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「針子の娘が宰相の妻など」と嗤われた私、仕立て直した礼服の糸目から、宮廷の陰謀を一つほどいてしまいました

作者: 歩人
掲載日:2026/06/15

 布の声が、聞こえなかった。


 いつもなら、指の腹を縫い目に這わせれば、布のほうから語りかけてくる。誰がどんな手でこの一着を仕立てたか、どこを急いで、どこを丁寧に縫ったか。継ぎ目の段差を辿るだけで、わたしには見える。それなのに、この館に入った瞬間から、布が押し黙ってしまった。手のひらの下で、ただの平らな布になっていた。


 わたしの指先が、強張っているせいだ。緊張すると、布の声が遠くなる。撚《よ》りの先が割れて、糸が針の穴の縁に引っかかる。指の腹で布を探るときには一度も外したことがないのに、この館では、わたしの手は他人のもののようだった。


 与えられた作業部屋は、嫁入りの祝いの間というには簡素すぎた。窓が一つ、机が一つ、それから母譲りの裁縫箱が一つ。宝石箱は持ってこなかった。持っていないのだから、当然だった。


 ローゼンタール家は、針子の家だった。


 祖母の代まで、宮廷の御用を細々と請け負う仕立て屋に過ぎなかった。それが二代がかりで下級貴族に取り立てられ、わたしの代になって、こうして宰相のもとへ嫁ぐことになった。派閥融和のため、と父は言った。要するに、駒だった。針子の娘という札を一枚、宰相という盤の隅に置く。それだけのことだ。


 扉が音もなく開いた。


 わたしは立ち上がろうとして椅子の脚に膝をぶつけた。針が手から落ちる。それを拾おうと屈んだとき、革靴の影が机の前まで来ていた。


「無理に起立しなくていい」


 声は低く抑揚がなかった。顔を上げると、灰青の上着を隙なく着こなした男がわたしを見下ろしていた。銀がかった黒髪。動かない表情。これがアドラー・フォン・ヴェンツェル——この国で最も食えぬ男と噂される宰相か、と思った。


「ネリーと申します。本日より——」


「知っている。書面で読んだ」


 彼はそれだけ言って、わたしの机の上に視線を落とした。裁縫箱、布見本、糸の束。何の値打ちもない道具を、彼はしばらく眺めていた。何を考えているのか、まるで読めない。微笑むでもなく蔑むでもなく、ただ無関心な水面のような目だった。


「退屈しのぎに縫っていろ。屋敷の者の繕い物くらいは、あるだろう」


「縫い物は、退屈しのぎではございません」


 言ってから、しまった、と思った。けれど口は針より先に動く。それがわたしの悪い癖だった。


 彼はわずかに視線を上げて、わたしを見た。


「では、何だ」


「……仕事です。わたしの」


 彼は何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬、何かを見定めるような目をした。それからまた、無関心な水面に戻った。


 退屈しのぎ。


 その言葉が胸の浅いところに刺さった。けれどわたしは黙っていた。言い返したいことは山ほどあったけれど、言い返したところで指先がもっと冷えるだけだと、わかっていた。


「ありがとうございます」


 わたしがそう言うと彼は一瞬だけ眉を動かした。礼を言われるとは思っていなかった、というふうに。けれどそれもすぐに消えて、彼は背を向けた。扉が閉まる。


 残された部屋に、わたしの呼吸の音だけが落ちた。


 針を拾い直す。今度は、糸がすうと通った。指の腹に、布の声が、ほんの少しだけ戻ってきていた。




 社交の場というものに、わたしは向いていない。


 嫁いで半月、初めて呼ばれた宰相府の茶会で、わたしはそれを思い知った。広間には香水の匂いが層になって漂い、令嬢たちの扇が波打つように動いていた。誰がどの家の者で、誰が誰を嫌っているのか、わたしには見当もつかなかった。


 布のことなら、わかる。誰がどの織元の絹を着て、どの仕立て屋に頼んだか、肩の縫い目を見れば言い当てられる。けれど人の機微は、わたしにとって解けない結び目だった。


「これはこれは。宰相どのの奥方ではございませんか」


 恰幅のいい男が、扇の波をかき分けて近づいてきた。指輪をいくつも嵌めた手。如才のない笑み。けれど目は笑っていなかった。


「ザイフェルト伯爵にございます。お見知りおきを」


 わたしが会釈すると彼は声を一段張った。広間の半分に届くくらいの声だった。


「いやはや、針子の娘が宰相の妻とは。時代も変わったものでございましょう? 糸でも繕って、大人しくしておられるのが一番ですなあ。格というものは、身につけようとして身につくものではございませんから」


