26、勇者がまた落とし物をとりに来た
その日、私のデスクの前に、また一人の青年がやって来た。
午前中の光はまだやわらかくて、窓辺の書類の角をほんのり金色に照らしていた。
少し肌寒かったけど、膝掛けと温かいハーブティーのおかげで、ほどよくぬくぬくしていた。
私はというと、前日に放置していた申請書類の山を、ようやく崩し始めたところだった。これがなかなか崩れない。書類って、気を抜くとすぐ繁殖する。たぶん、紙魚とかと仲良し。
そんな中、視界の端に、ぱっと明るい金色がよぎった。
光の反射かと思ったら、違った。もっとこう、意図的な光沢だった。
顔を上げると、そこには金糸で縁取られた深紅のマント。そして、肩にはギラギラした肩章。遠くからでも存在感があるというか、見た瞬間に「来たな」って思った。
彼の顔には、以前よりほんの少し疲れの色が濃く出ていた。頬はややこけていて、目元にはくっきりと寝不足の痕跡。人目を引く格好と裏腹に、ちょっとだけくたびれた雰囲気が滲んでいた。
──ああ、勇者だった。
「あのっ……本当に、すみませんでした……っ!」
彼はいつも通り、勢いよく机に両手をついて、深々と頭を下げた。
その反動で、私の紅茶の表面が小さく波打つ。カップの縁ぎりぎりまで入れていたのは、ちょっとした判断ミスだった。
私は手元のペンを置いて、やや首をかしげる。
「あれ? また何か落としました?」
「……はい。ダンジョン内で、また聖剣を……」
「そっかぁ。よく落としますね、あの剣」
「自分でもそう思います……!」
彼の声はいつもながら素直で、どこか申し訳なさそうだった。
けれど、その中にはちゃんと反省と真面目さが感じられて、怒る気にはまったくなれなかった。
というより、あの聖剣、絶対に持ち手の設計が甘い。すべり止めとかついてないし。落とす前提の武器なのでは? と思うこともある。
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ちなみに、その“聖剣”は、昨日の私が偶然拾ったものだった。
ダンジョンの岩場のすきまに、剣の柄だけがちょこんと飛び出していて。
最初は、誰かが悪ふざけで突き刺していった旗印かなにかかと思った。
けれど、引き抜いてみたら意外と重たくて──ああ、これは見覚えがあるぞ、と。
その見覚えの正体は、やたらと主張の強いデザインだった。刃には光る紋章、柄の部分には意味ありげなルーン文字。これでもかというほど中二病の香りが漂っていて、逆にちょっと好感が持てる。
とりあえず持ち帰って、うちの冷凍庫で固まっていた鶏肉のかたまりを試しに切ってみたら、これがまた、前回とは違い見事にスパスパ切れる。
霜だらけのナスも抵抗なくスッと裂けて、あまりの切れ味のよさに、ちょっと感動した。
「これは菜切り包丁にちょうどいいな」と思ったのは、きっと私だけじゃないはず。
特ににんじん。中央の硬い部分が、包丁の重みだけで切れていく感触は、まさに快感。
これは良い包丁だ。いや、聖剣か。いずれにせよ、調理器具としては非常に優秀になっていた。
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「返しますね。一応、研いでおきました」
そう言いながら、私はその聖剣を丁寧に持ち直し、彼の前に差し出した。
剣に刻まれた金色の紋章が、窓から差し込む朝日に照らされて、きらきらと反射していた。
今回はしっかり反省して、使い終わったあとにちゃんと砥石で研いでおいた。
私は失敗から学ぶタイプでありたいと、日頃から思っている。地味だけど、継続こそ力だ。
勇者は両手で剣を受け取り、まるで儀式でもするように、慎重に刃先へと指を当てた。
「……切れ味、戻ってる……いや、前より鋭い……何で……?」
「使ったら研ぐのがマナーかなって」
「えっ……いや……普通に鍛冶屋じゃないのに……」
「うち、包丁は自分で研ぐ派なので」
「それと聖剣は別物だと思います!」
彼の声はいつもよりちょっと大きかったけれど、剣を持つ手つきには丁寧さが残っていた。
きっと驚いて、ちょっと困って、それでもありがたいと思ってくれていたんだと思う。
なんとなく、そんな空気が伝わってきた。
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後日、詳しく聞いた話によると、その剣には「神気封印」というものが施されていたらしい。
神代の時代から伝わる、とても神聖で、めったに触れちゃいけない類のやつだったとか。
本来なら、認証を受けた者しか安全に扱えないらしい。暴走する可能性もあったと聞いて、ちょっと背筋がひやっとした。
でも、私が使った砥石──倉庫の隅でたまたま見つけた、やたらとぴかぴか光ってたやつ──が、どうやらものすごく高性能だったらしい。
柄に「祝福済」って小さく書いてあったから、「縁起よさそう」と思って選んだのだけど……まさか本当に聖具級の品とは。たぶん、私の運が良かったんだと思う。あと、見た目が派手なものにはだいたい意味がある。
それに加えて、私が毎日、野菜を刻みながら丁寧に手入れしていたことも効いていたらしい。
結果として、封印の安定度が増し、魔力の伝導率まで上がったとか。
聖剣って、案外そういう地道な努力に弱いのかもしれない。
……いや、もしかして、嬉しかったのかな。使ってもらえたことが。
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そして、数日後のこと。
魔術省から出た報告書に、また私の名前が載っていた。
今度は「聖剣の真価を引き出した救世の研師」として。
……なんだかとんでもない肩書きだったけど、その日私は、台所でいつも通り夕飯の準備をしていた。
「今日の夕飯はカレーだから」と言って、包丁でじゃがいもを切る。
ちなみにその包丁も、例の聖剣と同じ砥石で研いだものだった。
最近はじゃがいもの皮がするすると剥けて、切るたびにちょっと気分がいい。
もしかして、包丁もほんの少し、進化してるのかもしれない。あるいは、喜んでくれているのかもしれない。
――なんて、思いながら、私は今日もごはんを作っている。