足跡
雪が降っていた。
少し湿った雪が宙を舞い、針葉樹の枝先に触れては滑り落ちてゆく。重みを思い出したように崩れ、音も立てずに消える。
降り積もった雪に境目はなく、深さだけが時の流れを示していた。太陽は姿を見せず、動物の気配も遠い。森は音を失い、時間は進みを鈍らせてゆく。
長い冬は、まだ始まったばかりだった。
彼女は小屋に暮らしていた。
森の縁にある母屋と、少し離れた薪小屋。そのあいだに井戸があり、森の中、今は凍った小川のそばに罠が置かれている。それらだけが、彼女の世界だった。
雪は、毎日同じように降った。
同じ、という言葉は正しくない。雪は毎日、違う形で落ち、違う重みで積もり、違う沈み方で足元に絡みついた。けれど森は、それをいちいち区別しなかった。白はただ増えていく。枝がしなり、幹が受け止め、地面が飲み込む。世界は変化を呑み込んでゆく。
彼女は何度も同じ道を歩いた。
罠へ向かう道。井戸へ向かう道。薪小屋へ向かう道。足跡はいつも残り、いつも消えた。足跡の残る時間は日ごとに短くなり、雪が輪郭を丸め、やがて白に回収してしまう。今日の足跡の上に、明日の足跡が重なることはほとんどない。彼女の歩みは、いつも白紙の上にあった。
小屋の中には、まだ燈が残っている。
炉の奥で縮こまった火は、燃えるというより、留まっていた。輪郭を持たず、奥へ退き、また戻る。灰を寄せ、乾いた薪を一本差し込むと、火は一度だけ暗くなり、しばらくしてから思い出したように息をする。火は急がされるのを嫌う。急ぐと、火は痩せる。痩せた火は戻らないことがある。黙った火は、冬にとって致命的だった。
外へ出ると、白が入り込む。
扉が開いた瞬間だけ、冷たさが音のように動く。けれどそれもすぐに沈み、世界はまた静かになる。
白は色を持たない。触れると、ただ冷たいだけだ。小屋の中に残る燈は、白と混じらず、境を保っている。
井戸小屋は、足元より一段高いところにある。彼女は雪に埋もれて短くなった階段を上がり、白を背に小さな井戸小屋へ入る。内側の踏み板を降り、井戸を覆う蓋を外す。縄を下ろすと、暗い底から水音が遅れて返ってくる。桶を引き上げると、縁に薄い膜が張っている。指先で剥がす。音は残らない。残らないことが、ここでは普通だった。
少女は森へ向かう。
針葉樹は互いの間に黒を抱え、雪はその黒を薄くする。薄くなるほど、黒は奥へ退く。森は遠くへ引き延ばされ、彼女の世界は広がるのではなく、同じまま、ただ遠くなる。遠くなる世界は、近くにあるものを希薄にする。吐く息さえ、すぐに白に溶けた。
罠は、いつも見に行くわけではない。
雪が深い日、風の強い日、白が音を失った日は、足を向けないことがある。行かないという決断をする前に、身体が向きを変える。行かない日が、いつのまにか続いている。罠は、見られなくてもそこにある。見られない時間のほうが長いことを、彼女は知っている。
小屋に戻ると、塩の匂いがする。
塩漬けの肉は、同じ味しかしない。噛んでも噛んでも、同じ塩気が残る。保存された味は、時間を引き延ばす。噛んでいるあいだ、世界は動かない。飲み下すと、また白が戻る。
薪小屋では、木の匂いが濃い。乾いた木は、匂いに角があるのだ。
薪は十分に積まれている。それでも彼女は、その山を長く見ない。見ていると、冬がどこまで続くのかを考えてしまう。
考えても分からないことが、ここではいちばん冷える。
日々は境界を失っていく。
朝と夜があるはずなのに、白の下ではそれが曖昧になる。明るさの差は微かで、風向きの変化も小さい。けれど彼女は、眠り、起き、火を見て、水を汲み、必要な日にだけ森へ行く。それで彼女の一日は終わる。終われば、次の日が来る。