 扇の波が止まった。


 令嬢たちの視線がこちらに集まる。わたしの頬が熱くなった。針子の娘——それは事実だ。事実だから、否定できない。けれど『大人しくしておれ』の一言が、喉の奥でちりちりと燃えた。


「……糸を、繕うのではございません」


 気づいたら言っていた。声が震えていた。


「繕うのは、ほつれた糸です。伯爵さまのその上着の裾も、左の脇が一目、解けかけておいでですわ。お直しなさいませ」


 広間がしんと静まった。無音がわたしの肩に重く降りてきた。言ってしまった、と思った。母の小言が頭の中で再生される。——余計なことを言うんじゃないよ、ネリー。お前の口は、いつも針より先に動く。


 ザイフェルト伯爵の笑みが、ほんの一瞬だけ歪んだ。それからすぐ、彼は声を上げて笑った。


「これは手厳しい。やはり針子の娘は、目の付けどころが違いますなあ」


 笑いがさざ波のように広間に広がった。わたしを嗤う笑いだった。


 その夜、わたしは作業部屋に戻ってひたすら針を動かした。屋敷の女中の前掛けの繕い。それくらいしか、わたしにできることはなかった。けれど布を手にしていると、不思議と落ち着いた。布は嘘をつかない。人がどんなに繕おうと、糸目は本当のことを語る。


 夫が何を考えているのか、わたしにはまるで読めなかった。




 仕立て直しは、新調とは違う。


 新しい一着を縫うより、人が一度着た一着を直すほうが、ずっと多くのことを語ってくれる。解いてみれば、誰がいつどんな注文をして、どこを急がせたかが、糸目から透けて見える。わたしは『直し』の名手だった。新調の華やかさには敵わないけれど、裏方の仕事なら、宮廷の誰にも負けない自信があった。


 嫁いでひと月が過ぎる頃には、宰相府の繕い物は、ほとんどわたしの手に回ってくるようになっていた。


 最初は、誰も針子の娘を信用しなかった。けれど一度仕事を見れば、評価は変わる。ある日、若い文官が破れた上着を抱えて、おそるおそる作業部屋を覗いた。


「あの……これ、肘のところが裂けてしまって。新調する銭は、なくて」


「お見せください」わたしは布を受け取り、裂け目に指を這わせた。「ああ、これは継げます。裏から当て布をして、表は織り直しのように縫いますから、まず目立ちません」


「目立たない? こんなに裂けているのに」


「布の目を追って縫えば、糸が織り目に隠れます。お任せください」


 仕上がった上着を渡すと、文官は裂け目だったところを何度も指でなぞった。


「……どこを直したのか、わからない」


「それが、直しというものです」


 彼は深く頭を下げて、帰っていった。その日から、宰相府の者たちは、わたしを針子の娘ではなく、ネリーと呼ぶようになった。


「奥様。旦那様の式典用の上着、お直しをとのことです」


 マルタが、上着を抱えて作業部屋に入ってきた。古参の侍女で、丸くて小柄で、何でも知っているような顔をしている。


 わたしはアドラーの上着を受け取り、机に広げた。灰青の上等な礼服。仕立てそのものは一流の店のものだったけれど、肩の線が彼の体に合っていなかった。既製のまま着ているのだ。わたしは指の腹で縫い目をなぞった。肩から袖にかけての継ぎが彼の肩幅にわずかに足りない。


「……これ、肩が窮屈でしょうに。なぜ直しに出さなかったのかしら」


「さあ。旦那様は、装いに頓着なさらない方ですから」


 わたしは肩の縫いを解いて、彼の寸法に合わせて入れ直した。裏地の傷んだところを継ぎ、袖口のほつれを補う。手を動かしているうちに夜が更けた。蝋燭が一段細くなる頃には、上着は彼の体の形に生まれ変わっていた。


