8、無断欠勤により、なぜか外交交渉が進展した
今日は出勤するつもりだった。
本当だ。昨日の夜までは。
ちゃんと目覚ましもセットしたし、制服もハンガーにかけて、靴も軽く磨いておいた。
つまり、意思はあった。準備もしていた。出る気、満々だった。
でも、朝。
目覚めて、カーテンを開けて、空を見た瞬間に思ったのだ。
「これは……休みの日の空だな」と。
青くて、広くて、どこまでも高い空。雲の流れが緩やかで、空気が柔らかくて、鳥の鳴き声まで優しかった。
こんな日をわざわざ屋内の人工灯の下で過ごすなんてもったいない。
誰にでもあるだろう、そういう“空気の読み取り”。
私には、世界の空気を読む力がある。
これはもはや特殊技能であり、生存戦略のひとつである。
というわけで、今日は休みを取ることにした。
申請? していない。でも思い立ったが吉日とはよく言ったもので、私は思い立った瞬間に行動できるタイプの大人である。
つまり、実質的に行動力が高い。評価されるべき部分である。
朝のうちに、軽くおにぎりを握った。
梅と、鮭と、塩。どれも王道。今日は豪華に海苔も巻いた。
ちょうど天気もいいので、裏山の丘に登って、レジャーシートを広げて、ピクニック気分でお昼を取ることにした。
空はやっぱり高くて、風はやわらかい。
陽の光がふんわりと頬に触れて、ちょっとだけ眠くなるくらいあたたかかった。
最近、隣国との外交が緊張気味でピリピリしていたけれど、そんな空気とはまるで無縁の、のどかな日だった。
一方そのころ、第七支部では――
「……リュカがいない?」
「報告もなしに? まさか、また何かやらかしたのか?」
「いえ、今のところ異常は確認されていません。ただ……」
「ただ?」
「……周囲の魔力濃度が、平常時より不安定です」
「……」
「外務課より緊急連絡! 外交使節団が、予定より三時間早く到着しました!」
「は? またなんで……」
「“リュカを出せ”と……強硬に要求してきてます」
「……」
「……あいつは、いてもいなくてもトラブルを呼び込むな」
私はというと、そんな混乱などまったく知らず、のんびりとお茶を飲んでいた。
今日はほうじ茶。やや香ばしい。
鳥の声が近くでした。スズメ。小さくてかわいい。
自然の中にいると、余計なことを忘れられていい。
文明の恩恵はありがたいけれど、やっぱり私はこういう静かな時間が好きだ。
おにぎりも食べ終わったし、お茶も飲み終わった。景色も堪能して、そろそろ帰るか、と準備を始めた頃だった。
下の道で馬車が止まる音がした。わりといい音の車輪だったので、おそらく貴族か外交系の馬車だろうと思った。
しばらくして、マントを翻すひとりの男性が馬車から降りてきた。
装飾の細かいマント。やたらとピカピカに磨かれた剣。
見るからに“偉い人”の風格だった。空気が一瞬、引き締まったような気さえした。
彼は、私の姿を見つけると、すっとまっすぐに歩いてきた。
「……あなたが“リュカ”様でしょうか」
「あ、はい。休暇中ですけど、何か?」
自然な応対だったと思う。事実、休暇中なのだから。
彼は私の言葉に深く頷き、そして目を伏せたまま、静かに一礼した。
礼の仕方に慣れている人間の動きだった。
「このたびのご判断、大変感謝いたします。あなたの“沈黙の圧力”が、我が国をして対話の場へと導きました」
「沈黙の、圧力?」
「はい。我が国はこれまで、貴国における“あなたの存在”そのものを軍事的威圧と見なしておりました。
あなたは、“ただ座っているだけで、ダンジョン一層が沈む”などという噂が数多く伝わっておりますゆえ……」
そういえばそういう話、どこかで聞いたことがあったかもしれない。
根も葉もない話だけれど、私の纏う重厚な雰囲気が原因かもしれない。やれやれ。
「ですが、今日あなたが姿を見せなかったことで、我々はついに悟ったのです……!
これは『剣を収め、対話せよ』という、あなたなりの沈黙による圧力だと!」
「なるほど、そうだったのかもしれませんね」
多分褒められている。
意味はよく分からなかったが、褒められるのは悪くない。適当に相槌を打っておいた。
彼は感極まったような顔で、護衛に耳打ちしていた。
「やはりこの者……一挙手一投足が戦略か……」という言葉がかすかに聞こえたが、多分くしゃみか何かだと思う。
そろそろ花粉の時期だし。体調には気をつけてほしい。
午後、支部に戻った。
扉を開けた瞬間、みんなの視線が集まった。
誰も声はかけてこなかったけれど、全員、目だけがこちらを見ていた。
その中で、経理の人がそっと封筒を差し出してきた。
いつもの報奨金のやつ。今日はまた……けっこう厚い。ちょっと嬉しい。
「またなにかやらかしたのか?」
ケイが、呆れたような、恐れるような顔で訊いてきた。
「いえ、今日はただ休んでただけです」
「……どうかな」
彼は肩を落とした。
あきらかに信じていない顔だった。
きっと、同僚として普段から私を見ている彼には、私に「何の功績も残さない日」があるというのが想像できないのだろう。
私と比較して落ち込むとかわいそうなので、「私も君と同じ人間ですよ」と慰めておいた。
ケイは、意味がわからないという顔をしていた。
こうしてまたひとつ、世界は平和になった。
私は思う。休むこともまた、立派な貢献なのだと。
でも、セシルさんに「無断欠勤」だとすごく怒られたから、次からはちゃんと申請しようと思う。
たぶん。
きっと。
……いつか。