39、世界が平和になった
朝、いつも通りに起きた。
特別な夢は見なかった。
でも、ちゃんと起きられた。それだけで十分だ。
茶を淹れて、パンを焼く。
蜂蜜はちょっとだけ。入れすぎると、途中で甘さに飽きてしまう。絶妙なバランスが求められるのだ。私は朝から高難度のミッションをこなしている。たぶん偉い。
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支部に着くと、机の上に見慣れない報告書が山になっていた。
色とりどりのインデックスがついていて、製本もきれい。印刷のにおいがまだ新しい。
知らない表紙、知らない様式。だけど、分類は完璧。角も揃っていた。
たぶん、誰かが夜遅くまで頑張ったんだろう。誰かはわからないけれど、報われてほしい努力だった。
「リュカ、見てくれ」
隣の席から、同僚が資料を片手にこちらを振り返る。
「西部連邦の評議会が、“参考行動モデルA”としておまえの行動マニュアルを正式採用したらしいぞ」
「へえ」
「あと南部帝国もだ。あと中央同盟、あと……いや、これ全部じゃないか?」
「そうなんですか。みんな働いててえらいですね」
世界には、想像以上に働き者がいるらしい。がんばってる人は素直にえらいと思う。
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報告書の中には、各国の情勢についての記述があった。
・交渉が早く終わった
・予算配分で揉めなくなった
・人が怒鳴らなくなった
・戦争が“めんどくさい”からやめようという案が通った
特に最後のやつは、妙に納得感があった。めんどくさいのは確かにやめたくなる。
人間も魔族も、その辺は似たようなものなのかもしれない。
ちなみに、魔王との戦争もいつの間にか終了していたらしい。初耳だった。
そういえば最近、職場の給湯室で妙にオーラの強い人が紅茶をいれてるなと思ってのぞいたら、魔王だった。正式に採用されたらしい。「教えてくれたらよかったのに」と言ったら、ちょっと恥ずかしそうに「サプライズがしたかった」と言っていた。この人、けっこうお茶目なところがある。
今は普通にうちの支部で働いている。書類の扱いは丁寧。
この間、元・魔王軍の副官であるガルヴァさんと一緒にアフタヌーンティーに誘ったら、ノリよく来てくれた。ホテルのスコーンを絶賛していた。人間ってやっぱり、食を通して仲良くなれる。
あと、どこかの宗教国家では「祈りの時間より昼寝を推奨すべし」という教義の改正案が提出されたらしい。
きっと真面目な顔で言ったんだろうな。想像するとちょっと笑えてくる。
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それから、うちの職場の様子も少しずつ変わってきていた。
なんとなくみんなの顔色がよくなって、まゆの角度がやわらかくなった。
イライラする人が減って、休憩の紅茶タイムがちゃんと「休憩」になっていた。
「リュカ式行動基準は、我々が本当に必要としていた規範だったのかもしれない」
「真似してるうちに落ち着くって、なんなんだろうな……」
「つまり、“無理をしないこと”が一番効率的ってことだ……」
みんな難しい顔で、なにかを悟っていた。
私は、床に落ちていた付箋をひとつ拾って、静かに元の場所に戻しておいた。
落ちてたら拾う。ずれてたら揃える。そんなことの積み重ねで、世界って意外と整っていくのかもしれない。
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夕方になって、ケイが空を見ながらぽつりとつぶやいた。
「……戦争がなくなった。争いが消えた。長年放置されてきた世界の歪みも直った。全部、こいつのおかげなんだよな。すごいことなのに、本人がまったくピンときてないのが腹立つ。でも、そういうところなんだよな……」
そのとき私は、蜂蜜の瓶を片づけていた。瓶のフタが少しかたくて、途中でタオルを使った。
ふと横を見たら、ケイが両手で頭を抱えていた。やっぱり一人で悩んでいるらしい。
「何か悩んでるなら、聞きますけど?」と声をかけたら、
「いや……いい……」と返ってきた。たぶん話す準備ができてなかったのだと思う。そういうときは、無理に聞かない。私は気遣いのできる大人だから。
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帰り道。空はとても静かだった。
風も優しくて、遠くから子どもの笑い声がしていた。
犬の散歩をしている人とすれ違った。犬はこっちを一瞬見たあと、なぜか一礼していった。きっと気のせいだ。
道ばたに、白い花が咲いていた。
去年も、たしか同じ場所に咲いていた気がする。
思い出せるくらいには、ちゃんと同じ道を歩いていたんだと思う。
世界は変わった、らしい。
でも私は、いつも通りに書類をまとめて、湯飲みを洗って、ちょっとお菓子をつまんだだけだった。
だから、私自身は何も変わっていない。変わらないまま、世界が落ち着いた。
変わらないって、案外すごいことなのかもしれない。
だって、変わり続ける世界の中で、それを支えてるのは“いつも通り”の積み重ねなんだから。
明日もきっと、茶を淹れて、パンを焼いて、蜂蜜を少しだけ。
そんな一日になるといい。