 翌朝、上着を届けに執務室へ上がると、アドラーはちょうど身支度を整えるところだった。わたしが直した一着を、彼は無言で羽織った。肩から袖へ、布がすっと馴染む。


「肩の縫いを、入れ直したのか」


「はい。窮屈そうでしたので。出過ぎた真似でしたら、お戻しください」


「いや」彼は袖を一度伸ばして、また下ろした。「楽だ」


 それだけ言って、彼は書類のほうへ向き直った。けれど扉を出る間際、わたしの背に声が掛かった。


「次から、私の礼服はお前が見ろ」


「……よろしいのですか。針子の娘の手で」


「布の話に、家柄は要らんだろう」


 わたしは、返す言葉を探して、見つからなかった。彼は振り返らなかった。けれどその一言は、社交界のどんな称賛より、わたしの胸に長く残った。


 数日後、マルタがまた茶を運んできて机の蝋燭をちらりと見た。


「奥様。この蝋燭、上等なものに替わっておりますね」


「え?」


「先日まで、安い獣脂のものでしたよ。それが今は、蜜蝋の上等なもの。誰が替えさせたか、見当もつきませんけれど」


 わたしは蝋燭を見た。確かに煙の匂いが違っていた。けれど、誰がそんなことを、と思った。わたしの作業部屋の蝋燭など、誰の関心も引かないはずだった。


「それに」マルタは茶を置きながら、独り言のように続けた。「旦那様、近頃あなたの直した上着しか、お召しにならなくなりましたよ。他にも上等な礼服はいくつもあるのに」


 わたしは針を持つ手を止めた。


「……たまたまでしょう。肩の合った一着が、楽なだけですわ」


「退屈しのぎに蝋燭を替える旦那様は、わたしも長年お仕えして、初めて見ましたけれどねえ」


「マルタは、旦那様に長くお仕えしているのよね」


「もう十五年になりますか」


「あの方は、どんな方なの。わたしには、まるで読めないの」


 マルタは茶器を片づける手を止めて、少し考えるように天井を見た。


「読めない方、ですよ。あの方の手の内を読めた者は、誰もおりません」彼女はわたしを見た。「だからこそ、奥様が読んでみせたら、面白いことになりそうですねえ」


「読むだなんて。わたしは、布しか読めません」


「布が読めれば、十分でしょう」


 マルタはそう言って、含み笑いを残して出ていった。


 わたしは蝋燭の灯りを、しばらく見つめていた。胸の奥が、なぜだか、くすぐったかった。




 宮廷御用の糸屋——フェンネル商会に、布の買い付けで出入りするようになって、わたしは一つの違和感に気づいた。


 商会には、注文台帳がある。誰がいつ、どんな色糸や布をどれだけ頼んだか、几帳面に記されている。わたしは布を選ぶついでに、つい台帳を覗くのが癖になっていた。職業病のようなものだ。良い注文を見ると、誰がどんな一着を仕立てているのか、想像が膨らんでしまう。


 その日、台帳の一頁がわたしの目に引っかかった。


 深い臙脂《えんじ》の絹糸。それを立て続けに、何人もの高官が注文していた。ザイフェルト派の名が、いくつも並んでいる。それも、ただの注文ではなかった。同じ臙脂の糸を、同じ商会から、同じひと月のうちに。


 臙脂の糸は、特別な糸ではない。けれど、これほど一斉に同じ色を頼むのは、おかしい。誰かが揃いの礼装をあつらえているなら別だが、それなら布も一緒に頼むはずだ。糸だけが、不自然に偏っていた。


「ご主人。この臙脂の糸、ずいぶん出ておりますのね」


 わたしが尋ねると、商会の主人は帳面をめくりながら答えた。


「ええ、奥様。それも妙な話でしてね」


「妙な、と申しますと」


「皆さま、糸だけお持ち帰りになるんですよ。布は要らん、糸だけくれ、と」


「布を頼まずに、糸だけ?」


「裏地の継ぎに使う、とおっしゃいましてね。お抱えの仕立て屋にやらせるんでしょうが、揃いも揃って同じ臙脂を、同じ月のうちに。わたしも長年この商売をしておりますが、こんなことは初めてですよ」


「その臙脂を頼まれたのは、どなたですか」


「ザイフェルト伯爵の派閥の、お歴々ばかりで」


 裏地の継ぎ。その言葉が、わたしの中で小さく光った。


 裏地は、表から見えない。人目に触れない場所に、揃いの糸で何かを縫い込んでいる——それが何人もの高官の礼服に、同じ時期に。布の話だ。なら、わたしにもわかるはずだった。


