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REPLAYER - 未解決の1% -  作者: 二晴


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第4話 1%の死角①

 検索欄の中に、自分の名前が残っていた。


 紫乃エマ。


 その四文字は、もうプロフィール欄に置かれた配信者名ではなかった。事件を探すための言葉になっていた。


 エマは、キーボードの上に置いた指を動かせなかった。


 ネットカフェの個室は狭い。低い天井、薄い仕切り板、使い込まれたリクライニングチェア、開けたばかりの紙パックのコーヒー。隣のブースからは、ヘッドホンの音漏れとマウスを叩く乾いた音が聞こえてくる。


 いつもなら、こういう場所は嫌いではなかった。配信後に少しだけ時間を潰したり、外で撮った動画の反応をこっそり見たり、深夜に自分の名前を検索して、見ないふりをしたかった悪口まで見てしまったりする。


 けれど、今日だけは違った。


 画面の白さが、やけに冷たい。


 エマは検索欄の文字列を一度消そうとして、やめた。消したところで、もう遅い気がした。自分が見なければ消えるわけではない。検索結果の向こうで、誰かが自分の名前を使って何かを探している。その事実だけは、画面を閉じても消えない。


 エンターキーを押す。


 読み込みの丸が回り、結果が表示された。


 最初に出てきたのは、見慣れたものだった。


 紫乃エマの配信チャンネル。プロフィール。過去動画の一覧。昨日までなら、胸の奥が少しだけ軽くなったはずのサムネイル。変顔をしている自分、コンビニの新商品を大げさに紹介している自分、視聴者に向かって早口で怒っている自分。いつもの自分が、検索結果の上から順番に並んでいる。


 その下に、ファンの投稿があった。


 《エマちゃん昨日の配信どうした?》

 《途中で切れたよね?》

 《寝落ち?》


 まだ、いつもの騒ぎに見えた。配信が途切れれば、視聴者は騒ぐ。少しでも声が震えていれば、心配もする。いつもなら、それを見て「大げさ」と笑えた。


 だが、次の投稿で指が止まった。


 《世田谷のニュース見た人いる? 昨日のエマの配信場所、あそこじゃね?》


 喉の奥が乾いた。


 スクロールする。さらに投稿が続く。


 《でも配信切れた時間やばくない?》

 《男の声入ってる切り抜きある》

 《これ警察に送った方がいい?》


 自分の名前が、もう自分の配信のためだけに使われていない。ニュース、世田谷、殺人、男の声、切り抜き。知らない単語が、自分の名前に絡みついている。


 投稿の一つに、動画リンクが貼られていた。


 タイトルは、勝手につけられていた。


 《【切り抜き】エマ配信が途切れる直前、男の声?》


 その下にも、短い言葉が並んでいる。


 《これ世田谷のニュースと関係ある?》

 《場所似てない?》

 《いや断定は早い》

 《でも時間が近すぎる》


 エマは、その文字列をしばらく見つめた。


 切り抜き。


 誰が、何を、切り取ったのか。


 あの時の自分は、怖かった。訳が分からなくて、息ができなくて、手が震えていた。画面を見ていた視聴者に返事をする余裕もなかった。暗い住宅街の空気、背中に貼り付くような寒さ、あの家の中から漏れてきた気配。その全部が、まだ体のどこかに残っている。


 それが今、誰かの手で数秒だけ切り取られ、タイトルをつけられ、字幕と丸印を足されている。


 エマは動画を開いた。


 画面は暗かった。手ブレで路面が揺れている。自分の息が入っている。コメント欄が画面端で流れていた。


 《なに?》

 《どこ?》

 《声した?》

 《エマちゃん大丈夫?》

 《誰かいる?》


 そこへ、編集された字幕が重なる。


 《※ここで男の声》


 エマは、顔をしかめた。


 そこまでして見たいのか。


 自分が恐怖で息を詰まらせていた数秒が、知らない誰かに一時停止され、音量を上げられ、繰り返し再生されている。震えた呼吸も、乱れた足音も、暗い画面のブレも、誰かの好奇心の餌になっている。


 動画の中で、低い男の声が入った。


 短かった。


 何を言っているかは、動画の音質ではほとんど分からない。それでも、エマの体は覚えていた。あの声が聞こえた瞬間の、空気の変わり方。自分の腕を掴んだ力。振り返る間もなく、現場から引き剥がされた感覚。