ある日、罠に変化があった。
雪の下で、鉄がいつもと違う沈み方をしている。罠と木を結ぶ縄の向きが、少しだけずれていた。
彼女は近づき、雪を払う。
灰色が見え、毛の流れが途切れている。若い獣だった。身体は小さく、冬に削られている。目は閉じ、息はない。
彼女はしばらく立ったまま、それを見ていた。状態の確認は必要だが、急ぐ理由はない。消えてしまった火は、もう揺らがない。
縄を取り出し、獲物を引き寄せる。肩に担ぐには重く、引きずるには雪が深い。前脚を縛り、身体を起こす。
一歩進むたび、雪が沈む。沈んだ分だけ、重さが遅れて返ってくる。獲物の身体は揺れ、枝に触れ、けれども音を立てない。
小屋までの距離は短い。けれど、同じ距離を戻るより長く感じる。彼女は息を整え、歩幅を変えずに進む。急げば足が取られる。遅れれば、冷えが深くなる。
小屋が見えるころ、腕が重さを覚える。覚えた重さは、離れない。彼女はそれを降ろさず、小屋の外まで運ぶ。中へは入れない。白と燈の境が、ここでは大事だった。
脚を縛り、梁に掛ける。獲物を逆さにすると、重さの向きが変わる。毛皮に触れた雪が集まり、白が白を呼ぶ。赤はにじむだけで、流れない。流れないものは、すぐに色を失う。
刃を手に取る。刃は冷たく、手の熱を奪う。奪われる前に、動かす。
皮は静かに剥がれる。音は出ない。毛皮の内側にはまだ温度が残っていて、その温度が指に短く留まる。彼女は急がない。急ぐ必要がないことを、冬は知っている。
内臓を外す。手は自然と次の場所へ動く。血はほとんど落ちない。落ちる前に、冷えが先に来る。
開いて内臓を外した獲物は、しばらく、そのまま吊るしておく。雪がゆっくりと下へ向かう。時間が仕事をする。彼女はそれを邪魔しない。
やがて肉を下ろし、部位ごとに分ける。刃は同じ場所を二度通らない。四肢。背。腹。切り分けられた肉は、それぞれ違う重さを持つ。
彼女は、その一部を脇に分ける。今日使う分だ。残りは保存に回す。
残りの肉には、塩をすり込む。指が白くなるまで、何度も。さらに塩を重ね、表面を覆う。雪と同じように、白で上書きしていく。
小屋に戻り、今日使う分の肉を鍋に入れる。水を張り、火のそばへ置く。やがて湯気が立ち、匂いが小屋に満ちる。塩は、もう十分だった。
彼女は器を手に取る。湯気の向こうで、肉は形を失っていく。それでよかった。
外で、毛皮が風に揺れている。保存されるものと、今使われるもの。どちらも同じ重さで、彼女の中に残る。
夜が来る。闇は白を覆い、音を消す。だが、火はまだそこにある。
そして、吹雪が来た。
雪は横に流れ、風は音を失うほど強かった。森が傾く。白がすべての輪郭を飲み込む。彼女は小屋の中で、窓に背を向けて座った。外を見ないようにすることで、外を感じていた。火は低い音を立てながら息をする。木が軋む。風が壁を撫でる。そのたびに、世界が一歩ずつ近づいてくる。
どれほど時間が経ったのか分からない。音が消え、風が止む。
扉を押すと、外は静かだった。
雪は降りやんでいる。
空は白く濁り、遠くの木々の上に光が滲んでいた。
彼女は雪の上に立つ。足跡が深く沈む。その下から、氷のような水の匂いが立つ。
森の奥で、鳥が一声だけ鳴いた。それに合わせるように、空の色が変わる。
灰の中に、かすかな青が差していた。春は、まだ遠い。
彼女は息を吸う。胸の奥で、冷たい空気が少しだけ温まる。手の中の感覚が戻る。
歩き出す。
足跡は白に沈み、すぐに消える。だが、足跡が消えても、彼女は立ち止まらない。
冬はまだ終わっていない。
それでも、前に進める。