 わたしは商会を出て、館への道をゆっくり歩いた。考えはまとまらなかった。けれど指先は、なぜだか冷えていなかった。布のことを考えているときの、いつもの落ち着いた手だった。




 答えに近づいたのは、それから三日後だった。


 ザイフェルト派の若い高官の礼服が、急ぎの直しでわたしの手に回ってきたのだ。収穫祭の式典に間に合わせたい、という注文だった。わたしは礼服を広げ、裏地に指を這わせた。


 継ぎ目がおかしかった。


 裏地の脇に、新しい縫い目があった。臙脂の糸。表地と同じ仕立て屋の手ではない。針目の運びが違う。慣れない手が、急いで縫った跡だった。わたしは縫い目を一目だけ解いてみた。


 裏地と表地のあいだに、薄い紙が一枚縫い込まれていた。


 心臓が跳ねた。紙を引き出すと、それは書きつけだった。文面の一部しか見えなかったけれど、宰相の名と、謀反、という字が並んでいた。


 わたしは紙を元の場所に戻し、縫い目を整えた。何事もなかったように。けれど手は、もう冷えていなかった。冷えるどころか、熱かった。


 糸の偏り。台帳の符合。急な寸法直し。裏地の継ぎ目。——一本の糸を手繰るように、それらが頭の中でつながっていった。


 収穫祭の式典で、ザイフェルト派の高官たちが、揃いの臙脂の糸で密書を裏地に縫い込んだ礼服を着る。そして然るべき瞬間に『宰相が謀反を企てた証拠』として、それを衆前で暴く。宰相府から流れた密書、という体裁を整えて。


 密書は、一通あれば足りる。けれど、あえて何人もの裏地に分けて縫い込んでおけば、当日どの礼服から暴くかを直前まで伏せておける。誰かが先に検められても、別の一人から同じ証拠が出る。一通を握りつぶされる用心であり、目くらましでもあった。慎重な細工だ、と思った。慎重すぎて——同じ手が、同じ糸を、何着も繰り返してしまっている。


 偽の証拠だ。けれど衆前で暴かれれば、宰相は弁明の機会もなく、失脚させられる。失脚どころか——謀反の咎は、粛清に直結する。


 わたしは、夫が殺されようとしているのを、糸目から見てしまった。




 その夜、わたしはアドラーの執務室の前に立っていた。


 扉を叩くべきか、踵を返すべきか、迷った。わたしは針子の娘で、宮廷のことなど何も知らない。出過ぎた真似をすれば、夫の機嫌を損ねるかもしれない。けれど——黙っていれば、彼は死ぬ。


 扉を叩いた。


「入れ」


 彼は机に向かって書類を捌いていた。蝋燭の灯りが彼の横顔に陰影をつけていた。わたしを見ても、表情は動かなかった。


「珍しいな。夜更けに、何の用だ」


 わたしは、見たことを話した。臙脂の糸の偏り。台帳の符合。裏地の継ぎ目。縫い込まれた密書。順序立てて、布の言葉を、できる限り丁寧に。


「フェンネル商会の台帳に、ザイフェルト派のかたがたが、こぞって同じ臙脂の糸を注文した記録が残っております。布は頼まず、糸だけ。裏地の継ぎに使う、と。——その糸が、若い高官の礼服の裏に、密書を縫い込むのに使われておりました」


「密書の中身は、見たか」


「一部だけ。旦那様のお名前と、謀反、という字が」


「いつ、暴かれる」


「おそらく、収穫祭の式典で。宰相府から流れた密書、という体裁で」


 彼の手が書類の途中で止まった。


 最初、彼は何も言わなかった。けれど、その沈黙の質が、いつもと違った。いつもの無関心な水面ではなかった。何かが、その下で揺れていた。


「……なぜ、それを」


 言葉と言葉のあいだが、いつもより半拍、空いていた。書類をめくる音すら計算されているような人の、その間が、初めて狂っていた。全てを見透かしているはずの男が、言葉を探していた。


「私は、ザイフェルトが動いていることは掴んでいた。だが、証拠の運び方が読めなかった。人を使えば必ず尾を出す。書状なら必ず誰かの手を通る。どこにも漏れがない。——まさか、裏地とは」


