4、地下五層が消えた日
今日は、静かでいい日だった。
空気の音が澄んでいて、耳にやさしい一日。
耳にやさしいということは、心にもやさしい。そういう相関関係が、世の中にはある。
やっぱり、環境って大事だと思う。
健康は静けさから。私はそう信じている。騒音はストレスの根源。無音こそ、最良の癒やし。
だけど、出勤直後。少しだけ、気になることがあった。
どこかから、「ヴゥゥゥゥ……」という、低く響く音が断続的に鳴っていた。
最初は、地下の風かな、と思った。古いダンジョンでは、空気が迷い込んで、唸ることがあるから。
でも、耳を澄ますとわかってくる。あの音には、風の気まぐれさがなかった。むしろ、規則正しい。人工的で、理詰めの響き。
それに、よく見ると床が、わずかに震えていた。目には見えないけれど、足の裏で感じる鼓動のような揺れ。
「地震かな?」と思って、「机の下に避難すべきか」と一瞬考えたけれど──この机は石でできているので、崩れてくる側だった。避難所としては不適格。むしろ危険物。
ならば、問題の根っこを探すところから始めるのが、筋というものだ。
私は静かに歩き出し、音の発生源を探して地下へと降りた。
──数分後。
地下制御層の隅っこで、“魔力圧縮ポンプ”と書かれた大きな機械に出会った。
パイプがびっしり突き刺さった鉄の塊。まるで無口な生き物のように、青いランプを点滅させながら唸っていた。
どうやら、魔力の流れを調整する装置らしい。たしかに、それっぽい形をしていた。
しかし──音がうるさい。
せっかくの静かな職場に、不協和音。これは見過ごせない。私は癒やしを求めてここに来ているのだ。
ふと見ると、機械の脇にレバーがあった。その上に、丁寧にこう書かれていた。
【※緊急停止時以外は操作しないでください】
うん。緊急ではない。たしかにそうだ。
だけど、静寂の喪失は、私にとって非常事態である。
私は、優しく──でも、しっかりと──そのレバーを引いた。
音は、止まった。
ああ、これだ。
世界がひとつ呼吸を整えたような、すがすがしい静けさ。
「静かになってよかったなあ」と、私は心の底から思った。
これで、今日は一段といい仕事ができそうだ。
心地よい環境が、良質な成果を生む。それが私の仕事論。
⸻
「地下五層が……消えましたああああああっ!!」
悲鳴のような叫びで目を覚ましたのは、昼のチャイムが鳴った直後だった。
お昼寝の時間を終えたばかりの私に飛び込んできたのは、あらゆる意味で全力疾走のケイだった。
廊下を走る足音。開け放たれる扉。額には汗、目には焦燥。
ケイが、荒い息を整えぬまま、私のデスクに詰め寄る。
「リュカ……まさか、制御層に行ったか? 今朝」
「はい。騒音がひどかったので、止めておきました。これくらいのことで感謝されてもてれるので、報告しそびれてました」
「止めた……!? ポンプを……!?」
「はい。静かになって快適でしたよ。騒音って、健康に悪いですしね」
ケイの顔が、一瞬で変わった。
信じられないものを見る目。というか、見ていた。たっぷりと。
「……そのポンプは、第五層の封印結界のコアなんだよ……!」
「まあ」
「まあ、じゃない!! 封印が解除されて、層ごと異界に落ちたんだ!! マナ断層が崩れて、次元の継ぎ目が──!」
「ふむ……。それで静かだったんですね。納得しました」
「納得するな!!!」
⸻
数時間後。
私は、支部長の部屋にいた。
椅子に姿勢よく座り、お茶を飲みながら、上司の言葉に集中する準備を整えていた。
姿勢は誠実さのあらわれ。態度は信頼の種。
「……リュカ君」
「はい」
「私はこれまで、君に何度も言ったと思うんだ。“君が何もしなければ、ダンジョンは平和”だと」
「はい。ですが、なにもしないなんて、申し訳なくてできません。私、真面目なので」
「……っ……!」
支部長の手が、机の上で小さく震えた。
目が、わずかに潤んでいる。きっと、私の働きぶりに感動してくれているんだと思う。
真面目な人ほど、他人の真面目に弱い。よくある話だ。私も真面目だから、よくわかる。
だから私は、そっとカバンから取り出して、耳栓を差し出した。
「支部長も、よかったらこれ使ってください。無音の世界って、けっこう素敵ですよ」
支部長は、無言で天井を見つめたまま、まったく動かなかった。
言葉では表現しきれない何かを噛みしめているのだろう。感情の深さは、沈黙にも宿る。
⸻
その日、私は静けさの価値を、あらためて胸に刻んだ。
音のない時間は、何よりも穏やかで美しい。
明日は、他の階層の音もチェックしてみようと思う。
もし耳障りな機械があったなら、私が責任をもって、優しく、でもしっかり止めてあげたい。
気遣いとは、気づくこと。
そして、気づいたなら、行動すること。それが、真面目な社会人の在り方だ。
私は今日も、真面目だった。