29、勤務評価が“国家予算級”になった
朝。支部に着いたら、私の机がなかった。
正確には、机そのものはあった。けれど、いつもの場所にはなく、私の手の届かないところへと移動していた。
最初の数秒は本気で、「ついに机が反乱を起こしたのかもしれない」と思った。意思を持ち、自立し、職務放棄を選んだのかもしれない。そんな時代が来たのかと。
でも、現実はもう少し現実的だった。床には、コードの跡と、以前こぼしたコーヒーの染みが残っていた。確かにそこに机はあった。つまり、誰かが意図的に動かしたということだった。
犯人は、どうやら総務だった。
「特別対策ユニット勤務相当の環境整備」とかいう名目で、私の机ごと立派な区画へお引っ越ししていたらしい。
個室ではないけれど、パーティションが高い。そして天井からは謎のクリスタル球体がぶらさがっていて、たまに光る。魔力検知装置らしいけど、私に魔力はないのでたぶん意味はない。
「私、本当にここにいていいのかな」と一瞬だけ思ったけれど、たぶんもういいことにされたのだろう。
ならば仕方ない。
とりあえず、昨日のパンの袋を丸めてゴミ箱に捨てた。これはもう習慣なので、机の場所がどこでも変わらない。
次に、机の上のメモを確認する。付箋だらけで机の色が見えない。もはや地層のようだった。
一枚ずつ剥がし、判読できるものから優先順位をつけていく。その中に、「人事評価の見直しについて」と書かれたものがあった。さらにその下には、「リュカ:国家予算級に認定」という赤字の走り書きが。
意味はよくわからなかったけど、どうやら評価が上がったらしい。
私の努力が報われたのだと思う。……努力なんて、あまりしてないけれど。
⸻
「ちょっとリュカ、聞いてるの!? あんた、今年度の稼働ポイント、魔導州一位よ!」
そう叫びながら廊下を走ってきた同僚が、私の前でスライディング気味に止まった。
手にはタブレット、目はギラギラ、足元はスリッパだった。
私はちょうど、シュレッダーに詰まった書類をピンセットでつついていたので、顔だけ上げて返事をする。
「へえ。そうなんですか」
「“へえ”じゃないわよ! 国家予算級になったって言ってたでしょ!? あんた一人で、小国ひとつ分の予算を動かしたことになってるのよ!? どうやったのよ……」
「机に座って、やることをやってただけです」
どうやら、それがいけなかったらしい。
私の“やること”の範囲が、誰かの想定を大きく超えていたようだ。
でも、私自身はよくわからない。
支部長が投げた書類を拾って、補完して、手続きを済ませて、お茶をいれていただけのつもりだった。
もしかすると、私のまだ知らない才能を見抜いた誰かがいたのかもしれない。
⸻
午後、人事部の人がやってきた。
しわひとつないスーツに、くもりのない眼鏡。靴は床に映るほど磨かれていた。
その人は私の新しい机を一通り見渡したあと、まっすぐにこう言った。
「あなたの本庁への異動を検討中です」
──あ、これは断るやつだ。直感でそう思った。
本庁といえば、首都のど真ん中にある巨大な施設。
空調は完璧で、魔導式の自販機まであると聞いたことがある。でも、私はこの支部が好きだ。
コーヒーは薄いし、支部長はすぐ書類を破くし、天井はたまに雨漏りするけれど、それでも落ち着く。
だから私は、いつも通りの調子でにこやかに言った。
「お断りします。私がいなくなると、支部のみなさんが寂しがるので」
その場にいた人たちのまばたきの速度が、目に見えて早くなった。
誰も返事はしなかったけれど、沈黙は承認と見なすことにした。
みんな言葉にしないだけで、きっと私を手放したくないのだと思う。
⸻
夕方。視察に来た政府高官が、私の机のまわりをくるくる歩いていた。
黒のロングコート、革の手袋、無駄のない動き。まさに高官のテンプレート。
でもなぜか、その人はずっと、机の上の紅茶ポットだけをじっと見つめていた。
もしかしたら、茶葉の産地を判別していたのかもしれない。すごい観察力だ。
しばらくして、その人は支部長にぽつりとつぶやいた。
「この人材を現場に置いとくって、どういう判断……?」
支部長は、笑顔だった。
けれど、明らかに目が笑っていなかった。口角が上がりすぎていて、あれはほとんど筋肉の悲鳴だった。
その数分後、支部長が医務室に運ばれていったという報告を聞いた。
たぶん、いろいろ溜まっていたのだと思う。支部長は真面目な人だから。
⸻
今日の紅茶は、少し渋かった。
同じ茶葉、同じ分量、同じポット。変えたのは、蒸らし時間だけ。
それだけなのに、ずいぶん味が違った。紅茶も、けっこう繊細らしい。人と同じように。
誰かが「急須で淹れるとまろやかになる」と言っていた。今度、試してみようと思う。
──そして翌日。
やっぱり一人だと寂しかったので、机は元の位置に戻した。