 彼は筆を置いた。机の上で、いつも角の揃っている書類の束が、わずかに崩れたまま放られていた。彼はそれを直そうとして、直さなかった。整えることを忘れた手が、宙で止まっていた。それは怒りではなかった。もっと、剥き出しのものだった。


「……私は、自分が見落とすということを、長く忘れていた」


 それは、宰相の言葉ではなかった。一人の男の、素の声だった。手の内を誰にも明かさず生きてきた人が、たった一度、自分の弱さをこぼした声だった。


 わたしは息を呑んだ。


 この人は、いつも余裕の顔をしていた。けれど本当は、見落とせば死ぬ場所に、ずっと一人で立っていたのだ。誰にも頼らず、誰にも手の内を見せずに。蝋燭を替えさせたのも、わたしの直した上着しか着なくなったのも——きっとこの人は、自分の手がいつのまにか縫っていた一目に、まだ気づいていない。布を解いてみるまで、誰が何を縫い込んだか分からないように。


 わたしに、甘いことに。


「旦那様」


「……ああ」


「布は、嘘をつきません。人がどんなに繕っても、糸目は本当のことを語ります。だから——わたしに、繕わせてください。あなたを陥れる糸を、ほどくのは、わたしの仕事です」


 彼はわたしを見た。長いあいだ見ていた。それから、ほんの少しだけ、目を細めた。


 笑った、のだと思う。たぶん、彼自身も気づかないくらい、わずかに。




 収穫祭の式典は、大広間で行われた。


 王が玉座につき、その前に高官たちが居並ぶ。ザイフェルト派の面々が、揃いの礼服を着ているのが、遠目にもわかった。裏地に臙脂の糸の縫い目を隠した、あの礼服だ。


 式典の前夜、わたしはアドラーの礼服を最後に検めていた。彼が選んだのは、わたしが直した一着だった。


「本当に、わたしを式典へ連れてゆかれるのですか」


「ああ」


「針子の娘が宰相の妻として連なるなど、また嗤われます」


「嗤いたい者には、嗤わせておけ」彼は襟元を直すわたしの手元を見ていた。「お前が来ねば、見えるものも見えん」


「……怖くは、ないのですか。明日、あなたを陥れる手が動くのに」


 彼はしばらく黙っていた。蝋燭の灯りが、彼の横顔で揺れた。


「怖いさ」彼は静かに言った。「だが、お前が裏地を読んだ。なら、もう私は一人ではない」


 わたしは針を持つ手を止めた。胸の奥が熱くなった。


「お前の目が要る」彼はそう言って、わたしを見た。「明日、私の隣にいろ」


 末席の身でありながら、わたしは宰相の隣の席を許された。本来あり得ないことだった。けれど、もう誰も、それを止めはしなかった。


 式典の半ば、ザイフェルト伯爵が進み出た。声を張り、王に向かって恭しく頭を垂れる。


「陛下。畏れながら、申し上げねばならぬことがございます。宰相アドラー・フォン・ヴェンツェルに——謀反の疑いがございます」


 広間がどよめいた。アドラーは、玉座の脇で身じろぎもしなかった。


「証拠は、ここに」ザイフェルトは芝居がかった仕草で、近くの高官の襟元を指した。「宰相府より流れた密書。この者の礼服に、何者かが縫い込んでまいりました。——裏地を、お検めください」