 名前は、まだ知らない。


 けれど、その男が自分をあの場所から遠ざけたことだけは、体が覚えていた。


 動画を閉じようとして、関連投稿が目に入る。


 《別アカの投稿なんだったの?》

 《現地行くなってやつ》

 《あれエマ本人しか知らない合図入ってたよな》


 エマは、画面を見たまま息を止めた。


 《でも本人アカじゃない》

 《じゃあ誰が打った?》

 《男が打ったんじゃね?》


 椅子の背に体を押しつける。


 別アカウント。


 あれは、ただの投稿ではなかった。現地へ向かおうとする視聴者を止めるためのものだった。自分が関わっていないとは言えない。けれど、自分の意思だけで打ったとも言えない。あの男が用意した端末。自分のスマホではない画面。本人アカウントではない場所。そこに入れた、常連にしか分からない合図。


 それがもう、掘られている。


 エマは唇を噛んだ。


 勝手に切り分けないで。


 そう思ったが、怒りをどこへ向ければいいのか分からなかった。視聴者にか。投稿を拡散している人間にか。あの男にか。それとも、あの場所に行ってしまった自分自身にか。


 画面の下で、新しい投稿が流れた。


 《エマちゃん今どこ?》

 《これ普通に行方不明じゃない?》

 《消えたってこと?》


 消えた。


 その言葉だけが、検索結果の中で妙に浮いて見えた。


 エマは画面から目を離した。


 昔、その言葉だけで、家の空気が変わった日があった。大人たちの声が低くなり、電話の音に全員が反応し、玄関が開くたびに誰かが息を止めた。いつ帰ってくるのか、どこへ行ったのか、誰といたのか。何も分からないまま、時間だけが過ぎていく。


 消えた人間は、最初からいなかったみたいに扱われるわけではない。むしろ、そこにいないまま、家の中のどこにでも残る。


 エマは、膝の上で拳を握った。昨日の配信、自分の名前、自分の身体に残っている恐怖。そう言い聞かせても、「行方不明」「消息不明」「消えた」という言葉が、古い記憶の蓋に指をかけてくる。そう簡単には、引き剥がせなかった。


 画面に戻ると、投稿はさらに増えていた。


 《通報した》

 《警察もう見てるだろ》

 《エマちゃん警察行って》

 《一緒にいた男誰?》


 警察。


 その二文字を見た瞬間、背中が冷えた。


 警察へ行くべきなのだと、頭では分かっていた。事件の近くにいた。配信が途切れた。知らない男に連れて行かれた。自分のアカウントではない場所から、自分にしか分からない合図入りの投稿が出た。説明することは山ほどある。


 でも、何をどう話せばいいのか分からなかった。


 あの男にスマホを取り上げられたこと。現場から車で連れて行かれたこと。自分が別アカウントの投稿に関わったこと。それが自分を守るのか、疑わせるのか。どちらになるかも、分からなかった。


 それに、エマは家の中を見ていない。


 見たのは、暗い外側だけだ。あの家の前の空気。車の音。自分の息。画面に映らなかった黒い部分。


 警察に行って、何を言うのか。


 私は、何も見ていません。


 その言葉だけで終わる気がした。


 エマは、もう一度切り抜き動画を再生した。今度は、字幕もコメントも見ないようにした。視線を少し外し、音と画面の隅だけを追う。


 画面の中で、低い男の声が潰れて流れる。影を追う誰かの丸印が、暗い路面に重なっていく。みんな、そこに何かがあると思っている。


 でも、これは切り抜きだ。


 誰かが選んだ数秒だ。誰かが大きくした音だ。誰かが意味を足した画面だ。そこに映っているものだけで、昨日の夜が決められていく。


 エマは動画を止めた。


 音が止まる。


 個室に、換気口の乾いた音と、隣のブースのマウス音だけが戻ってきた。


 机の端には、銀色の遮断バッグが置かれている。


 あの中に、自分のスマホがある。


 切り抜かれる前の配信。誰かが字幕を足す前の音。勝手に丸印を置かれる前の暗い画面。自分の息も、足音も、あの男の声も、途切れる直前の夜も、まだそこに残っているかもしれない。


 開ければ、通知が来る。


 着信も来る。コメントも、警察も、知らない誰かの言葉も、一斉に戻ってくる。


 それでも、画面の向こうに出回っているものは、もう全部、切り取られた後のものだった。


 エマは、遮断バッグを見つめた。


 昨日の夜を一番近くで持っているのは、警察でも、視聴者でも、切り抜きを作った誰かでもない。


 自分のスマホだ。


 銀色の袋の中で、まだ開けていない夜だけが黙っていた。


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