してたら、あっという間に1日過ぎちゃった。専業主婦ってもっと楽なのかと思ったよ」
本当、時間の過ぎる早さに驚いた。
「そう。きっと慣れたら自分の時間も作れるよ」
「え、そうしたら私、昼寝しそう」
「はは、してもいいよ。夜、俺にお帰りって言ってくれるなら、何しててもいいよ」
あ、初めて自分のこと、俺って言った。
そう思ったけれど、それ以上に言葉の内容に思わず胸が痛くなる。
この人、今までお帰りって言われてなかったのかな。
言われていたら、こんなこと言わないだろう。それに、嫁の親と同居していたら、挨拶位、交わさなかったのだろうか。
思ったことが顔に出ていたらしく、晴哉さんはやんわりと苦笑した。
「憧れてたんだ。奥さんがご飯作って、お帰りって言ってくれて、他愛ないこと食卓で話したりするの。
子供の時から、そんなことなかったから」
結婚してたのに?
「前の奥さんは、有能で仕事も出来る人だったから。彼女のしたいことに比べたら、俺の憧れなんて些細なものだし」
この人、凄く優しいんだ。
優しすぎて、自分のしたいことより、人のことを考えすぎてしまう。
何て損な性分だろう。
家族でご飯なんて、少しの自分のわがままで叶う夢なのに。
「そ、そんなこと言うと、今度、お父さんとお母さん、夕飯に呼んじゃうから!」
やばい。
声が涙ぐんだ。
必死に咳払いでごまかそうとしたけれど、出来てないのは、丸わかりだ。
晴哉さんは私をじっと見ながら、囁くように言う。
「俺、まさか、家を買おうとして、家族が出来るなんて思わなかったんだ。
珠希さんには、いきなりだったろうけど、お義父さん、お義母さんと話して、こんな家族思いの人たちと、自分も家族になれたら、って思って......」
やめて、それ以上、言うな。
言わないで。
気づいたら、ご飯途中なのに、ボロボロと泣いていた。
そう、私のお父さんとお母さん、凄い素敵なの。仕事やめて定職つけない一人娘のことをなんだかんだいいながら、それでも労ってくれて。
私の家って、家族って、ありふれた当たり前の家だけど、私にとってはかけがえのない家族で。
そういう暖かさに惹かれたなんて、寂しそうに言う人の心の内なんて理解できないけれど、そういう暖かさに餓えていたのかって、思うだけで胸が苦しくなる。
私にとって当たり前に享受していたことを、今までずっと欲していた人が、今、目の前にいて、こんな焦げたカレイでも喜んで貰えたら、私の簡単な涙腺は直ぐに崩壊だ。
「珠希さん、俺と結婚してくれてありがとう」
晴哉さんが立ち上がり、テーブル脇を通って私の横にくると、ギュッと私を抱きしめて、そう言った。
ふと、夕方の母の電話を思い出す。
『幸せになりなさいよ』
それは私だけじゃなくて、きっと晴哉さんにも向けられた言葉なんだと気づいた。