 高官の礼服が解かれ、裏地から臙脂の糸の継ぎ目が現れる。中から宰相の名の記された書きつけが引き出された。広間が再びどよめいた。王の眉が険しくなる。


 粛清の影が、アドラーの上に降りかかろうとしていた。隣に座る彼の横顔を、わたしは見た。表情は動かない。けれど、机の下で握られた拳が、白くなっていた。


 そのとき、アドラーが静かに立ち上がった。


「陛下。その証拠の真贋、妻に検めさせていただけませぬか」彼の声は乱れていなかった。「布のことなら、宮廷に妻ほど確かな目はございません」


 広間がどよめいた。針子の娘に、という嘲りの気配が走る。けれど王は、わずかに顎を引いた。発言を、許す仕草だった。


 アドラーがわたしを見た。お前の目が要る、と前夜に言ったあの目だった。


「お待ちください」


 わたしは、立ち上がっていた。


 声が広間に響いた。震えてはいなかった。布のことを話すとき、わたしの手はいつも落ち着いている。今もそうだった。


「針子の娘が、何を申すか」ザイフェルトが嗤った。「奥方は、糸でも繕っておればよろしいものを」


「ええ。糸を、繕っておりました」わたしは進み出た。「だからこそ、その糸目がおかしいと、申し上げております」


「糸目だと?」


「縫った手の癖は、糸目に出ます。誰が縫ったか、いつ縫ったか、急いだか丁寧か。布は、嘘をつきませんので」


 ザイフェルトの頬がわずかに引きつった。けれど彼はすぐ、王のほうへ向き直った。


「陛下。針子の世迷い言にございます。お聞きになる価値も——」


「申してみよ」


 王の声が、ザイフェルトの言葉を断った。広間が、しんと静まり返る。無音が、わたしの肩に降りてきた。けれど、不思議と怖くなかった。


 わたしは王に向かって、頭を垂れた。それから、できる限り澄んだ声で言った。


「陛下。その密書を縫い込んだ針目は、宰相府の針箱の糸では引けません。宰相府の繕いは、すべてわたしの手を通ります。あの臙脂の糸を、わたしは一度も注文しておりません。——あの糸は、フェンネル商会の台帳に、ザイフェルト派の高官がたが、こぞって買い求めた記録が残っております」


 ザイフェルトの顔がわずかに強張った。


「裏地の継ぎ目を、ご覧ください。表地を仕立てた手と、密書を縫い込んだ手は、別物にございます。針目の運びが違うのです。慣れない手が、急いで縫った跡です。——そして、その慣れない手が同じ臙脂の糸を使った礼服が、今日この広間に、ザイフェルト派のかたがた何人もお召しでいらっしゃいます。裏地を、めくってごらんなさいませ」


 広間の視線が、ザイフェルト派の高官たちの礼服に集まった。


 何人かがあとずさった。


「宰相を陥れる密書を、わざわざ何人もの礼服に縫い込む必要が、どこにございましょう。一通あれば足りるものを。——これは宰相府から流れたのではございません。同じ商会で、同じ色の糸を、同じひと月のうちに買い集めた者たちが、揃いの裏地に縫い込んだのでございます」


 糸の偏りが、台帳が、針目が、すべてを語っていた。仕込んだ証拠が、そのまま仕込んだ者を指していた。布は、嘘をつかない。


「検めよ」


 王が静かに命じた。ザイフェルト派の高官たちの礼服を、その場で検めよ、と。臙脂の糸の継ぎ目が次々と暴かれていく。同じ手、同じ糸。それはもはや、ザイフェルト一派が示し合わせた細工以外の何ものでもなかった。


 ザイフェルト派の高官たちの礼服から、次々と臙脂の継ぎ目が現れた。どれも同じ糸、同じ針目の癖。一人、また一人と顔色を失い、あとずさっていく。揃いの裏地が、揃って彼らを指していた。


 ザイフェルト伯爵の如才ない笑みが、崩れていく。彼が宰相を陥れるために仕込んだ針目が、そのまま彼自身を縛る縄になっていた。


「これは——違う、私は——」彼の声が裏返った。「針子の娘の、世迷い言だ。糸の癖など、どうとでも——」


「どうとでも、なりません」わたしは静かに言った。「糸目は、繕った者の手を覚えています。布は、嘘をつきませんので」


「黙れ。黙れ、針子の——」


「伯爵さま」わたしは彼を見た。「その上着の裾、左の脇が解けかけておいでですわ。あのときと、同じところが」


 ザイフェルトの言葉が、喉の奥で詰まった。言い訳の続きは、もう誰の耳にも届かなかった。




 ゲロルト・ザイフェルト伯爵は、その日のうちに捕らえられた。


 謀反を仕組んだのは彼のほうだった。かつて宰相の座を争って敗れた遺恨が、こんな細工に化けたのだと、後で聞いた。けれどわたしは、彼のことより、夫のことばかり考えていた。


 広間の喧騒が引いたあと、アドラーがわたしの傍に来た。彼は、居並ぶ高官たちにも、王にも聞こえる声で、はっきりと言った。


「私の妻だ」彼はわたしの肩に、そっと手を置いた。「私が唯一、手の内を明かせる相手だ」


 広間が、しんと静まった。


 末席で、わたしの実家のローゼンタールの者たちが、呆然とこちらを見ていた。針子の娘を、駒として一枚、盤の隅に置いただけのつもりだった人たちだ。その駒が今、宰相の隣で、手の内を明かされる唯一の相手として立っている。


