13、同期が精神科に行った
勤務を始めてから、いつの間にか数ヶ月が経っていた。
職場と業務にも随分慣れてきて、今では毎朝ちゃんと歯を磨いて出勤できている。たぶん、成長している。
私は相変わらず、日々の仕事に誠実に取り組んでいる。
呼ばれたら向かい、頼まれたら応じ、床が抜ければ落ちる。
そして褒められたら、素直にうなずいておく。これが私の基本姿勢である。
今日もまた、穏やかな一日だった。
天気もよく、廊下の窓から差し込む朝の光は柔らかくて、カーテン越しにきらきらと埃が舞っていた。
植物たちも元気そうだったので、いつものように「おはようございます」と声をかけた。最近は葉っぱが少し揺れる気がする。返事かもしれない。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
同期のケイの様子が、なんとなくおかしいのだ。
ここ数日、目の下に隈ができていて、口を開くたびにため息が漏れている。
この部署の空気が合わないのだろうか。それとも、仕事が忙しすぎて疲れているのかもしれない。
それでも彼は律儀で、今朝も私に声をかけてくれた。
「リュカ……お前、今日も何かしたか?」
第一声がこれだった。
顔は一応笑っていたけれど、目の焦点がずれていた。夢の中に片足突っ込んでるような、そんな表情。
「はい、朝の段階でカラスを助けました。ビニールに絡まってたので」
「……それだけ?」
「それだけです。あ、あと技術室の棚が倒れていたので、拾って積み直しました」
「……それ、もしかして結界保管棚じゃなかった?」
「そうです。中に入ってた札が光ってたので、何かお役に立てたかと」
言った瞬間、ケイはその場にうずくまった。
あれほど元気がなかった人が、急に重力に負けたように崩れ落ちたので、ちょっと驚いた。
床、冷たいのに。
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その日の昼休み、ケイは姿を見せなかった。
心配になって、他の同期に聞いてみたところ、彼は今、心療室にいるらしい。
そこに行ったんだな、と思った。わかる。時にはそういう場所が必要だ。
「休むのは大事ですね。がんばりすぎはよくないので」
私はそう答えた。心の健康は、肉体と同じくらい大切だ。
実際、私も昼休みにはときどき仮眠をとる。
デスクに突っ伏して目を閉じるだけでも、頭がすっきりするからおすすめだ。
人間には、静かな時間が必要なのだ。
私はそう思っているし、たぶんこれは正しい。
⸻
午後になって、ケイが戻ってきた。
白衣のまま、少しふらふらと歩いてきて、私のデスクに両手をついた。
姿勢は立っているけれど、全体的に心が座っていない感じがした。目の下の隈は、朝よりさらに濃くなっていた。もう少しでパンダになりそう。
「リュカ……聞いていいか?いや、変なこと言うかもしれないけど……」
「はい」
私はちゃんと目を見て返事した。どんな質問でも、まず受け止めるのが礼儀である。
「お前、自分が……奇跡を起こしてるって思ってる?」
質問の方向性がすごかった。
急カーブどころではない。ほぼ直角だった。
「いえ、私自身は何もしていないつもりです。ただ、人から『すごい』と言われたらありがたく受け取るようにしています」
この辺りは社会人としての心得である。
誉められたら「いえいえ」ではなく、素直に「ありがとうございます」と言うのが最近のマナーらしい。
「……そう。うん、そうだよな。うん……」
ケイは頭を抱えた。
なんだかとても小さく見えた。背は私よりずっと高いはずなのに。
「なんで……なんでお前と話してると癒されるのかが分からないのが……一番ツラい……!」
とうとう、訳のわからないことを言い始めた。
混乱しているようだ。私の存在が癒しになるのは嬉しいけれど、それが彼にとって苦しみになっているのは申し訳ない。
私は黙って、引き出しからミントティーのティーバッグを取り出して差し出した。
ケイはしばらくそれを見つめていたが、やがて無言で受け取ってくれた。
その姿を見て、ちょっとほっとした。
やっぱり、休息は大切だ。
香りのあるお茶は、心に効く。これは母が教えてくれたことだけど、今のケイにも届いてくれたらいいなと思う。
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今日も、世界は静かにまわっていた。
私は変わらず、誰かの役に立てるように動いて、今日も何かを守った気がする。
明日も、どうか平和でありますように。
ケイのクマが少しでも薄くなっていますように。
おやすみ、リュカ。