「あれが……あの、針子の娘が……」


 父の声が、どこか遠くから聞こえた。けれどわたしは、振り返らなかった。返す言葉も、もう持っていなかった。


 わたしは、夫を見上げた。


「旦那様。退屈しのぎは、ずいぶん役に立ちましたでしょう」


 彼は一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから今度は、わたしにもはっきりわかるくらいに目を細めた。


「……ああ。退屈しのぎではなかったな」


「ようやく、お認めになりましたのね」


「認めるも何も」彼は声を落とした。広間の誰にも聞こえない、わたしだけに向けた声だった。「最初から、わかっていた。認めたくなかっただけだ」


 わたしは彼を見上げた。いつも読めなかった顔が、今は少しだけ、読めた気がした。


「お前の目が、私を生かした。きみは——私の、ただ一人だ」


 お前、が、きみ、に変わっていた。


 わたしの指先は、冷えていなかった。




 館に戻ると、マルタが茶を淹れて待っていた。


 わたしが式典のことを話すと、彼女は丸い顔をいっそう丸くして、しみじみとうなずいた。


「ようやくですねえ」


「何が、ようやくなの」


「旦那様が、退屈しのぎとおっしゃるのを、やめなさったことですよ。蝋燭を替えて、奥様の上着しかお召しにならなくなって、それでもずっと退屈しのぎだとおっしゃっていた。——あの方は、ご自分が奥様に甘いことに、ようやくお気づきになったんでしょうねえ」


「気づいて、いらしたのかしら。本当に」


「さあ。半分も気づいておられないかもしれませんねえ」マルタは笑った。「けれど、それでよろしいんですよ。気づかないまま甘い殿方を傍で見ているのも、悪くないものでしょう?」


 わたしは茶のぬくもりを両手で包んだ。


 たぶん、あの人はまだ半分も気づいていない。蝋燭を替えさせたことも、わたしの直した上着しか着なくなったことも、自分が何をしているのか、本当のところはわかっていない。けれど、それでいい。気づかないまま甘い人を、傍で見ているのは、悪くなかった。


 わたしは作業部屋に戻り、針箱を開けた。


 今夜直すのは、彼の上着だ。袖口がまた少しほつれていた。わたしは臙脂ではない、宰相府の糸を選んで、針に通した。指先は、もう冷えていなかった。糸が、すうと穴を抜けていく。


 布は、嘘をつかない。


 この一着の継ぎ目は、わたしの手が引いたものだ。あの人の体の形に合わせて、一目ずつ。誰にも見えない裏地の奥で、わたしの針目が、静かにあの人を包んでいる。それを、あの人は知らない。


 針箱の蓋を、わたしはそっと閉じた。蝋燭が一段細くなって、上等な蜜蝋の匂いが、ほんのりと部屋に満ちていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 全てを見透かす腹黒な宰相が、針子の妻の前でだけ、たった一度、言葉に詰まる——そんなギャップ萌え溺愛を書きたくて、この一作を仕立てました。アドラーは、手の内を誰にも明かさずに生きてきた人です。だからこそ、ネリーの針が掬い上げた『読めない手』に出会ったとき、彼が初めてこぼした素の弱さが、いちばん書きたかった一場面でした。


 ネリーの賢さは、暗号でも算術でもなく、針仕事の中にあります。糸の偏り、台帳の符合、裏地の継ぎ目——彼女が触れてきた布の手触りが、そのまま宮廷の陰謀を一本ほどく目になる。賢い令嬢を書くとき、その賢さを地味な特技に閉じ込めず、彼女がいちばん得意な『手仕事』に載せたかったのです。布は嘘をつかない、という彼女の信念が、夫を粛清の縄からほどく。


 そして、彼は最後まで、自分がネリーに甘いことに半分も気づいていません。退屈しのぎだと言い張りながら蝋燭を替える人を、傍で見ている楽しさ——それを、惚れられる側であるネリーの目から書けたなら、嬉しいです。




◇◆◇ 「溺愛シリーズ(ギャップ溺愛)」 ◇◆◇




規格外の男が、有能な令嬢にただ一人だけ甘い——。

ヒロイン視点で描く、ギャップ萌え溺愛の短編シリーズです。

冷徹も、傲慢も、人外も、政略も——一作ごとに違う「彼」が出てきます。




毎週更新中!


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